私は、いつも思う。
無理に幸せにならなくても良いと。
自分の幸せを見つけようとした瞬間、そして、それを求めた瞬間、自分の人生を生きているのか、将又、誰かの幸せと見える人生、羨まれる人生をを生きているのかわからなってしまう。
幸せとは一体なんなのか。
単純そうで現代の日本社会においては単純ではない。
幸せという形を求めれば、時にそれは、自分への課題となってしまう。
さらに言うと、「幸せ」という言葉が描く姿が果たして自分の人生の目標かと考えたらそれは違うと私は思う。
幸せという言葉は、頭でよくよく考えて、「あ〜やっぱり私は幸せだ」と出てくる言葉ではない。頭で考えた結果出た答えが幸せならば、それは自分を誤魔化している。
「幸せかどうか」と頭で考えた時点で、私たちは何が不幸かと無意識に考えてしまっている。それも、大衆の考える不幸と自分の置かれている状況がそれよりも一段上がったと感じることで幸せと感じてしまうのだ。
それは、「私は他人より一段上に登った」という優越感が「幸せ」という言葉になって現れているだけに過ぎない。
幸せとは、溢れ出てくる言葉であると私は思う。
呼吸のように。
ため息が出ように。
そして、瞬くものであると。
と、偉そうに幸せを語っている私だが、頭では理解を深めても、人間の心というものは実に未熟なものだと感じるのだ。
時々、不安が頭をよぎる私は、幸せだと公言している人を見てとっても羨ましく思ってしまうのだ。
なぜ、私はそのように生きれないのかと。
なぜ、私は穏やかに生きることが幸せと思えないのか。
それは、私が贅沢な人間だからなのか。それとも、ひどくわがままな人間だからだろうかと。
そう思っているときは、間違えいなく他人の人生と比較したり、社会の視線を気にしたりして、自分の幸せは自分軸の幸せではなく、幸せと思われることを良しとした他人軸の人生に引き摺り込まれているのである。
しかし、この思考の癖も終止符を打ちそうだ。
今回、仕事の研修でハワイを訪れた。
その時、自身が幸せと感じる絶対値がはっきりとわかったのである。
実は、常時的な穏やかな時間の流れは、私にとってはストレスだったのだ。
私は穏やかに生きたいのではない。
私の人生において、戦いは必要不可欠なものだった。
常に自身と戦っていないと私の血は生き生きとしないのだ。
「思い切り戦い、思い切り争い、思い切り挑戦する、そして、この状況を存分に楽しむ。」
私の場合は、この状況に限る。この状況に生きて、初めて豊かさや晴れ間を感じることができるのだ。
どんなことが起ころうと命ある限り、目標に向かって前進する足を止めない。
そして、誰にも囚われない人生を歩む。
これが、私の幸せの絶対値であった。
それだけわかっただけで私はとても安心した。
研修を通して、この生き方を自分に許すことができたのだ。大きな収穫である。
一歩自分の全く知らない世界へ踏み出すことは、そこに自身の生き方とずれを感じてもそのずれが本来の自分の姿をはっきりと見せてくれる。
必ずしも、しっくりとくることだけを経験する必要はないのだ。
一歩踏み出して、違えば反対方向にいってみれば良い。または、もとの道に戻っても良いと私は思う。
そして、行き過ぎた時に、振り返ると自分の幸せの絶対値があることに気づくことができるのだ。
自身の幸せの絶対値が分からなければ、幸せと感じる晴れ間も顔出してくれない。
今、幸せがなんなのか分からなくなった方は、ぜひともまずは一歩全く違う世界へ踏み出してみることをおすすめしたい。
少し行き過ぎたかなと思うくらいに大きな一歩を。