先般、テスラの自動運転中の死亡事故がクローズアップされたが、他メーカーの自動運転車も数多く事故を起こしている。

自動運転の危険性は以前からも指揮しているが、自動運転の根本的な危険性は「空間を数値として捉えるだけでその意味を理解していない」ことにある。

テスラの場合、センサーはたったこれだけしか付いていない。
カメラによる画像解析も含めやっていることは単なる距離を数値化するだけである。
決して周辺状況の意味を理解しているわけではない。


例えば、もし小さな子供が車道のすぐ近くを歩いていれば普段より注意して車を運転するだろう。年齢や身なり前後の素行状態を注意深く観察し行動を予測する。もしボール等を持っていたらさらに慎重になるはずだ。

もし前方を初心者マークやもみじマークを付けた車が走っていれば、その挙動に普段より注視するはずだ。特に高齢者は突発的にブレーキを踏んだりする場合もあるため車間距離を普段より少し長めしたりもする。

もし後方から暴走的な走行をする車が近づいてきたらレーンを譲るなりの危険を回避する運転を行うだろう。あるいはふらふらと蛇行運転を繰り返しているような車の後ろは走らないように回避のは当然だ。

雨の日は対向車など互いの認識が低下するため安全のため普段より運転に注意する。特に夕暮れなど視覚的に確認しづらい時間帯は特に運転に注意するものだ。

崖の上から物が落ちてくる場合もある。
あるいはシカなどの野生動物が道路に飛び出してくる場合もある。田舎道では色々なものが道に飛び出してくるが、それがタヌキか?、イタチ?、イノシシ?、シカ?・・・によって対処が違うのだ。そのための標識も設置されている場合があるが自動運車は標識も理解できない。

道路には予期せぬものが常に落ちている。
たとえ自動車専用道路であっても道路から障害物がなくなることは決してない。

風は突発的に吹くものだ。
その力は大型トラックさえも転倒させる力がある。
自動運車に風を感知する機能は全くない。

全ての道が地図になっているわけではない。
特に地図の需要が少ない田舎では道路の1本の線すらない。道路は常に完全ではなく、必ずどこかが壊れ修復工事を永遠に繰り返す必要がある。そのため道路は毎日変更されているが地図はリアルタイムに変更されることはない。

人が行っている運転は単なる障害物との距離を計測して地図上をライントレーをしているわけではない。トータル的な状況の意味を理解して未来を予測しながら運転を行っているのだ。
AI祭り真っ盛りだが、残念ながらそんな機能は今の電気仕掛けのコンピュータにはない。それだけ膨大な情報を瞬時に計算するのはスパコンでも不可能だ。それをナビに毛が生えたようなゲーム機より劣るチープなチップで計算させるのだから正気の沙汰ではない。

理想家のマスクがいうような全ての車が自動運車になることは絶対にない。
自転車やバイクも縦横無尽に走り回り、トラックや特殊車両や田舎ではマストの軽トラなどは絶対に無くなることはない。そもそも作業車は乗用車と交通の意味が違うのだ。さらに根本的に人間は常に予期出来ない行動を起こす動物である。そんなカオスな世界を数値的に捉えることは不可能である。

そもそもモータリゼーションの在り方を見直すべきかもしれない。
簡単に楽に遠くまで速く移動できるという機械がもたらす恩恵は人類にそれほど有益なものか?おそらく全体的に少しテンポを遅くしてもさほど生活の幸福感は変わらないだろう。
寧ろ幸福感は増すかもしれない。

アメリカの北西部にポートランドという街がある。
過去に高速道路の拡幅工事がもち上がった時、住民運動でそれを中止し、さらに高速道路そのものを撤去してしまった。行き過ぎたモータリゼーションにNOを突きつけたのだ。その後一度廃止した路面電車を復活させている。この街には古いものを大切にして、自然や環境を大切にする若者が集まってきているようだ。オーガニックをベースとした農産物を循環させる社会的な仕組みも出来つつあるようです。
そうさせたのはポートランドの恵まれた自然環境かもしれない。
人間は環境に適応する動物なのだ。
ゴミのような大都会で暮らす人間には発想すら出てこないだろう。

一度、事故を起こせば自動運中でもドライバーに全責任がある。
そんな理不尽な車にあなたや家族の命を託せられるのか?

こういった状況でありながら自動運転を積極的に推進し、産業界と癒着する国土交通省がすでに腐敗している。燃費問題での癒着など大した問題ではないが、命に係わる判断を経済優先でされてはたまったものではない。経済優先命軽視の風潮はますます蔓延し、命よりも経済性を阻害するような発言だけで批判される有様だ。政治と経済が癒着した行き過ぎたコーポラリズムの社会では有りがちなことだ。

この国の内部統制は既に機能していないようだ。
正すべきはまず政治そのものかもしれない。