前回指摘したとおりプチコンの最大の問題点は、任天堂縛りによる閉鎖的な仕様にある。

Wi-Fiで接続され、ネットにも自由に接続出来る能力を持ちながら、何が悲しくしてマイクを音声カプラー代わりにしてパソコンとデータ通信をしなければならないのか?
しかしもその機能は標準ではなくユーザーが隙間をついて苦肉の策に創りだした裏技である。まさに笑えないギャグそのものである。

3個も搭載としてるカメラも使えないが、ファイルシステムも任天堂の暗号システムガッチリとガードされ、音声や画像は元より基本的なテキスト情報すらも外部と共有できない。ここは北朝朝鮮か?と笑うしかないほどのガチガチの仕様になっている。

これはプチコンを開発したスマイルブームが悪いのではない。
全ては任天堂の閉鎖的な間違った資産の運用にある。


任天堂の事業失敗はゲーム・キャラなどの知的資産を生かしきれなかったことにある。
ディズニーと比較しても膨大で有効な知的財産を持ちながら、それを正しい方向で活かしてこなかったことが現状の結果となったといえる。

ある意味において、オープンでないものは発展もない。
特にゲーム機などのオモチャは社会的な責任もなく単なる遊び道具のボールと同じである。
ボールはそのものには面白みはない。ただ丸いだけである。
しかしそれをどう使うかをユーザーに任せることで面白みが生まれるのである。
ガチガチにクローズするのでなく、もっとフランクな仕様で面白がって遊んでもらえる仕組み作りが必要だ。

一般ユーザが「ゲームキャラを使ったから金よこせ!」みたいなセコイ商売ではない。
もっと大人のビジネスモデルを作り上げるべきである。
簡単には「くまモン」を見習うべきだ。

その点、Scratchなどは呆れるほど全てフリーのオープン仕様になっている。
エディケーションという不法コピーすら許される学校教育的な慣習もあるのかもしれない。

キャラクター使用などは、寧ろ当時の現役時代を知らない子供達にファン層を作り、キャラクターなどの資産価値を高める効果があるだろう。もちろんScratchのような環境ではそれで商売にすることもないのだが・・・

何度も同じコードを入力することほど人生の貴重な時間の無駄使い的な行為はない。
特にコンピュータを扱うモノグサな性格のものが一番嫌う作業である。
それはコンピュータが行う作業であって人が行うものでないのだ。
おかげで創作意欲も減退するのだ。


最近気になっているのが「PICO-8」である。
プチコンと非常によく似たコンセプトの製品である。

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高性能なコンピュータに小さな窓を開けて懐古的な仕様で小さなプログラム作りとシンプルなゲームを楽しもうというものである。
まさにプログラムにおける俳句や川柳を楽しむようなもので、削ぎ落とすものの選択は芸術的な行為とも言える。
しかしその媒体においてプチコンとPICO-8は決定的な違いがある。

PICO-8の仕様
Display 128x128 16 colours
Cartridge Size 32k
Sound 4 channel chip blerps
Code Lua
Sprites 128 8x8 sprites
Map 128x32 cels
Controls 2 6-button joysticks


英語ばかりなので勘違いするかも知れないが、PICO-8は吉祥寺の「Pico Pico Cafe」を拠点に活動している日本発なのだ。



プチコンとの違いはプラットフォームの柔軟性と作品の公開性にある。
PICO-8は特別なハード環境も必要なくブラウザで誰でも無償でその作品を楽しむことが出来るのだ。



プチコンもPICO-8のような誰でもプレー出来るWEBインターフェースを開発すべきだろう。公開キーによるユーザー同士のソースの公開機能はいいがそれだけでは不十分だ。

何より大切なのはプログラム作る衝動である。
何をどうすれば作れるかではなく、何を誰に表現したいかが大切である。
たとえプチサイズのショートプログラムであっても、それは作者の意思が反映された著作物である。表現者として鍵の掛かった公開もされない書棚のために小説なんて誰も書きたくないのだ。

表現方法は広くオープンであればあるほど創作意欲が増しより優秀な作品も出てくるだろう。そういった点でプチコンはScratchやPICO-8に比べると大きく機能が劣っているといえる。いや致命的な問題かもしれない。

根本には過保護で慎重過ぎる任天堂の閉鎖的主義にあるのだろう。
安全安心だけを追求すれば淘汰的な進化もなければ何も生まれてこない。
チャレンジャーは常に危険に晒され、その紙一重の中でエクスプローラーになるのだ。

プチコンが任天堂の殻を破ることを期待したい。
それが任天堂のためにもなるだろう。