諭吉が書いた「学問のすゝめ」という著書がありますが、
超要約すれば「まぁー人生色々あるけど、とにかく勉強しろよ」と言っているわけですが、
ベースはあくまでも諭吉の主観的な話で、そうじゃない場合もあるんじゃないかな?と思うわけです。
まず勉強しろよと言われても、人には得て不得手があります。
人は体格も見た目も様々ですが、頭の構造も人によって様々です。
人は体格も見た目も様々ですが、頭の構造も人によって様々です。
単純に記憶力が優れている方や、奇抜な発想が得意な方、ぼーっとしているのが得意な方もいます。
そんな状況で頭から「とにかく勉強しろよ」は生命の多様性を無視した無謀な要求なのです。
そんな状況で頭から「とにかく勉強しろよ」は生命の多様性を無視した無謀な要求なのです。
もし諭吉がもっとハンサムで、体格も体力も優れていて、誰もが憧れる身体の持ち主だったらどうでしょう。
おそらく書斎こもって「学問のすゝめ」などシコシコと書くこともなく、もっと別な人生を歩んだと思います。
おそらく書斎こもって「学問のすゝめ」などシコシコと書くこともなく、もっと別な人生を歩んだと思います。

まぁー生まれながら持たざるものは人生をもがくしかないのですが、頭の作りも不平等なのです。
努力でなくとかなるものではありません。
物理的な分子構造の繋がりの問題ですからね。(笑)
人はそれぞれ得手とするところを伸ばせばいいのだと思います。
そのために人間は多様性をもって命を繋いでいるわけです。
何が生き残るか、それは誰にも分からないのです。
そのために人間は多様性をもって命を繋いでいるわけです。
何が生き残るか、それは誰にも分からないのです。
そんな多様な才能の中で最も大切なことは、まずは生命力です。
経済力や美しさや優しさだけが求める姿ではありません。
最後は何と言っても生命力です。
経済力や美しさや優しさだけが求める姿ではありません。
最後は何と言っても生命力です。
これ以外の絶対的な価値観はないと思います。
そのために生きている生命体ですからね。
そのために生きている生命体ですからね。
究極は生きてさえいれば合格なのです。
その時の品格や人間性は判断する人の立場や価値観によって全く変わってきます。
何が正解はありません。
その時の品格や人間性は判断する人の立場や価値観によって全く変わってきます。
何が正解はありません。
2012年の現代を生きていると思っているかもしれませんが、そうでもないです。
未だに石器時代に近い生活を楽しんでいる方もいれば、中世の生活様式を継続して生活を楽しんでいる方もいます。あるいはもっと未来の生活を楽しんでいる方もいます。
未だに石器時代に近い生活を楽しんでいる方もいれば、中世の生活様式を継続して生活を楽しんでいる方もいます。あるいはもっと未来の生活を楽しんでいる方もいます。
この日本でも明治や大正、昭和の生活様式を楽しんでいる方がいます。
どれも正解で、それぞれの生活を楽しめば良いのだと思います。
どれも正解で、それぞれの生活を楽しめば良いのだと思います。
あくまでも「学問のすゝめ」を書く姿が、
諭吉としての個人を生きる道であったというだけのことです。
諭吉としての個人を生きる道であったというだけのことです。
だから何なの?・・・と思われるでしょうが、
実はこの年末にグーグル先生から諭吉をまた1枚いただけることになりました。
有難いなーと思いながら、諭吉への思いを綴ってみました。
有難いなーと思いながら、諭吉への思いを綴ってみました。
さて、学ぶべきものとは・・・