今日はマヤ神聖暦で『ナイフ 7』(道周期)
いつぞやのスコーン。
私は…オーソドックスな方が好きかも
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先日の私のつぶやきのような記事に、温かく嬉しいコメントをいただきました。
たねまくひとさん、ありがとうございます
いただいたコメントから、私も改めてマヤの思想の根幹である「二元論」と「調和」について考えてみました。
(そんなに難しくじゃないけど)
マヤの二元論(カヴァウィル)は、「異質な二つの存在の協働による創造」という考え方です。
なんか難しく感じるけど、要するに「違うもの同士の調和で新たなものが生まれる」って感じかなぁ。
教授のお話によると、「マヤ人はあらゆるものに「調和」を願っている」とのこと。
人と人だけでなく、人と自然、人と動物、人と植物などなど…
さらには‟人と何か”だけでなく、自然と動物とか昆虫と植物とか
ありとあらゆるものに「調和」を願うのだそうです。
さて、「調和」を願う ということは
逆に言えば(?)、そこに「異質なもの」が存在するからですよね。
つまり、「調和」を実現するためには
まず、互いが「違うこと(二元性)」を知る必要があるということ。
例えば‟人と自然”とか‟人と動物”などの場合は、互いの違いは明確ですが
厄介なのは(?)人間同士だと思いませんか?(苦笑)
違いを知るどころか、「同じ人間だから」とか「家族(親子)なんだから」などと言って
ついつい違いを忘れてしまうことが多く
そして、自分の(片方の)尺度でなんとかしようとして上手く行かなくなってしまうこと、あるでしょう?
そんなことを考えていて、ふと
「それぞれが違う(二元性)」というのを知る手段の一つが、ナワールの違いを知ることなのかなぁ…などと思い至りました。
自分自身、また相手のナワールのスピリットを知るのが
「それぞれが違う(二元性)」と理解する助けになるんじゃないかな。
ナワールを知って相手を理解するとか、関りを知るというのもあるけれど
「違うこと」を知るって、実はそれ以上と言えるくらい大事な意味を持つかも。
(*ただ、ナワールの中にも「二元性」があり、ポジティブなスピリットもあればネガティブなスピリットがあるので
そこも理解が必要だし、「調和」が必要になるところです)
さて、違いを知った時に、衝突するのか調和を目指すのかスルーするのか
それはその時々で違うと思います。
でも、調和を目指さなければ、新たなものが生まれることは無いでしょう。
調和を目指す場合、「調和」ってどちらかに飲み込まれることなくバランスをとることですよね。
自分の尺度を押し通すことでも、相手の尺度に染まるでもなく
互いの尺度を認め合うのが一番ですが…折り合いをつけるのもまた一つの「調和」とも考えられます
そうやって調和を実現できた時に、また新たな視点を得られたり新たな価値観が生まれたり
可能性が広がっていくのではないでしょうか。
違うもの同士が存在するから、新しい価値観や新しい世界が創造できるわけで
それこそが「二元性」と「調和」がもたらすものと言えますよね
ま、別に異質なもの同士、無理に調和しないで勝手に存在していても良いのだけどね(←こら)
教授も「調和というのは…結局は理想ですよね」とおっしゃっていらして
受講生一同、礼儀正しく「おーい」的なツッコミを入れさせていただきました(笑)