今日は古代マヤ暦で『ワニ 2』。
“マヤ暦”的に表すと、Kin 41。
『赤い龍』と『黄色い太陽』 銀河の音は『2』。
「“マヤ暦”は占いではなく、統計学です」
かつて私が“マヤ暦”を学んでいる時に、何度も目や耳にした言葉。
そして、私自身も口にしていた言葉。
当時は、何の疑問も持たず
いや、むしろ「占いではなく、統計学」ということに誇り(?)のようなものを感じてました
さて先日、サロンメンバーであるOC2さんが、面白いサロン記事を上げてくださいました。
後半の部分で、「占いは統計学である」という言葉に疑問を投げかけていらっしゃるのですが
これを読んで…なんていうか…衝撃を受けたというか、目を開かされたというか…
これは、あくまでも私個人の感想ですが
私は、「統計学」という言葉とそれが持つイメージだけで
「“マヤ暦”は占いではなく、統計学です」という言葉を使っていたように思います。
OC2さんが本文中に書いていらっしゃり、引用されているサイトにもある
「データの量」や「データの質」が大事 なんて考えたこともなかった
“マヤ暦”が基にしている新しい暦 『ドリームスペル』を考案されたホゼ博士は
それぞれの紋章や銀河の音にキーワードを定義されたけど
「この紋章の人はこういう特性」といったようなことはおっしゃっていない…はず。
むしろ、そういった“占い的な”使い方はナンセンスとおっしゃっていた…はず。
とすると、「この紋章の人の特性はこう」と導き出すためにはデータがあった…はず。
(念のために言えば、そのデータは古代のマヤの暦ではない新しい暦の定義に基づくものだから
「古代のマヤの叡智」「古代のマヤ人が導き出したもの」ではありえませんよね)
そのデータが少なくとも、OC2さんの引用されたサイトにあるように
・ 正しい手法でサンプリングされ
・ 前提条件たる事象の発生の定義が明確になされ
・ データ量自体も統計解析に耐えるもの
であるのかどうか…。
「統計学」というからには、そういった条件をきちんとクリアにすることが必要なんだ ということを
私は、いまさらですが知りました
私は…「統計学」という言葉をちょっと安易に使ってしまっていたなぁ…と反省。
いろいろと考えさせられる、とても興味深いサロン記事でした
いろんな感性、いろんな見方、いろんな世界を知るって大事ですね