飯盛山 (福島県会津若松市) | 千囃連のブログ

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基本情報
齢16~17の少年たちによって編成された白虎隊は、戸ノ口原合戦から退却し辿り着いた飯盛山で、鶴ヶ城の天守を覆い隠す、激しい炎と濛々たる黒煙を目にする。その時、隊士の間では城に戻り戦うか、敵陣に斬り込み一人でも多く道連れにするか、激論が交わされた。結果、彼らが選んだのは自刃。捕らえられて生き恥をさらすより潔く死を選ぶ、という結論だった。ある者は腹を割き、ある者は喉に刃を突き立てる、凄惨たる光景―。新政府は彼らの遺骸に手をつける事を許さなかったが、3ヶ月後、近くの村人・吉田伊惣治らによって付近の妙国寺に密かに仮埋葬された。改葬が許されたのは明治2年。その時作られた墓は拡張され、大正15年に今の形となった。


こだわり・みどころ
眺むるは遠き鶴ヶ城、それ故の悲劇
白虎隊の自刃の地。ここには鶴ヶ城の方角を指し示す隊士の石像がある。城が煙に包まれている様を彼らが目にしたとき、実際には城は落ちてはいなかった。彼らが見たのは、周辺の武家屋敷から昇っていた煙だと言われている。しかし、自刃の地より隊士たちが見たであろう方角を見ると、鶴ヶ城は遠くかすかに。肉眼で捉えるのは難しい。それ故に、悲劇は起こった

 

城へと急ぎ、進んだ道は「戸ノ口堰洞穴」
江戸時代、猪苗代湖から会津へ水を引くため150mにも及ぶトンネルが掘られた。
5万5千人もの人夫を動員したその堰によって、2500ヘクタールもの灌漑が可能となり、会津藩に大きな恩恵がもたらされた。
そして幕末。白虎隊が敗戦し、鶴ヶ城へ急ぎ向かう道として通ったのが、かつて会津に恩恵をもたらした、この戸ノ口堰であった。

◇ぽっかりと開いた洞穴は、かつて白虎隊士が急ぎ進んだ道


今も伝えられる、白虎隊の悲劇
この地で自刃を選んだ白虎隊17名の内、1名は一命を取り留めた。名を飯沼貞吉という。彼は死ぬ事ができなかった悔恨の念から二度と会津の地を踏む事はなかった。しかし、飯沼の語りによって、白虎隊の悲劇は後世に伝えられることとなる。現代、白虎隊の墓前で4月24日と9月24日に行われる、慰霊祭と高校生による剣舞。今でもその悲劇は語り継がれている

 

                                                            会津物語より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水無月限定御朱印

 

 

有料のエスカレーターのチケットを販売しているところで書いて頂ける御朱印

参拝記念の押印。「会津の華と名を残して 忠烈 白虎隊」

 

 

国の重要文化財・さざえ堂付近にある宇賀神堂の近くになる売店で頂けるスタンプの御朱印「忠烈義烈 白虎隊十九士霊神」

( 見本 )

 

 

 

七日町観光案内所で授与している『会津東軍墓地』

見本

 

 

  飯盛山 飯盛分店 白虎隊墓守自宅 FB

 

 

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