『作品を作る側のアート』について書こうと思います。
僕自身これ程曖昧で抽象的なものは無いんじゃないかと思う訳ですよ。
僕の持論では、任意に新しく何かを生み出した人間が「これはアートです」と言ったら、もうそれは『アート』なんです。
それは音楽であったり、絵画であったり、映画であったり、建築物であったり…
もっと言えば、そこら辺に転がっている石を集めて無造作に作ったオブジェもアートです。
あらゆる物で散乱し、散らかしっぱなしになってる部屋ももしかしたらアートなのかも知れませんね。(笑)
ここで重要なのは、まずそれらが“人間の手によるもの”であるということ。
さらに“その人の意思によるもの”であるということ。
そしてそれに“『思い』や『テーマ』などが存在する”ということ。
アートを生み出す上で必要なことは、今思い付くだけで上記の3つくらいです。
なので人間の手から離れた所で、完全に自然発生的に成り立っている事象や事物に関しては僕は『アート』では無いと考えています。
逆に言えば、自分の考えたテーマに基づいて、自らの手で、あるいは考えで構築したものや所作などの全てが『アート』です。
周りを見渡して下さい。
パソコン、
食器棚のデザイン、
CDのジャケット、
車のフォルム、
家具、
飾ってある写真、
今着ている服、
全てアートです。
で、実はそれらに本質的な価値は無いと思っています。
それらはただそこにあるだけ。
僕ら消費者が『共感的理解』と『ニーズ』によってこれらに勝手に価値を見出だしているだけです。
しかもこれはかなり偶発的な現象であり、『自分が生み出したアートに他人が共感する』というのは恐らくほとんど運によるものであると考えています。
だからアートには『大衆向けであるもの』と『そうでないもの』があるんですが、前者は人間の共通理解に如何に近付けるかということに特化した、消費者主体のものです。
分かりやすくすると『売れるもの』と『売れないもの』ですね。
でもそれは『商品』としてお金が発生するから話がややこしくなるだけです。
僕は本質的には『アート』=『商品』ではないと考えます。
アートはもっと単純で純粋であり、原始的でスピリチュアルなものです。
体系的な理論や歴史的背景、流行を鑑みるのは手段であって義務ではありません。
…長くなりそうなので今回はここら辺で。
僕自身これ程曖昧で抽象的なものは無いんじゃないかと思う訳ですよ。
僕の持論では、任意に新しく何かを生み出した人間が「これはアートです」と言ったら、もうそれは『アート』なんです。
それは音楽であったり、絵画であったり、映画であったり、建築物であったり…
もっと言えば、そこら辺に転がっている石を集めて無造作に作ったオブジェもアートです。
あらゆる物で散乱し、散らかしっぱなしになってる部屋ももしかしたらアートなのかも知れませんね。(笑)
ここで重要なのは、まずそれらが“人間の手によるもの”であるということ。
さらに“その人の意思によるもの”であるということ。
そしてそれに“『思い』や『テーマ』などが存在する”ということ。
アートを生み出す上で必要なことは、今思い付くだけで上記の3つくらいです。
なので人間の手から離れた所で、完全に自然発生的に成り立っている事象や事物に関しては僕は『アート』では無いと考えています。
逆に言えば、自分の考えたテーマに基づいて、自らの手で、あるいは考えで構築したものや所作などの全てが『アート』です。
周りを見渡して下さい。
パソコン、
食器棚のデザイン、
CDのジャケット、
車のフォルム、
家具、
飾ってある写真、
今着ている服、
全てアートです。
で、実はそれらに本質的な価値は無いと思っています。
それらはただそこにあるだけ。
僕ら消費者が『共感的理解』と『ニーズ』によってこれらに勝手に価値を見出だしているだけです。
しかもこれはかなり偶発的な現象であり、『自分が生み出したアートに他人が共感する』というのは恐らくほとんど運によるものであると考えています。
だからアートには『大衆向けであるもの』と『そうでないもの』があるんですが、前者は人間の共通理解に如何に近付けるかということに特化した、消費者主体のものです。
分かりやすくすると『売れるもの』と『売れないもの』ですね。
でもそれは『商品』としてお金が発生するから話がややこしくなるだけです。
僕は本質的には『アート』=『商品』ではないと考えます。
アートはもっと単純で純粋であり、原始的でスピリチュアルなものです。
体系的な理論や歴史的背景、流行を鑑みるのは手段であって義務ではありません。
…長くなりそうなので今回はここら辺で。