歯医者さんとの来し方を記録しておきたくなった。
正直これから仕事しなければならないから、そんなことやってる場合でもないのだが、
今朝行きつけ(?)の歯医者に行ってきて、久々に「痛かった」。
神経を、やられた。
今朝は寝起きの頭痛がひどかったのに、それがほんの一瞬の痛撃で、頭痛の方が退散するほどだった。
(今朝の歯医者さんは、のちに触れるが「良医」と呼べる先生で、これまで痛みや治療方針で不満を感じたことはなかったのだが、今朝の痛みは不意をつかれた)
帰りの道すがら、これまでの人生における歯医者さんとの「格闘」の歴史が、蘇ってきた。
この主戦場で、私は常に敗北感しか味わったことがない(この点で敗者の記憶しかない)。
そもそも歯を大事にしない(甘いものをむさぼる、歯をきちんと磨かない、すぐに歯医者に行かない)という負い目がそうさせるのだろう。
この今朝の感慨を、時間の経過とともに忘れてしまうのは、もったいない気がした。
ええい、仕事は午後からだ。
私の最初の歯医者通院の記憶は、就学前の記憶に乏しい自分にしては珍しく、鮮明に覚えている。
それは、おそらく5歳前後だと思うが、自宅の近くではないそこそこ遠方の歯医者だった(たしか千代田区から荒川区まで出かけた)。
なぜ子供がそんな遠くの歯科医院に行ったかというと、その歯科医が、父の『戦友』だったから、それだけである。
私の父は、第2次世界大戦(太平洋戦争)の末期に、ご多分に漏れず「学生」の身ながら、「戦士」になった一人である。
父にとって当時のことは、つらい記憶だからだと思うが、思い出をつまびらかに聞いたことはあまりなかったが、
それでも父が10年近く前に「高齢で死ぬまで」、戦時中亡くなった戦友から、父の直前に亡くなった戦友に対してまで、
友情という言葉では軽すぎる特別な感情を抱いていた(母にとっては終生それが「嫉妬」の対象みたいな感さえあった)。
戦後の父の職歴はともかく、その後の対人関係を見てもさほど社交的とは言えず、
どちらかと言うと根が研究好きで商売下手、子煩悩ではあっても教育熱心というよりむしろ放任主義の人だったが、
それでも私は父の戦友の方とは、長じるまでたびたび出会わされた。
父は今でいう大学の工学部に在籍し(当時の工業高等専門学校で、エンジニアではなくエンジンを研究していた)、
日本の戦況が思わしくなくなった20歳直前に、海軍航空隊に志願して、下級士官となった。
陸軍はあまり好きでなかったので「志願して」海軍に入隊した、とよく言っていたが、飛行機には乗りたかったようだ。
(余談ながら、これだけ書いて自分がことごとく父に似ていないと思わざるを得ないのが、オタク的理科系なところと、飛行機好きなところだ)
で、海軍航空隊では「幸いなことに」戦地には行かず、しばらく訓練した後に『教官』職が与えられた(しかも特攻出撃の直前に終戦)。
戦前の軍部というところは、その後の歴史評価でとかくあげつらわれる組織ではあっただろうが、
有名無名、軍人兵隊を問わず、末端に至るまで、こと「適材適所」という点は間違ってなかったように思う(後年の父を知るものとして)。
さて、その父の所属した地方都市の部隊(郡山第二航空隊)には、多くの若者が、様々な階級で集ったわけだが、
その中に「歯医者」がいたのだ。
「軍医」というのはよく聞くが、「歯医者」もいたのだ。
思えば、戦争は、究極のところ対戦国の兵を殺すか動けなくすることが目的の残酷な営みで、それを実行する最前線の人間の集団を真っ先に思い浮かぶものだが、
ほかにも作戦机を前に悩む人間、三度の飯を作り運ぶだけの人間、戦争用の工作機械を研究する人間、作って売る人間、それを記事にして発表する人間など、様々な職業人が集う。
そうした様々な人間のうち、どこらへんまでを「出入業者、関連業者」でまかない、どこらへんまでをいわゆる「軍人(階級もある)」とするのかは「軍」という組織のあるべき姿、そのとらえ方なのだろうが、
なんと歯医者は軍人だった(ふと、歯医者というコトバの響きは軍にとって縁起が悪そうな気がするのだが・・・)。
さて、その「父の戦友の」歯医者さんは、幼い私にとっては、当時、知りもしない単語ながら「軍人」にしか見えなかった。
(晩年に父と戦友たちとで旅行をする姿を見て、とてもそんな種族には見えないほど好々爺だったが・・・)
それはそれは怖かった、痛かった、もう治療椅子が死刑執行の電気椅子にしか記憶できないほどだった。
腕のいい歯医者さんだったかどうかは分からない、ひょっとしたら大変な名医だったかもしれないが、今となってはそんなことは関係ない。
(なおお嬢様が後を継いだというから、誤解のないよう、決して恨んでいたりするものではないことをお断りする)
思えば、自分が虫歯をひどくしすぎたから治療も痛かったのかもしれないし、生まれてから経験したことのない種類の痛みで、しかもそれが治療という「正当行為」で逆らうことのできない恐怖が、痛みを増幅させたのかもしれない。
たしか、半地下に降りる建物の歯科医院だったと思うが(これとても恐怖を煽った)、治療椅子に座りライトが顔に照らされ、あの機械音が聞こえるやいなや、号泣した。
思えば、子供の頃は、痛いという理由でよく泣いた。
子供と大人の違いは、何を理由に泣いたか、という質問でも明確になるように思う。
(両者ともに共通する理由の涙は「別離」の時だけだと思う)
大人になって涙もろくなったのだが、自分は子供の頃「そんなことで」泣く子ではなかったが、痛みには涙もろかった。
でも、よく考えると、転んで擦りむいたり、石をぶつけられて額から血を流したり、体罰(!)を教師から受けたり、溺れかけたり(これは痛みというより苦しみ)いろいろ泣く場面はあったはずだが、その時はそんなに派手には泣かなかったと思う。
むしろ、おもちゃを買ってもらえないとか、姉にからかわれたとかの方が、派手に泣いた記憶がある。
ではなぜ、歯は、ほかと違ったのか?
たぶんそれは、擦りむいたり叩かれたり腫れたりという物理的現象と痛み度合は子供心に「比例しているもの」と理解できたのに、歯は「比例しておらず」得体が知れなかったのだと思う。
つまり、歯の治療は、自分の目でその様子が見えないだけではなく、まさに「神経戦」だったのである。
味方の被害を把握できない状況で敗北感だけが深刻になる。
ところで、その子供の頃の私が、「軍医」の医院外まで響き渡るほどの大声で号泣してしまい、歯の治療を妨害するものだから、
父はいつも待合室で困惑していた。
晩年まで、そのことをよく話題に持ち出されたほどだ。
もちろん、「軍医」は父と「戦友」、しかも特に親しい方だったから、その息子の態度を気に病んでいる様子はなかったのだが(笑っていた)、
父は、かなり恐縮していたように記憶している(「軍医」の方が年が上で階級もひとつ上だったらしい)。
私としては、父の戦歴に傷をつけてしまったのではないか、と悔やまれる出来事だ。
さて華々しい歯科医院デビュー後の私の歯医者遍歴は、きらびやかである。
おそらく、今通っている歯科医院に出会うまで、10人近く乗り変えた。
まず、一人で歯医者に行ける年齢になってから、近所の歯科医院だけで4件は変えた。
校医だったり、徒歩1分だったり、友人の父だったり、通院を嫌がる自分を何かしら勇気づける正当性を見つけてから出かけたものだが、
たいていは、ひととおり治療が完了するか何度か通ってから、そこには行かなくなった。
そんな自分を不憫に思ったのか、親か姉どちらのツテなのか思い出せないが「名医」を紹介され(情報元は姉)、
中学生当時、電車で40分近くかかる歯科医院に通うようになった。
なぜそこの先生が「名医」かと言うと、その先生が「舶来」だったからなのだ。
最近こそ珍しくないが、医院名も当時の英語力では翻訳不能の横文字で、それだけで凄い名医に感じた(35年以上前)。
そのアメリカ帰りの先生は、しかし当時の私に対し、とんでもない荒療治をほどこした。
なんと、前歯(もう永久歯になっていた)を4本根こそぎ抜いて(削って?)、差し歯(人口の歯)に入れ替えたのだ。
当時の説明では、繰り返し虫歯を発症するこの前歯は、周辺も含め根本的に虫歯にならないようにするほかない、とのことだった。
子供心に泣いた(これは「別離」の悲しさというべきか)。
しかしながら「名医」の言うことには従わざるを得なかった。
結論から言えば、それ以降、歯医者に通う回数は激減した(でも出っ歯になってモテなくなったようにも思う)。
というより、それ以降、「別離」の悲しさが奏功したのか、歯医者と距離を置こうと、きちんと歯を磨くようになった。
その後成人してからしばらくして、たしか就職したころ、歯を患った。
ところが、しばらくご無沙汰したからか、適当な歯科医の見当がつかなかった。
その時は、舶来歯科医を紹介した姉とはまた別の姉に紹介してもらったのだが、新宿の駅近だし腕はいいのだろうとだけは思った。
思えば、最初に医院の扉を開ける時の記憶が今も残っているから、よほど歯医者が苦手なのだろう。
ドキドキして治療を受けた歯科医は、私の歯科医に対するイメージとはかけ離れた、おyそ風変わりな先生だった。
べらんめい調、というか、下町の町工場のおやじっぽい人だった。
だから治療も町工場の旋盤のようにガリガリいくかと思いきや、伝統工芸のようにソフトタッチだった。
(後で調べて知ったのだが、歯学で超有名な国立大学出身かつそこの非常勤医師か何かで、権威ある学会のメンバーにもなっていて、その医院では常勤の雇われ店長みたいな立場だった)
治療方針の説明とかも下町出身の自分にもわかりやすいべらんめい調で、「痛いときは右手を上げて訴えてくれ」と、およそアクシデントの際のメンツを気にしない人で、
痛い時だけでなく、どんなことでも気軽に話せた。
その先生は珍しい苗字(氏名の氏)で、関東地方のある地域に特有だったので、つい「出身地」を言い当てたところ、大変気をよくしてくれた。
調子に乗って今度は、その先生の息子さんと推測できた「同姓」の方が、歯科医師国家試験合格者だったか何かの名誉ある記事に掲載されていたのを見たことを告げたら、今度は料金をまけてくれた(ホントかいな)。
20代の時は、その歯科医院を「顧問先」にしたのだが、いつからか歯科医院に行くことが「苦痛」ではなくなっていた(自分のために積極的に早期に歯科治療をするようになった)。
舶来歯科医に出っ歯にされた前歯も、たまたまその一部の治療をきっかけに、(給料を得て貯金が使えたこともあり)思い切って4本とも新調した。
(出っ歯ではなくなったが、そこからモテ始めたわけでもなかったので、舶来歯科医に対するわだかまりも消えた)
思えば、名医に合うことは、ご縁だと思う。
一方で、治療技術そのものが日進月歩であることも否めないから、昔の医者がやぶなどと早計に判断することも間違っている。
現在の名医と思える歯科医だって、昔の治療技術では痛かったかもしれないし、
現在のやぶに思える歯科医でも、同じ治療であればほかと大差ないのかもしれない。
それでも、自分が思うのは、医師と患者が、きちんとコミュニケーションをとれるかどうかは大事だと思う。
自分から「やぶです」、と名乗る医師はいないとは思うが、やぶな医師ほど、あまり多くを語りたがらないように思う。
語る自信がないか、さもなくば語るだけの「心の余裕」がないのだ。
現在通っている歯科医の先生は、名医だと思う。
新宿のべらんめい先生がその後いなくなってしまったから変えた、とも言えるのだが、
30代になってから、かれこれ20年近くお世話になっている。
20年と言っても、虫歯や歯の治療は、それこそ忘れた頃に行くものだから、年に数回しかお目にかからないが、
この長期間、差し歯が外れた時も、親知らずが親の他界後に初めて痛んだ時も、頼った。
「治療時間より説明時間の方が長いんじゃないか(?)」
「説明はいいから早く治療してくれ(笑)」
というくらい入念に選択肢を示し同意を得てから、治療を始める。
たまに治療の最中にも説明が入り、首も触れない状態から、ふがふがと返事をすることもある。
治療技術も進んできただろうから、子供の頃のような痛みや恐怖は、滅多に感じない。
それだけに、今日のズキンという、治療中神経を一瞬やられた時は、まいった。
その後数分間、みるみる額にあぶら汗をかき、身体を硬直させて治療の終了を待った。
次回の予約日時を「10月10日10時10分」と診察券に記入された、普段あまり話をされない歯科助手(先生の奥様)が、その数字のゴロ(並び)に驚嘆して笑って話しかけてきたものだが、たぶん自分が治療直後の「固い表情」のままだったからなのだと思う。
あとはもう、いつまで、自分の歯と痛いつきあいを続けられるのか、この歯科医院に通えるのか、を考える。
自分も歯科医もそうだが、個人事業主というのは、やがて終わりが容赦なく来る。
痛いうちが花か。