先日、リリースされたボブ・ディランのニューアルバム「テンペスト」を最近では毎日のように聴いている。
現役の大物ロックミュージシャンが新作をリリースすると、それを無条件に誉め称えなければいけないという風潮がいつからか出来上がってしまい、前評判を鵜呑みにし、期待して聴いてみたものの実際の中身はアレレ…なんてことは決して少なくない。
そこで今回のディランの新作、毎度のことながらジャケットが意味不明すぎて、最初はそれだけで聴く気が失せるが、肝腎の中身のほうは前評判どおりの力作だと断言したい。
21世紀を迎えて以降のディランのアルバムはロックであり、ブルースであり、あるいはカントリーやフォークでありといった具合に、さまざまな伝承音楽の要素が散りばめられて、そのどれもが聴くに値する内容だと思うが、今回のアルバムも基本的には近年のディランの路線から大きく逸れてはおらず、ルーツミュージックへの回帰路線と70年代の自身の作品を彷彿とさせるような重厚さが合わさった見事な内容に仕上がっていると思う。
アルバムを聴いた最初の印象として、まずディランの声質の変化を感じた。
ディランの歌声は周期的に変化してきたが(意図的に声質を変えているようにもみえる)、前作、前々作あたりから、それまで20年くらい安定していた鼻にかかるフニャフニャ声が消え、押し潰したようなダミ声を発するようになった。
それが今回はさらに徹底され、聴きようによってはルイ・アームストロングかトム・ウェイツのようにも聴こえる。
収録曲のほとんどは、例によって起伏のない単調なメロディーと理解不能な歌詞が延々と繰り返され、サビすら存在しない曲まである。それは聴きようによっては、お経を唱えているのを粛々と聴いているような気分になってくる。
ディランと長く付き合っていくには相当な忍耐が必要だが、今回の「テンペスト」も、それ相当の忍耐力を要するアルバムだ。それは言い換えると、ほとんどのディランのアルバムがそうであるように今回の作品もディランのファン以外には、とても薦められない。
アルバム後半ラスト3曲に9分超、13分超、7分超といった大作が立て続けに収録されており、これなんかも長年鍛えられてきたディランファンにはたまらない流れだが、普通のリスナーの耳には、けっこうシンドイ展開なのではないだろうか。
極論を言うとディランみたいなタイプの音楽は徹底的に聴き込むか、あるいはまったく聴かないかの二通りしか選択肢がないように思える。そしてたまたま自分は前者に属する人間だったのだろう。
自分の経験にそくしていうとディランのファンになったきっかけはライブだった。
ようやくディランの音楽が解りかけてきた頃に初めてディランのライブを体験し(97年2月)、あのときから自分は本当の意味でディランを好きになったのだと思う。
今までの人生で、おそらく千回近くのライブを観てきたと思うが、あの晩に観たディランのコンサートは、生涯で五本の指に入るくらい特別なものだった。
1988年にスタートした「ネヴァーエンディングツアー」は驚いたことに今年で四半世紀になる。(信じられないことだが25年間休むことなく、いまだに年間100本近くのライブをディランは旅芸人さながら世界中のどこかで行っている)
この秋もマーク・ノップラーをゲストに迎え入れアメリカで「終わりなきツアー」を開催しているディランだが、こうなるとどうしても気になってくるのが来日公演である。
70を過ぎた今、さすがにあと何度も日本にくることはないだろうし、もし次の来日が実現するとしたら、それが最後の来日公演になる可能性は常識的に考えて、かなり高いと思う。
またシェークスピアの最後の作品が「THE TEMPEST」であることから、今回のアルバムタイトルは引退を示唆するものではないかとも言われているが実際のところはどうなのだろう。
ディランが終わるとき、やはりロックも終わるのだろうか。
現役の大物ロックミュージシャンが新作をリリースすると、それを無条件に誉め称えなければいけないという風潮がいつからか出来上がってしまい、前評判を鵜呑みにし、期待して聴いてみたものの実際の中身はアレレ…なんてことは決して少なくない。
そこで今回のディランの新作、毎度のことながらジャケットが意味不明すぎて、最初はそれだけで聴く気が失せるが、肝腎の中身のほうは前評判どおりの力作だと断言したい。
21世紀を迎えて以降のディランのアルバムはロックであり、ブルースであり、あるいはカントリーやフォークでありといった具合に、さまざまな伝承音楽の要素が散りばめられて、そのどれもが聴くに値する内容だと思うが、今回のアルバムも基本的には近年のディランの路線から大きく逸れてはおらず、ルーツミュージックへの回帰路線と70年代の自身の作品を彷彿とさせるような重厚さが合わさった見事な内容に仕上がっていると思う。
アルバムを聴いた最初の印象として、まずディランの声質の変化を感じた。
ディランの歌声は周期的に変化してきたが(意図的に声質を変えているようにもみえる)、前作、前々作あたりから、それまで20年くらい安定していた鼻にかかるフニャフニャ声が消え、押し潰したようなダミ声を発するようになった。
それが今回はさらに徹底され、聴きようによってはルイ・アームストロングかトム・ウェイツのようにも聴こえる。
収録曲のほとんどは、例によって起伏のない単調なメロディーと理解不能な歌詞が延々と繰り返され、サビすら存在しない曲まである。それは聴きようによっては、お経を唱えているのを粛々と聴いているような気分になってくる。
ディランと長く付き合っていくには相当な忍耐が必要だが、今回の「テンペスト」も、それ相当の忍耐力を要するアルバムだ。それは言い換えると、ほとんどのディランのアルバムがそうであるように今回の作品もディランのファン以外には、とても薦められない。
アルバム後半ラスト3曲に9分超、13分超、7分超といった大作が立て続けに収録されており、これなんかも長年鍛えられてきたディランファンにはたまらない流れだが、普通のリスナーの耳には、けっこうシンドイ展開なのではないだろうか。
極論を言うとディランみたいなタイプの音楽は徹底的に聴き込むか、あるいはまったく聴かないかの二通りしか選択肢がないように思える。そしてたまたま自分は前者に属する人間だったのだろう。
自分の経験にそくしていうとディランのファンになったきっかけはライブだった。
ようやくディランの音楽が解りかけてきた頃に初めてディランのライブを体験し(97年2月)、あのときから自分は本当の意味でディランを好きになったのだと思う。
今までの人生で、おそらく千回近くのライブを観てきたと思うが、あの晩に観たディランのコンサートは、生涯で五本の指に入るくらい特別なものだった。
1988年にスタートした「ネヴァーエンディングツアー」は驚いたことに今年で四半世紀になる。(信じられないことだが25年間休むことなく、いまだに年間100本近くのライブをディランは旅芸人さながら世界中のどこかで行っている)
この秋もマーク・ノップラーをゲストに迎え入れアメリカで「終わりなきツアー」を開催しているディランだが、こうなるとどうしても気になってくるのが来日公演である。
70を過ぎた今、さすがにあと何度も日本にくることはないだろうし、もし次の来日が実現するとしたら、それが最後の来日公演になる可能性は常識的に考えて、かなり高いと思う。
またシェークスピアの最後の作品が「THE TEMPEST」であることから、今回のアルバムタイトルは引退を示唆するものではないかとも言われているが実際のところはどうなのだろう。
ディランが終わるとき、やはりロックも終わるのだろうか。