杉原千畝に関する展示会を見る機会があり、以降、興味を持ち手に取る。

外交史料館に勤める著者が”発掘”した数々の資料の断片を繋ぎ合わせて、

”人道主義者”だけでは語り切れない杉原千畝の姿を描き出す。

ただ人道的な精神に富んでいるだけでは、これだけのことをなし得ることはできず、

複雑な国際情勢の中、冷徹に国益の最大化のために最善解を導きだす能力、

実行のために半ば本庁の意向に逆らいながらも、ビザを無効にしないための官吏的能力。

そうした”能吏”、”情報士官”の一面があって、はじめてあの規模のビザ救済が実現できたことがわかる。

 

また、杉原の狙い通りになった、と言っていいのだろうか。

彼のビザに救われたユダヤ避難民たちは、実際に、その恩を忘れることなく数10年たった後でも彼を見つけ出して顕彰し、その事実は少なからず、その人々と日本の友好の礎になっており、国益にも利している。これがほかの集団であったならば、ここまで語り継がれ、現在の私たちが知りうることに至っただろうか。

それも含んでの救済の決断だったのであれば、その先見の知性にはなお驚きを禁じ得ない。

 

 

主題からは外れるが、杉原のような現場に通じる能力のある能吏を積極的に戦略的な地に赴任させる当時の外務省の戦略性に、意外な印象を受けた。

大戦時、判断を誤らぬようにするだけの情報を中央は現場から報告されていた。

(それらの多くは現場の多大な努力や危険と引き換えに得られたもの)

にもかかわらず、それらは判断時に重要視されず、結果的には誤った選択がなされた。

正しい情報がなかったのではなく、あったけど参照されなかった、生かされなかった、というところに、情報に生きた杉原たちの無念の思いを感じる。

また、これらは他人事でもなく、また日々の企業の経営判断でも同じように起きていることではないだろうか。

 

 

文化の違いを論じる時によく、”西洋に比べて日本は〇〇”ということを口にしがちだが、

よくよく考えると、西洋とだけ比べるのであれば、それは、”西洋に比べて我々東洋は~”

と言っているにすぎず、本当に日本固有の”日本らしさ”を論じているわけではない。

そこで、西洋との比較、中国の大陸文化との比較に加え、韓国との違いを知ることが、世界の中で、本当の”日本らしさ”を知るための重要なアプローチである、というのは面白い指摘である。

昨年読んだ下記の新書に紹介されていたことから、曰く”日本人論中の最高傑作”である本書を手に取る。

 

 

本書では、日本文化の特徴を、”縮める”という動詞で表現する。

弁当・風呂敷・扇子・折り紙・半導体、それら日本を特徴づけるものとして挙げられる多くのものは、すべてもともと大きかったものを機能をそのままに、さらに小さくなることで新たな価値をもった”縮め”られたもの。

ソトとウチ、という独特の概念を持つ日本文化は、ソトにある新しいものに触れる度に、それをウチに”縮めて”再現し体得してきた。地続きの大陸国でないため、ソトの事物を都合のいいものだけ取り入れ、望まないものは拒絶することが物理的に可能だった歴史の影響だろうか。

 

過去に大陸に侵略した歴史や、20世紀後半の一時期世界市場を席捲した日本製品など、縮みとは逆の”拡がり”を見せたときは、結局、それをどこまでに留めていいか、また維持していいかもわからず、短期間で破綻していることを見れば、日本文化はよっぽど”拡げる”ことが苦手、縮みの天才は拡がりの愚者なのだろうか。

同じ様な複雑なモータやエンジンなのに、どんどん小さくする小型化はすぐに”世界最小”を更新し、航空エンジンのような大きなものはからっきし産業としても育たない。

世界の一員として、本来の得意な能力を発揮するためには、これまで日本人が”ソト”として無関心だった世界を、”ウチ”のこととして捉える、苦手だったりよくわからないことに目を背けないことが、一つの突破口になるかもしれない。

無理して不得意な”拡がり”を日本から強制するのではなく、異なる社会においても、本来の大きなものを”縮める”ことで貢献しうるのではないだろうか。

 

フランシス・ベーコンが植民政策を植木に喩えて、「海を越えて広い新大陸の広闊な地平線に木を植えよう」と、」声を大にして呼びかけた”Plantation”(植木=植民)を書いているとき、ポルトガル人ら白人はもとより、国内人の渡航まで堅く禁じていた三代将軍徳川家光は、小さな盆の上に木を植えていました。

そして城中吹上の花畑に棚をもうけて数々の盆栽を並べ、そのこぢんまりとして精緻な木の枝を玩賞して微笑を浮かべていたのです。 p147

そもそも、西洋文化の人間と日本人では、木の楽しみ方からして違う。日本人は、手元に小さい”木”を弄るだけで楽しく、十分満足できてしまう。

 

「縮み志向」から「拡がり志向」に出た場合には、日本人はいったいどんなふうになるのか。

十五尺の狭い土俵だからこそ、瞬間的に相手の力を利用して地に這わせるはたきや引き技が出てくるのですし、勝負の半分以上を占める突き、押し、寄りの技が有効となっているのです。

かりに土俵という境界が取り払われてしまったなら、いったいどんな格好で相撲をとるだろうか。おそらくこの質問に答えることが、いまの日本に対して答えることにもなるでしょう。p292