歴史上には様々なことで名を遺した人物がいます。
そんな人たちであってもすべてがうまくいった、などという人物はまずいません。中には、様々な理由で障害者となりながらもたくましく生きた人物もいます。
という事で、今回は天然痘ウイルスに感染したことで両目の視力を失いながらも戦場に立った「香西佳清(こうざいよしきよ)」という人物を取り上げます。
香西佳清は、1553年から1588年(戦国、安土桃山時代)にかけて生きた讃岐(現在の香川県)の人物です。失明後は「盲目の大将」と呼ばれました。
彼は1553年に讃岐国で生まれました。父は香西元成(こうざいもとなり)とも、香西元載(こうざいもととし)とも言われています。
さて、この頃の讃岐は機内と阿波(現在の徳島県)を合わせた大勢力を誇っていた細川家の影響下にありましたが、その細川家が家臣の三好氏の台頭によって没落すると、今度は三好氏の影響下に置かれました。
1568年に父が中国地方の毛利家との戦いで戦死すると家を継いだといわれています。
1570年になると、機内において織田信長が進出してくるようになり佳清の属する三好氏はこれに対抗して戦いとなりました。野田・福島城の戦いです。
この時、佳清は天然痘に罹って視力を失った、と言われています。
この天然痘に罹った人物としては他に伊達政宗が有名です。
政宗も幼少の頃に天然痘となり、片目を失明しています。
政宗は片目の失明でしたが、佳清はこの時両目の視力を失いました。
あの伊達政宗でさえ、片目を失った直後はひどく落ち込んでいたという話がありますし、肖像画には失明した片目のことは描かれていません。片目なのが相当コンプレックスだったのでしょう。
伊達政宗でさえそうだったのですから、香西佳清もかなりつらかったと思います。
そんな彼は、失明した後も三好氏の武将として地元、四国だけでなく中国地方に遠征するなど各地で戦いました。もしかすると、彼のハンデである視力をカバーしてくれる優秀な家来がいたのかもしれません。
しかし1574年になると三好氏の当主だった三好長治(みよしながはる)という人物が四国において身内の権力を強めて、佳清のような地方の豪族を軽く見るようになりました。これを不満に感じた佳清は長治に「こんなことはやめたほうがいい」と伝えますが、長治はこれを受け入れずにかえって佳清の城に攻めてきてしまいます。この時、他の地元豪族たちは佳清に味方したために勝つことができました。
そうしているうちに三好氏は織田信長との戦いで勢力を失い、佳清は織田信長に属することになります。
この後、香西氏は内輪もめが続き叔父の羽床資載(はゆかすけとし)と戦いになったかと思えば家督を巡って佳清の弟を担ぎ上げる人物が出てきたりと不幸が続きました。
佳清が盲目であるがゆえに、快く思わない家臣が多くいたのかもしれません。
内輪もめが続いてボロボロになった香西家ですが、1582年に衝撃的な出来事が起こります。本能寺の変です。
本能寺の変によって織田信長が死んだことによって、織田家は混乱状態となり四国に手が回らなくなってしまいました。
そうなったところで今度は土佐(高知県)の武将、長宗我部元親が攻め込んできたのです。これに対して佳清は必死で戦いますが敵わず、降伏することとなりました。
そんな人たちであってもすべてがうまくいった、などという人物はまずいません。中には、様々な理由で障害者となりながらもたくましく生きた人物もいます。
という事で、今回は天然痘ウイルスに感染したことで両目の視力を失いながらも戦場に立った「香西佳清(こうざいよしきよ)」という人物を取り上げます。
香西佳清は、1553年から1588年(戦国、安土桃山時代)にかけて生きた讃岐(現在の香川県)の人物です。失明後は「盲目の大将」と呼ばれました。
彼は1553年に讃岐国で生まれました。父は香西元成(こうざいもとなり)とも、香西元載(こうざいもととし)とも言われています。
さて、この頃の讃岐は機内と阿波(現在の徳島県)を合わせた大勢力を誇っていた細川家の影響下にありましたが、その細川家が家臣の三好氏の台頭によって没落すると、今度は三好氏の影響下に置かれました。
1568年に父が中国地方の毛利家との戦いで戦死すると家を継いだといわれています。
1570年になると、機内において織田信長が進出してくるようになり佳清の属する三好氏はこれに対抗して戦いとなりました。野田・福島城の戦いです。
この時、佳清は天然痘に罹って視力を失った、と言われています。
この天然痘に罹った人物としては他に伊達政宗が有名です。
政宗も幼少の頃に天然痘となり、片目を失明しています。
政宗は片目の失明でしたが、佳清はこの時両目の視力を失いました。
あの伊達政宗でさえ、片目を失った直後はひどく落ち込んでいたという話がありますし、肖像画には失明した片目のことは描かれていません。片目なのが相当コンプレックスだったのでしょう。
伊達政宗でさえそうだったのですから、香西佳清もかなりつらかったと思います。
そんな彼は、失明した後も三好氏の武将として地元、四国だけでなく中国地方に遠征するなど各地で戦いました。もしかすると、彼のハンデである視力をカバーしてくれる優秀な家来がいたのかもしれません。
しかし1574年になると三好氏の当主だった三好長治(みよしながはる)という人物が四国において身内の権力を強めて、佳清のような地方の豪族を軽く見るようになりました。これを不満に感じた佳清は長治に「こんなことはやめたほうがいい」と伝えますが、長治はこれを受け入れずにかえって佳清の城に攻めてきてしまいます。この時、他の地元豪族たちは佳清に味方したために勝つことができました。
そうしているうちに三好氏は織田信長との戦いで勢力を失い、佳清は織田信長に属することになります。
この後、香西氏は内輪もめが続き叔父の羽床資載(はゆかすけとし)と戦いになったかと思えば家督を巡って佳清の弟を担ぎ上げる人物が出てきたりと不幸が続きました。
佳清が盲目であるがゆえに、快く思わない家臣が多くいたのかもしれません。
内輪もめが続いてボロボロになった香西家ですが、1582年に衝撃的な出来事が起こります。本能寺の変です。
本能寺の変によって織田信長が死んだことによって、織田家は混乱状態となり四国に手が回らなくなってしまいました。
そうなったところで今度は土佐(高知県)の武将、長宗我部元親が攻め込んできたのです。これに対して佳清は必死で戦いますが敵わず、降伏することとなりました。
