二十八

 

 訪ねてから二時間が過ぎていた。頃合だと、私は判断した。自分でも唐突すぎるように思われたが、テレビを消しに向かった。寛子をソファから立ち上がらせた。

「真一さんあの。どうして下のほう、からなんですか?」

 こちらに楽しみのないところを洗わされたうえで拒否されては堪ったものではないから、なのであった。首の下あたりから臍の上あたりまでのあいだ、すなわち立てた人体の中間には、水を付けられない。説得するにあたって、私は重力のことを持ちだした。上にあるものは下へと向かう。頭を先に洗ってしまうと、そこから落ちてくる水滴に、気を留めておかねば済まなくなる。そうすることは、考えただけでも煩わしい。それよりは、まず下半身を洗ってしまい、タオルを巻きつけておき、そのあとで上に当たったほうが心安い。そんな、自分でも論理的だとは思えない理屈を並べたてて、言いくるめようとしていた。

「おことばを返すようですが、タオルを巻いておくんなら、頭にだって、そうできるわけじゃないですか」

「つべこべ言うなよ。どっちにしたって洗うんだから。さっきは俺に任せるって、そう言ってたじゃないか。……さあ。……ほら」

「でもここじゃあ、居間から脱いでいくのはヤです。それに、真一さんはどうされるんですか? そのままでおやりになったら、びしょびしょになっちゃいますよ。お持ちになられてますか? 海パンか何か」

 大笑いさせられた。修学旅行先の風呂で競泳用のパンツを履いていた、普段は偉そうにしていた男のことを、私は思い出したのだった。わざわざ見せびらかすような代物ではないが、不自然に隠すようなものでもない。

「誰から聞いたんだそれ? 風呂にパンツ履いて入るなんて、よっぽど自分の持ちものに、自信のない奴なんじゃないのか?」

「いやあの。思いついたままを言っただけで。じゃああの。真一さんは?」

「言うまでもなく、スッパダカで入るよ。百合っぺだって、きのうそうしたんだろ?」

「ええ。でも百合子は女ですし、妹ですから」

「それでなんだ? 男の場合は困るとでも言うのか?」

 寛子は答えずにいた。チャンスだと思った。

「ワイセツな考えなんか、ぜんぜんないって言ったろ。まだわかんないのか? ここで裸になることに抵抗があるんなら、風呂場まで行ってからにしよう。ほら。行こう」

 腕を取るわけにもいかず、私は寛子の腰に手を回した。

 狭い空間に行きつくが早いか、私はみずからの全身を露出してやった。

「まったく。何が恥ずかしいだ。おい寛子、バスタオルはどこにあるんだ? きみの分だけだって、二枚は要るだろう?」

「あの。浴室のドアの脇にある棚に……」

 なるほど、畳んだものが重ねられている。

「でも新しいのは、一枚だけでいいんです。きのう頭を拭いてもらったのが、ほら。こっちに掛かってますから。それを腰には巻きますから。百合子がお洗濯するのが、たいへんになりますんで」

 思うところはあったが、異議を申し立てるようなことでもない。私は素直に、棚の一番上に収まっている厚みにだけ、手を掛けた。勢いよく引き抜いた。どさりと、直後に何かが床に落ちた。純白のタオルとはおよそ違う色、毳々しいピンク色が、まず見えた。怪訝に思いつつ、私は拾いあげてみた。ポリエチレンの透明な包装もそのままの、新品のゴム手袋、なのであった。手荒れ予防などのためで、台所掃除の折などに用いる、あれである。

「なんでこんなもんが。こんなとこに……」

 何であるのかを認めるなり、私はそう呟いていた。家事に慣れていない百合子が、何かの手違いから、そんなものをそんなところに置き忘れてしまったのか。そう想うや否や、言葉が飛ばされてくる予兆を感じた。

「あそれは。そこにあっていいんです」

 左手にバスタオル、右手にゴム手袋の包みを持った全裸の私は、声の出元に顔を向けた。自分の滑稽な有様さえ想像できないほどに、訝しくてならなかった。

「あっていいって、どういうことだ?」

「あの。百合子にならいいんですけど、真一さんには、それをはめて、わたしを洗っていただきたいんです」

「なにい? なんで俺がこんなもんを」

 言ったあとで、やはりワキガがうつるからなのだと、私は想った。しかし、そうであるのなら、なぜ自分だけが手袋を付ける必要があるのか。なぜ百合子にはそれが不要なのか。うつることを恐れる気持は、自分よりも彼女のほうが強いわけで、むしろ彼女にこそ必要な品といえよう。恐る恐るで洗っている実の妹を見て、赤の他人である自分のことを気遣ってくれたのか。とはいえ、病気のことについては、安易には触れられない。寛子の次の言葉を、私は待つことにした。

「いまさらなんですが、わたしは真一さんのことが大好きです。ひととしてはもちろんですけど、男性のかたとしての好意のほうが、より強いんです。つまりその……。わたしにとっては、とっても性的、セクシーなかたなんです。そんなかたに素手で洗っていただくなんて……。ああっ。ダメですうっ。考えただけで恥ずかしくなってきちゃいますうっ」

 ワキガとは、関係がなさそうである。

「きみひとりでそう騒いでても、俺には何のことやらさっぱり」

「つまりその……。笑わないでやってくださいね。……その。……なまの手で洗っていただいてるうちに、変な気持になっちゃう可能性が……。頭は、髪の毛のほうは大丈夫だとしても、下のほうは……」

 冗談ではない。ゴムに包まれた手などでは、生身の女の感触を楽しむことができない。視覚では楽しめようが、そちらで生まれる脳への電気信号については、もとより最低限に抑えるつもりでいる。あとで自分が、悲しい、惨めな思いをしないためである。口を開けたところで食べ物を奪われたときのような腹だちを、私は覚えた。しかし、露骨にそれを表したところで何の益にもならないことも、わかりきっている。懐柔にかかろうと決めた。

「ありがとう。男として嬉しいよ。俺のことが好きだから、感じちゃうってわけだろ? でもきわめて自然なことじゃないか。俺だって同じだろう。きみに自分のあそこを洗われたら、感じちゃうだろうな。いやきみを洗ってるだけで感じちゃうだろう。盛りがついた雄犬みたいに、恥ずかしいものを、見せることになるかもしれない。でも、それでいいじゃないか。恋人同士なんだから。な」

 寛子の髪が舞った。

「イヤです。変な声でも出しちゃったら……。ああっ。ぜったいにイヤですっ。恥ずかしい思いはしばらくはもうこりごりなんですっ。その手袋をはめていただけないんなら、洗っていただくのは辞退させていただきます」

 なだめにかかる前の拒否にもまして、きっぱりと力強い。飴は、すでにしゃぶらせてやった。鞭を、振りかざしてやることにした。

「おいっ。その長い頭も洗うんだぞっ。手袋なんかはめてやってられるかよっ」

「じゃあそちらも辞退させていただきますっ」

「なんだとおっ? それじゃ俺がっ。おまえのお母さんに面目が立たないじゃないかっ。そのことを頼みにわざわざ俺んチにまで訪ねてこられたんだぞっ。どうすんだよっ」

 ぺこりと一回、頭を下げられた。

「わかりました。母にはわたしから説明します。たいへん申し訳ございませんが、お服をお召しになってください。居間のほうでわたし、お待ちしてますから」

 赤いやりとりを中断させようとしている。売り言葉の、値を上げてやることにした。

「このバカ女がっ。脳みそが石でできてんじゃねえのかっ」

「バカでけっこうですっ。はじめからヤだったんですもんっ」

「ひとのチンポだけタダ見してっ。なにが変な気持になるだっ。この変態っ」

「なんとでも言ってやってくださいっ。あのっ。わたし居間で待ってますからっ。真一さんのまえで母に電話しますからっ」

 ミロのヴィーナスの、服を着た後ろ姿が、動きだしていた。ゴム手袋の入ったポリ袋を、私はその背に向けて投げつけた。肘から下がない女体は、思いのほかすばしこかった。目測を誤ることとなった。光沢のあるピンク色は、床に落ちてから軽く笑うと、一切の動きをやめた。

 その後は、宣言されたとおりの展開、となった。途中で替わられた。中谷夫人からしつこく詫び言を浴びせられ、聞きいれるよりほかなくなった。隔日の夜に寛子の口へと食べものを運んでやることなど、彼女の裸とは無縁な事柄だけが、私の任務とされてしまった。

 受話器を戻す音を合図に、気まずい雰囲気が膨らみだした。私は寛子から離れた。

 女の局部、それも若くて美しい女の実を、合体することとは関係なしに、大義名分を備えつつ、じっくりといじくりまわせること。そんな機会など、ポルノ男優でもないかぎり、男の人生にそうそうはあるはずがない。それに恵まれている産婦人科の医者とて、ゴム手袋ごしに、がせいぜいであろう。早まったことをしてしまったと、私は後悔しはじめた。しばらくは言いなりになっておき、逃げられない状況をこしらえたうえで、同意など求めることなしに素手での行為に切り替えてしまう。そういう狡猾な方法もあったのだ。短気は損気、後の祭。つねづね母親から吹きかけられている耳障りな言葉が、有平棒にも似た嬉々たる様子で、私の頭のなかを旋回するようになった。自分の愚直さを呪ってみたところで、そのことすらがもはや遅いのだった。

 ソファに沈み、両足をガラステーブルに載せ、私はふてくされてタバコを喫っていた。やがて、消したほうがいいところまで、灰が迫ってきた。次なる一本を求め、パッケージに手を掛けた。そのときである。それまで電話機のまえに佇んだままでいた寛子が、突如として動きだしたのだ。驚きのあまりで一切の動きを停止させている私の、真横まで滑走してくるや、ぴたりと左右の足を揃えた。かと思うと、その二つを、両膝で圧しつぶした。そこでようやく私の目に、彼女の顔がはっきりととらえられた。泣いているのだった。

「上半身がこんな状態ですっ。土下座はできませんっ。正座するだけで勘弁してやってくださいっ。せっかくのご厚意を無にしてしまってっ。ほんとうにっ。まことに申し訳ございませんでしたあっ。わがままをどうかっ。なにとぞおゆるしくださいいっ。ひっひく。ごっごっ。ごめんなさいいっ」

 私は怯んでいた。鷹揚なことを述べた。だが、寛子に立ちあがろうとする気配は一向に起らなかった。私のほうから腰を上げた。

「もういいって言ってるだろ。ちょっとしつこいぞ。おまえ、顔だって洗えないんだから、もう泣くなよ。濡らしたタオル、作ってきてやるから。ほらここ。俺のあとに座って、テレビでも観てろ。な」

 受像機のスイッチは押したが、番組内容までは確認せず、私は洗面所へと足を急がせた。

 掛かっていたフェイスタオルをぬるま湯で洗い、ねじった。おしぼりのようになったそれを持って居間への床を戻っていくと、寛子がソファに沈んでいるのが見えた。その肩の揺れはやんでいた。平生のとおりに呼吸していることは認められたので、私は安堵して近づいていった。ところが、数歩を進めると、腰から下が勝手に動くのをやめた。寛子の全体が、泣きやんだときの女が見せる白っぽさ以上に、痴呆的であるのを認めたからだ。下半身から、私はゾッとしているのだった。とはいえ、事の始末をつけるための小道具を、片手で突き出してやるわけにもいかない。ものを受けとるという動作も、この段の相手には難しい行いにちがいないのである。私は大きく息を吸った。自分の心に鞭を食らわせた。必要最低限の力のみが右手へ送られるように意識し、瓜実顔を拭いてやりにかかった。そちらは、ほどなくして済んだ。しかし、私のなかで漂っているぎこちない気分、居たたまれない気持のほうは、当分ぬぐえそうになかった。

 時間はまだ早かったが、私は脱出を決めた。寛子にはそのままテレビを眺めさせておき、その間に「宿題」を片づけてしまうことにした。ダイニングテーブルへと向かった。

 寛子は、一度だけ大きく振り向いたが、テーブルに就いた私と目が合うと、そのことでスイッチでも入ったかのように、姿勢を元の状態に復した。ばかりか、それ以後には、全身をまったく動かさなくなった。

 私は「連絡日誌」をつけはじめた。あらかじめ書くのを決めていたことのほか、こののちの自分が寛子を洗えなくなってしまったということ、その分きちんと洗ってやってもらいたいということを、簡単に記しておいた。

 タバコ一本を灰にしてから、帰りたい旨を、私は寛子の横顔に告げた。強くひきとめられることを、少しは期待していた。しかし、そうはならなかった。ベッドに寝かせてやることも、玄関ドアの鍵を戸外から掛けることも、しないでいいとまで言われた。

「なんだよ。……まあ機嫌がいいわけないのは、わかるけどさ」

「いえ。きょうもありがとうございました。気をつけてお帰りくださいね」

 偽造された笑顔で見送られ、終ってしまった。がっくりしながら、私は9階のエレベーターホールへと歩きだした。

 ありえない話が消滅したにすぎない。そう考えることで、私はこの夜の一件を忘れようと計った。車を、むやみに飛ばした。

 帰宅後、あくる日の午前二時まで待っていたが、百合子からの電話は架けられなかった。やはり姉妹のあいだでただならぬ問題が生まれているにちがいない。そう想いはしたものの、その件について頭を使うことが煩わしくなり、私は床に就いてしまった。

 

          二十九

 

 寛子が手術を受けてから丸一週間が過ぎた。

 その土曜には、百合子に付き添ってもらって病院に検診にいく。それを、その前夜になって、私は寛子から聞かされた。

 姉妹で外出した当日の夜にも、百合子は私かたの電話を鳴らさなかった。客観的な内容であれば、本人が近くにいようとも話せるだろう。そう断じ、私のほうからマンションへ架けてみることにした。

「ええ? ああ。順調だってよ。あしたこっちに来るんでしょ? くわしくはまたそのときに。ね」

 あっけなく切られてしまった。もっともなことを言われたわけであり、私は引っ込んだ。 

 ところが、翌日の昼ちかい午前に部屋を訪ねてみると、百合子は出かけてしまっていたのである。瞭らかに避けられているのを思った。そうされる理由は、電話を架けてこない理由に同じく、私には考えようがなかった。

「サプリメントをあれこれのんでるからなのかわたし、ふつうのかたよりも回復が早いんですって。このままいけば来週、いやもう今週ですか、土曜日に抜糸できるんですって。その日には母も出てこられるらしいんです。病院にも付き添ってくれるんですって」

 寛子は燥いでいた。いつになく早口、多弁であった。当然であろう。腐すようなことは何一つない。重複する内容が増えてからも、私は聞き役を務めてやっていた。

「そうかあ。んま、とにかくよかったな」

「ホント。真一さんと百合子のおかげです」

「俺はともかくとして、百合っぺには感謝しなくちゃな。きみのわがままから、きみを洗うことを、彼女ひとりがしょわされちゃったんだからな。そのせいでなのか、すっかりスネちゃってるみたいだし」

 それとなく探りを入れてみることも、私は忘れなかった。

「そうですかあ? きのうもふつうに、真一さんとお話してたみたいでしたけど」

 自分のことに精一杯で、妹の様子の細かな点にまでは、心が及ばないらしい。

「まとにかくだ。親しき仲にも礼儀ありで、はっきりと口に出して、百合っぺにお礼を言っといたほうがいいぞ。おだてに乗りやすいB型でも、あるわけだしな」

「そうですね。あそうそう。百合子で思い出しましたけど、きょうはお夕飯、お寿司でも取りましょう。前祝ってことで豪勢に」

「ええ? 百合っぺと三人で、ってことか?」

「いえ。あの子は今夜、思いっきり遊んでくるそうです。だからご飯つくるのもパスって、そう言われちゃったんです」

 私と妹とのあいだに隔たりができているということにも、まるで気づいていないようであった。