口ではそんなことを歌いながらも、満面に笑みを浮かべている。酒席でもある。合理主義の私は、文句を言うのも馬鹿らしくなった。

「おねえさんはしっかりしてるよな、きみとはちがって。同じB型とは思えないや」

「あら、おねえちゃんはAよ。パパがそうだったらしいの。ママはBだけどね」

「へえー。じゃあ、おかあさんのいまの旦那は?」

「真ちゃんとおんなじ。だからママ、あいつに支配されちゃってるのよね」

 皮肉を言われた気がした。私が言い返そうと構えると、百合子は大袈裟に手を打った。

「そうそう。こんどの土曜ウチに来ない? おねえちゃんも会ってみたいって言ってたし。川崎の美人姉妹がごちそうを作って待ってるってのはどおお? 最高じゃんか。ね」

「美人姉妹……ご馳走、ねえ」

「あたし、こう見えてもお料理は得意なのよ。ママやおねえちゃんよか、うまいかもしんない。そうだそうしよう。真ちゃんがあたしにホレなおすこと、まちがいなしだしね」

「じゃああさって、金曜の夜は、俺ここに来ないからな」

「そんなあ。なんの関係があんのよお?」

「大ありだよ。お姉さんとは俺、初対面になるわけだろ? 第一印象が肝心っていうじゃないか。いろいろと、支度しとかなくちゃ」

「なにそれ? なんか変なこと、たくらんでるんじゃないの? おねえちゃんにも手を出そうとか」

 あごを引いて睨みつけてきた。してやったりと思いながら、私は顔を背けてやった。

「んねえ。そんなんじゃないんでしょうね? んねえったら」

「さあてどうだかな。別に俺は、美人姉妹の部屋になんか、行かなくったっていいんだぜ。だいたい、それを言いだしたのはきみのほうじゃないか」

「んもうっ。いじわるなんだからあ。いいわよ。おねえちゃんのほうに釘さしとくから」

 そして、その土曜の晩、私は出かけていった。住居を訪ねるわけで、大まかな刻限だけが決められていた。

 手ブラで出てきてしまっていることに、私は道中で気づいた。花屋を探しつつ走った。幹線道路ぞいでは見つけられず、やむなく一旦、コンビニの駐車場を借りることにした。

 車をマンション前に乗り付けたことは、それまでにもあった。だが、そこを靴の踵で踏みしめるのは、初めてのことである。我ながら足どりがぎこちなかった。建物を入ってすぐのところに管理人室があり、内で年配の男が座っているのが見えた。垂れ下った老眼鏡の上で白目を光らせ、うさんくさげな視線を私に浴びせてきた。花束をこれ見よがしにしてやることで、彼の任務を軽減してやった。気分を整える間を稼ぐこともできないままに、私はそそくさとエレベーターに乗り込んだ。

 

          四

 

 チャイムのボタンを押すと、百合子が出てきた。鉄のドアの内側に入ると、私は生あたたかい空気にすっぽりと包まれた。煮炊きするにおいに、女の匂いが混ざっていた。肥料の臭気と花の香を、植物園のビニールハウスに入ったときのことを、私は思い出した。

「いまちょうど準備できたとこなの。早くう。上がって上がってえ」

 おろしたてのような、くすみのないスリッパが出されているのを見て、まず驚かされた。身なり第一の若い女たちの住まいにあるものとしては、あまりにも不似合いな気がしたのである。ともあれ、私は手を空けようと思った。

「はい、これおみやげ」

「やっと渡してくれたわね。でもありがとう」

「あれ? お姉さんは?」

「え? ああ。……ねえーっ。ヒロぽーんっ」

 その呼び名に無声で笑いながら、花束を抱えて振り向いている百合子と、同じ方向を見てみた。ポンと、髪の長い女が、壁の穴の一つから廊下に現れた。ヒロコにちがいなかった。呼び名どおりの現象が起されたわけで、私は心をゆるませられた。偽りのない笑顔を向けることができた。

「こんばんは。お邪魔しに来ました」

 すぐには返されなかった。顔面が硬くなっているように見受けた。見覚えのある顔、それも嫌な思い出とともに記憶している顔を、見たときの表情に近かった。私のほうにはまるで憶えがない。しかし、危害の記憶というものは、往々にして、加えた側の脳には残らないものである。ヒロコの口から言葉が出てくるのを、私は待つことにした。

「あ。あらごめんなさい。こんばんは。はじめまして。どうぞ。なにしてるの百合ちゃん。早くお通ししなさい」

 硬い顔のままで引っ込んでしまった。その言葉からすれば、やはり初対面なのであろう。気は晴れなかったが、私は百合子に従った。

 部屋の調度も、若い女が二人だけで住んでいるとは思えないほどに、整えられていた。廊下の壁には、複製に違いなかろうが、著名な画家のサインの入った西洋画が掛けられていた。通された部屋の天井からはシャンデリアがぶら下げられている。作りによればリビングルーム、居間であるらしかったが、まるで応接間だ。そこには、横長のサイドボードまで寝転がっている。その中には、名にし負う高級な洋酒ばかりが並べられている。スリッパに同じく、私には、どれもこれもが財力の証に見えた。

 花束を抱える百合子に勧められ、私は革張りのソファに身を沈めた。先ほど引っ込んだ姉の姿が、居間と続きになっているダイニングキッチンの壁の前に、あった。まるで妹の付き人ででもあるかのように、両の手を前で組み合わせ、ぽつねんと佇んでいる。

 腰を落ち着けられたからであろう。電話でのように気さくな感じでは接してこなかったヒロコを、そこでの私はまじまじと見詰めた。背丈も女の起伏も、妹ほどではないようであった。丸顔でもない。瓜実顔で、どことなく神経質そうに見える。美しくはあるが、派手さはない。就いているという仕事とも、食いちがった印象を受けた。「女優」というのとも違う。その日の午前に床屋にまで出かけていた私は、何かしら拍子ぬけするものを感じていた。

「真ちゃんはコーヒー、ブラックでいいよねえ?」

 私はただ咽を鳴らした。

「ヒロぽん、ブラックでいいってえ。あたしのもおねがいい」

 消え入るような声を妹に返したかと思うと、ヒロコはその姿を隠した。

「なんか俺、気に障るようなこと、言ったのかなあ?」

「さあ。でもたしかに変ねえ。真ちゃんが来るまでははしゃいでたのにい……。ま気にしない気にしない。あれ? 灰皿ないわね。お花あっち持ってくついでで、取ってくるね」

 花束の処置も姉に頼んだようで、妹はすぐに戻ってきた。

 花瓶を妹が、コーヒーカップの載った盆を姉が運んできてからも、居間の空気はさして華やがなかった。妹ばかりが主体的に話し、もっぱらは私が受けさせられた。姉は、伏し目がちにコーヒーを啄んでいた。それの色は、白っぽかった。

 その視界に私がいることに慣れたのだろうか。食卓に就くころには、ヒロコも打ち解けてきていた。「寛子」になった。電話でと変わりなく言葉を放ちだした。姉妹が小学生時分に家出した顛末を、二つの口から代るがわるに聞かされたときには、私は煩わしささえ覚えた。そののちにも、私の役回りに大きな変化は生まれなかった。若い女二人の住居にふさわしい、黄色い声ばかりが弾むようになっていた。

 次から次へと、勧められた食べもので腹は、聞かされた話で頭は、膨れあがっていた。私は休息を求めた。タバコを喫いたいのを言い、居間のソファへと向かった。ところが、くつろげるのを思っていたそこに沈んでみると、余計に腹を圧迫された。途端に呼吸が苦しくなった。姉のほうが食後の片づけをはじめているのが、見えた。二人ともが年少者であることもあり、私は図々しくも横になってしまうことにした。

「いちおうきみ、寛子さんに断ってきてくれよ、俺がここで、こんなふうにしてること。それからさ。胃腸薬ないか?」

「寝っころがるのはいいけど、胃腸薬ってなによお? あたしたちの作ったもんで、おなかのぐあいが悪くなったとでも言うわけえ?」

「食い過ぎただけだよ。考えてもみろ。きみたち二人が、食べた量の倍は、確実にこの俺の腹んなかに、入ってるんだぜ」

 一旦はすべてが叶った。くつろぎが軽い眠気を催させた。だが、それも束の間のことであった。三十分もすると、私は再びで、姉妹の話の聞き役を務めねばならなくなった。

 身体に一定の不快を与えておくためで、私は片方の肘をつき、そちらの手に頭部を載せていた。しかし、浅知恵でしかなかった。間の手のみを入れること、その単調なリズムが、精神をも押し倒そうと攻めかかってきた。首が、張子の虎のそれのように、世の一切に関係なく上下しているのを、何度か認めていた。

「あら? 遠藤さん?」

「真ちゃん眠いの?」

 そのたびに首を横に振り、そうしているあいだに目蓋を引き上げていた。だがやがては、耳だけがかろうじて醒めている状態に陥った。

「あしたお休みなんですよね? まだそんなに遅くないし、少しお休みになったら?」

「そうよそう。あたしが毛布もってきたげるから、そこで寝なよ。二時間ぐらいしたら起したげるからさ。ね」

 毛布の下でベルトを緩めると、私は遠慮なく意識を失うことにした。

 

          五

 

 風鈴の鳴っているような音を鼓膜が拾い、私は目が覚めた。首を回すと、アイストングで氷を摘んでいる百合子の姿があった。

「あ。起きちゃった。ねえヒロぽーんっ。真ちゃん起きちゃったよっ。もうダメだよおっ」

 水差しを盆に載せて歩いてくる寛子の姿が、次には見えた。

「あらあら。百合ちゃんが、カチャカチャ音させてるからよ」

「あたしのせいにするわけえ? そういうこと言うとバラしちゃうよ、エへへ。ヒーローぽん」

 寛子は、百合子を睨みながらカーペットに膝をついた。盆をガラス製のテーブルに載せた。その先に高級ブランデーのビンがあることに、私はそこで気づいた。姉妹が呑んでいたことが、わかった。

「遠藤さんもお呑みになりませんか? お泊まりになっていかれても、わたしたちのほうは構いませんから。そうそう。今度は遠藤さんのお話、聞かせてくださいよ」

「なによヒロぽん、あたしからの情報だけじゃ不満なのお? こないだのラブホでのことまで、教えたげたっていうのにい」

 芯まで覚めた。にたにたと顔をとろけさせている百合子の頭を、寛子が平手で軽く打った。ソファから慌てて上体を起すと、私は時刻を訊いた。二時間も眠っていたのであった。

「いいじゃん真ちゃん。呑も呑もお。あたしも真ちゃんの話が聞きたい」

「しかしなあ。若い女性二人だけのウチだし。俺の話っていったって、いったい何を……」

「いままでの女との話がいい。なかでも超エロいやつう。ヒロぽんだって。ケヘヘ。ねえ」

 流し目で見る妹を、またも姉が睨んだ。

「酔っぱらってるんじゃないの? しょうがない子ねえ。それはそうと百合ちゃん、あなたのうしろの戸を開けて、バカラのカットグラス、お出しして」

 妹からそれを受け取ると、姉は洗いにいくのを言ってその場を離れた。

「あとでいいこと、教えたげるからね」

 百合子はにんまりしながら私の隣に移ってきた。酔い痴れているわけではなさそうだった。寛子のいる方向からは壁で遮られている。確認のつもりで、私は横にある女の瘤の一つを鷲掴みにしてみた。即座に叩き落された。自分の見立てに誤りがないのを知った。

「ばかあ。ヒロぽんに見つかったらどうすんのよお」

 ただ、その姉に、私とラブホテルに行ったことまで打ち明けているらしい前言からすると、その一打には、いささか過分な力が込められている気がした。戸惑いも、私は覚えた。

「なあ。俺どんな話、したらいいんだよ?」

「知らないよお。ヒロぽんのほうから、聞いてくんじゃない?」

 そのとおりの展開となった。寛子は、おもに私の恋愛遍歴について尋ねてきた。百合子の母親を気取っているようにも思われた。妹のほうはといえば、姉の追求を面白がっているのか、一言も口を挟んでこないでいた。店にあっては忘れがちたというのに、私のグラスに目ざとく酒を満たしているのだった。

 二時間もすると、聞き役ばかりを務めさせられた折にも勝る疲労を、私は感じた。

「寛子さん、ちょっと休ませてよ。こう一方的だと、せっかくのブランデーが、口からぜんぶ蒸発してっちゃうよ」

「あら。わたしそんなに一方的でした?」

「ヘヘ。熱中しれらもんれヒロぽん」

「それは……」_

 妹と顔を見合せるが早いか、何かのスイッチでも入ったかのように、寛子は腰を上げた。

「あのあの、遠藤さん。くだものでもお持ちしましょうね」

 私の返事も聞かないうちに、歩いていってしまった。無言で呑んでいたためか、このときの百合子の目には、酔いが赤く揺れていた。

「何なんだありゃ? これからまた尋問されるんなら、悪いけど俺、帰らせてもらうぜ」

「ちょっろ飽きるよれ、あんらパラーンじゃさ」

「なんだひとごとみたいに。きみにも責任があるんだぞ。なんでずっと黙ってたんだよ」

「飽きちゃっちゃら、困っちゃうわよれ。……あそおらっ。名案が浮かんらっ」

 これまた、私の言葉には耳を貸さず、飛んでいってしまった。ずっと堪えていたこともあり、私は無断でトイレへと向かった。

 居間に戻っていくと、妹だけが呑んでいた。

「ろこ行っれらろよお。帰ろうっらって無理なんらよ。車のキーは、こっちれ持ってんらあらね、ヘッヘッヘー」

 ソファに横になる際、ズボンのポケットから出してテーブルに載せた憶えはあったが、そのあとは気にも留めずにいた。やれやれと思いながら、私は元の場所に沈んだ。

「そうだ。さっききみ、いいこと教えてくれるって言ったろ? 何なんだよ? それ」

「まららめ。ヒロぽんがいなくなっれからね」

「酔っぱらいやがって。今ならいないじゃないか」

「もうじき来るもん。ヘヘ。おもしろいころが、はじまるよお。あそうら。忘れれら」

 私が自分のグラスを掴み上げたのに合わせるかのように、百合子は立ち上がった。吸い寄せられるかのように、一方の壁へとよろめいていった。いきなりで、周辺が闇に呑み込まれた。サイドボードの上にある燭台に火が灯されていることに、そこで私は気づいた。

「おい。何なんだよこれ? キャバクラみたいにショータイムでも始まるのか?」

「あり? バレちゃっらかな? まいいや。ヒロぽーんっ。こっち準備オッケーらよおっ」

 ということは、姉のほうも、こののちに用意されている何事かに絡んでいるわけだ。妹ほどには酔っていなかったはずである。さほど奇抜なことは起きないものと高を括り、私はグラスを口へと運んでいった。

 一口呑んだところで、キッチンのほうで何かが揺れているのが仄見えた。かと思うと、丸い大きな物体が、闇に浮かび上がった。見覚えのあるものなのは掴めたが、その名称が出てこない。私は記憶をまさぐった。そうこうしているうちにも、それが拡大された。

「もういいよれっ。ヒロぽんっ」

 その言葉で、私に近づいてきている円形と寛子とが一体であるらしいということが、わかった。その直後、部屋全体が明るくなった。「ビーチパラソル」という言葉を、私は思い出した。しかし、その甲斐もなく、それはすぼめられ、私の視界から消えた。代わっては、ちぐはぐなものが見えだした。私は目を瞠った。首から上が寛子のものであることは、瞬時に認められた。だが、その下では、見慣れないもの、毳々しい色彩が、波打っている。

「ひ。寛子さん……」