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【プレトリア(南アフリカ)=6月30日】俊輔のW杯が終わった。日本代表MF中村俊輔(32=横浜)が、パラグアイ戦後、代表引退を表明した。今大会は1次リーグのオランダ戦に途中出場しただけで終了。02年日韓大会はメンバー落ち、06年ドイツ大会は不調と、W杯とは縁がなかった。日本の司令塔、日本の頭脳と呼ばれたレフティーが、静かに代表の青いユニホームを脱いだ。
涙腺が緩みそうになった。試合後、泣くまいと思って報道陣の前を通ったが、実際に「代表引退」の言葉を耳にすると、万感の思いが交差する。こみ上げてくる涙をグッと抑えた。「次の代表? ないよ、オレは」。言葉が続かない。視線を落として、気持ちを整理しようと、歩き出した。しばらくして再び足を止めて静かに続けた。
中村俊 この大会はプレーヤーとしては何にも残せなかったね。不思議だね。02年は逆で、選手としてはよかったと思うけど、トルシエさんは人間としてベンチにおくのは難しいと判断した。今回はベンチでチームのために努力したけどね。サッカーの神様が僕をテストしたのかな。
小声で続けた。「耐えるのがつらかった…」。不慣れな控え組。最初は「左足首が痛いから仕方ない。足首さえ治れば…」と言い聞かせたが、痛みが消えても自分の立ち位置は変わらない。夜寝ようと電気を消すと、つらい現実に直面し、何度も電気を付けて考え込んだ。眠れない日が続く。逃げ出したい。でも、わがままは言えない。耐えるしかない。暗い自分を悟られたくない。宿舎では部屋にこもる日が続いた。マッサージの順番もレギュラー組を気遣い、後回しにしたこともある。ふっと気づくと、どんどん小さくなっていく自分がいた。楽しいはずの練習が、つらかった。
大会前から「年齢的にも今回が最後かな」とは思っていたが、こんな形で終わるはずではなかった。「今回、使われなかったことは、02年の落選よりショックだった。02年は、これに比べるとかすり傷かな。中学時代にマリノスユースに上がれなかったことを超えたね」。サッカー人生の集大成と思っていたが、そのチャンスすらまともにもらえず、不完全燃焼に終わった。
「すべてが終わった今思えば、足首じゃないね。僕の実力がなかったね。本田みたいに1トップでも何でもできる選手じゃないとね」。00年シドニー五輪では希望したトップ下を中田英に奪われ、左サイドで出場した。大会後「自分の存在が戦術を変えられるくらいの選手になりたい」と悔しがった。日韓大会に落選し、司令塔として臨んだドイツW杯は体調不良で、不調に終わった。「オレは本当にW杯とは縁がないね。これも運命かな」としみじみと振り返る。
人生、山あり谷あり。「次は山に登るよ」。不惑の年齢を過ぎても現役を張るカズ(三浦知良)を尊敬する。「ああいうサッカー人生は格好いい。オレにできるかな」。一世を風靡(ふうび)したスターが、第一線からは身を引いた。しかし、永遠のサッカー小僧が、燃え尽きることはない。
「悔しい思いをした分、次に生かせないとね」と寂しそうに笑った。現役としての第2幕が、始まる。
日本にとって今回のW杯はよくやったって言われてるけど、
日本は、勢いだけの闘いしか出来なかったと思う。
韓国のトーナメント1回戦敗退と、日本の1回戦敗退は中身が違う。
韓国は勝つために自分たちのサッカーをして、世界に負けた。
一方日本は、目先の相手に負けないために闘って負けた。
サッカーに対する考え方、捉え方によって違うけど、
やっぱり、サッカーは自分たちの全ての力を相手にぶつける所に魅力があり、
また、怖さが生まれることでそれに対して、それを勇気をもって
チャレンジして打開したときに、
サッカーの奥深さ、楽しさ、感動、を感じることが出来るんだと思う。
みんなインテルみたいなモウリーニョサッカーじゃつまらないからね。
世界と互角とは言わないけど、世界で通用する選手を
ベンチに置いとくのはやっぱり、日本にとって正しい選択じゃなかったと思う。
俊輔って、悲劇のヒーローのようなネガティブ人間に見えて好きじゃなかったけど、
W杯後の俊輔のこの発言が、
「よくやった日本」「これからは本田中心」と言ってる人達には、
本当のサッカーの楽しさを知るための良い材料になってほしい。











