死んだら無になる。何も無くなってしまう。と信じている無信教、無宗教を標榜する人たちも相当数いるに違いない。死後の世界を否定する人も「地獄」という言葉は聞いたことがあるだろう。

仏教の六道のことは全員ご存知のことと思う。

地獄

餓鬼

畜生

修羅

もともとは霊格を表す指標だったのではないだろうか。これらの用語は、日常語としても使われる。

「こんちくしょうが」

「こん、ガキが」

「まるで修羅場」

「地獄に落としてやる」

お陀仏とかお釈迦になったとか、仏教界の言葉がちょっと変質して使われる。その中でも「地獄」は頻繁に登場する。

死後の世界のことはよく解らないけれど地獄があったとしても自分は行かない、と思っている人は多いのではないか。

地獄があるかもしれないと思う人でも、その多くはよほどひどいことをしない限り地獄には行かないと思っている。沈香も焚かず屁もひらず、他人のために善かれとばかり思って善良に過ごしてきた、しかも割りを食って生きてきた自分は地獄には行かないと。

ところが簡単に行けるのだ。しかも死んでからなどともったいつけたようなことではなく、生きて息をしている今現在、地獄にいる人たちもたくさんいるのである。そのくらい地獄は身近で浅はかな所なのだ。

銀行に立てこもり行員を盾に金を要求する。(今では不可能になったが)夏の盛りに一人歩きの女を襲い、隠部にストローを挿して逃走する。子供を誘拐し身代金を要求、金が得られないとなれば指を切って送りつける。包丁を持って家に押し入り、人を殺し金を盗み、家に火を放つ。殺した者をバラバラにして投棄する。トラックで人ごみに突っ込み、ナイフで無差別に刺して回る。

これくらいのことをしないと地獄に行けないと思っているかもしれない。自己破滅を極めて初めて地獄にいる、と。ところがそんなことはない。

高みは青天井であるが、下は、3センチくらいしかない。奈落の底と言えばとても深い印象があるかもしれないが、すぐに転がり落ちる。魔がさす、邪が入る。その気になればすぐに「人間」に戻るのであるが、下に行けば行くほど重いので、一度落ちるとその重力に抗って上に昇るには相当の覚悟と強さが要る。

苦しい・・・

今そんな圧迫された気分にさいなまれているなら、確実に地獄にいる。餓鬼畜生修羅、これらは地獄のバリエーションに過ぎないのかもしれない。終始、不平不満を訴え、誰かを糾弾し、唾を飛ばして罵っているなら、地獄の範疇にいることを保証する。

 

ゆっくり進化してその領域を存分に楽しみたい人も多くいるので、進化は強要されるべきものではない。霊的進化とは、選択と決意と自由意志によるものだとわたしは捉えている。しかし我々の霊魂の性質はすぐに飽きるようにできているので、ーーと言っても人によっては千年万年同じ領域に留まる人もいるだろうが、進化したくなるものではある。

下のレベル、低い次元、重い所、粗くて痛い波動に居れば、そのまま病気であるので習慣化すればいずれ肉体に症状が現れるだろう。また、弱々しい病原菌やウイルスに感染しやすい。感染し、免疫が追いつかず発症し重篤化する。

わたしは霊格と病症の関係を示唆したいと考えている。どのくらいの相関関係があるのかはこれからの研究によるところがおおきいと思うが、どうやら『魂』=『認識』=『信念』⇩『精神』⇩『肉体』⇩『現実』このように、より具現化されていくようだ。このことを解明した者は過去にもそれなりにいるのだが、説いてもあまりに霊格が低いと我が物として認知できない。かつてのわたしがそうであったように。だが、それをどうにかして伝えようとしているのが、このブログの一貫した趣旨である。

この想念=意識が肉体や延長された身体である『現実』に創造されるというアイディアは、宗教というより科学である。いや、科学は宗教をベースとしているし、本来、宗教は科学である。共に支えているのは、宇宙をどう見なすか、というスピリチュアル(霊性)であるからだ。

魂は霊の、自分・個人に任された一部であり、わがものとされた霊性である。霊性が低ければ、一般には、エゴと我欲に限定されているほど六道の下部にいることになり、その現実を創り続けている。したがって地獄という状態は、本人が認めようが否定しようが無視しようが創り出せるし、経験しうるものである。誰もが、自作自演の舞台にいるのだから。

 

このシリーズで今回は、意識の微細な表現から物質的な表現までのことなど、ごちゃごちゃ理屈を述べようと用意していたのだが、変更して、その在り方がどのレベルにあるか観ていき、自覚することによって進化するか留まるか選択できるようにしたいと思う。

魂(エクサピーコ)を大きくする即ち原子核を増やすにはどうすればよいのか、逆に減らすにはどうすればよいのか。そのことを考察していこうと思っている。魂(エクサピーコ)がどのようなものであるかは次回以降に解明することにした。

自分が(霊性あるいは周波数の)どこに居るか、そこにどう焦点を当てているか、といった『在り方』が言動を創っている。正確に言えば、どう在れば原子核は増え、どう在れば減るのか。ということであるが、在り方が在り方を作っているのだから在り方を変えられないのではないかという疑問もあろう。

在り方が在り方を作るのに、在り方を引き上げるとはどういうことか、どうすればいいのか。そうした鬱屈した矛盾を指摘する人もあるだろう。だが、実は簡単で、誰もが毎瞬やっていることにすぎない。ただ、人によってはそれが不明確なため、なんとなくやし、それゆえに行きつ戻りつという状態を繰り返す。方法を自覚すればするだけ、確実に進化できるのである。

 

ところで、人類の意識の進化とコロナの克服のテーマについてのエッセイは多くの人に興味のあるところと思う。わたしのエゴも功名心に走ったり「こんなことが分かったぞ。早く伝えたい」とせく。けれども、前回わたしが足立郁郎さんの名前を出して宇宙的な科学に触れたので、あの方を通して入っている情報源から「待った」がかかってきた。先走った公開はかえって調和を乱すと。すでに大量に下書きを済ませているのがチビチビとしか公表できないでいるし、それでいいのだろうと思っている。

このごろ、チラチラと出している意識の数値についてもあまりにも誤解や偏見がともなうので、やっと少し表に出せるようになってきたようだ。今回は少しつっこんで提示することにした。大概において、前世を否定したがる人は、かつて思い出したくもない卑劣なことや凶悪なことをやっている場合が多いし、霊格の数値化をあざ笑うひとは劣等感の強い人に多い。たいていは、己自身を低く定義しそこに踏みとどまる不断の努力を己に強いている。もちろん、その有り様を「かわいそうだ」と同情するつもりはない。ゴータマは慈悲の心で観ていたようであるが。

霊性や信念そのものを扱う気配を感じた者はすぐにありきたりの批判をしたがるものである。が、目に見えないこと、あるいは元手もなくカネを稼いでいるという理由は、このわたしのブログにおいては通用しない。カネを稼いでいるのでも、そこに誘導しようとしているのでないことは言うまでもない。もしそうなら、連載を途中で打ち切ったり、掲載を気分屋のように不定期にしたり、他人があまり指摘されたくないことをズケズケ書いたりしないだろう? 数を稼ぐには好感度は重要なことだから。

また、わたしが他人を脅す意図をもっておらず、優位に立とうとしているのでないことも明らかなことだ。そうした意図は矮小なエゴの作用によるものであり、そんなことを公にするために物書きを志したのではない。

「カネも稼げないようなことはダメだ」と言う人は、時間の無駄だから読む必要もないのであるが、何度そう伝えても性懲りもなく読みにくるのはどういうワケなのか。覗き趣味? 詮索意欲? 攻撃材料? 暇つぶしなら気の利いた読み物が他にいくらでもあるのでそちらをお勧めする。「なにを書くか知れたものでないから監視を」などと理屈をつけても、その真意はイヤでもわたしの書くことにそれなりの真理が含まれていることがかんじられるからではないか。それが霊魂の触覚、第六感以上というものだ。

 

わたしという一個人がこれこれはこのくらいの数値だ、彼はこれこれだ、あの人はいくつだ、と公にすればどんな反応が噴出するか、賢明な皆さまにはすぐに想像がつくことと思う。「おまえは、何様なんだ?」こうした、問いのような怒りや嘲笑、罵倒、劣等感優越感など低次の想念が即座に渦巻く。

しかもここ五年ほど、本来この、ほとんど秘密クラブだったブログを読むのにふさわしくない黴菌のような浅ましい自意識の持ち主たちが監視や詮索のために侵入してきたのでますます書きにくくなってきた。彼らはわたしの意図をまったく理解しない。ただ、ゴシップの材料を得る為に言葉尻を集めようとする。彼らの読後の言動を知ると、彼らの陰湿で淫らで卑猥な性根が垣間見える。

「公開しているぢゃないか」そんな理屈をつけてでも無理矢理に読む。「やましいことをしているから読まれたら都合が悪いんだろう!」

わたしは、ある者にどのような観念が流入しているのか、それはなぜか、その観念によって何を創造しているか、それらを明らかにしているのであり、「あんたんこっば、こげん」言っているわけではない。それはその者が日頃から相手に思っていることをわたしにかこつけて吹聴しているだけで、わたしとは関係ない。

たとえわたしが誰かについて辛辣な観察を披露したとしても、万一自分の波動が地に落ちた時に眼を覚ますために言ってもらいたいことを書いているのであり、似ても似つかないことに対して「言い返えさせる」ために書いているのではない。

初期におけるブログの読み手は、実に聡明・賢明な方々が多く、こちらがどんな言葉で表現しても、時にはまったく違うことを書いても、なんのことを言っているのか的確に正鵠を射てくる方々ばかりだった。「どうして、それが分かる?」むしろ、こちらが舌を巻く有様だった。

それは、何かを求め独力で偶然(つまり神の手引きで)行き着いたからであろう。ところがこの数年では、ただ近隣に住んでいるというだけの理由で、覗き趣味を発し要らぬ宣伝をして回る輩が現れた。四十年、五十年、まともな本や文章を読んだことのない、哲学的素養も文学的教養も皆無の、ただ胃袋にちんちんやおまんこの付いているだけの、世間を構築している構造物たちが闖入するという事態が生じた。(もしかするとこの差配は『蜘蛛の糸』であったのかもしれない)というより、このように地獄にどっぷり浸かっている者たちを大量に目の当たりにしたのは、わたしにとっての恩恵が大きかった。

宇宙には陰と陽、光と影の二極性があり、極端に暗い波動に傾いた存在たちもいる。それが人類の誤解や曲解を代表するものであろうし、闇の深い所には眩しい光があるように、彼らの闖入によってこのブログにそれにふさわしい光が混じっていることを示した。余談であるが、この光と闇の原理が「なぜあんな素晴らしい人があんな鬼畜のようなケダモノの手にかかって残忍の殺され方をされなければならなかったか」という問いに対するひとつの答えである。『類は友を呼ぶ』という言葉では把握できない原理が働いているのだと思う。

これは加害者の自己正当化に使うものでなく、被害者の悟りである。誤解が多く生じるようにしか書けないのが地球の言葉の限界であるのでおおっぴらに声高に主張しないけれども、結局は多くの人がそれを真実としてとらえる結果となるだろう。明確な犯罪とまではいかずとも、意識の数値が175より下の人はなんらかの非(マイナス)を出しているという点で加害者であり、その最たる被害者は己自身である。

霊的なおおきな飛躍をするために共同作業をした、と見なすのは被害者もしくはその事件から学ぶ第三者であって、加害者の在り方が低く闇にまみれているのは覆せない。これはバランスを取るために他者に負わせた非を背負った負の人生を送るか、埋めあわせるために無償の奉仕をする人生を送るか。どちらも挫折のともなう決意であろう。どれも黙々と行なわれることであるため、半可通があれこれ評論する領域ではないと思われる。

「自/他などない」と言っていたではないか! とまた矛盾を指摘する者もあろう。自/他はなくとも、個はあるのである。個の連関は、あたかも自/他がないように映るが、ある周波数を選んでいる自分を実現するために他があるのである。このことは多次元に渡って繰り広げられているため、物理領域に足をつけているわたしたちには理解できないことも多い。イエスであってさえも、磔にかかった自分の運命を悟ったのは、磔になった後であったほどだ。

 

この文章にはわたしという書き手がいて、それはひとりの人間であるため、自画自賛に思えるようなことは言わぬが花であるのだが、今わたしに高次元の情報が流れてきているのは確かである。長年望んできたことであるので、うまく表現しえたら幸いだと思っている。だが、情報の入ってきた時期と公開にはかなりのタイムラグがある。私のエゴは知ったかぶりをしてすぐにでも他人に知らせたくなるが、どうしても公開できないブレーキがかかってくる。たとえば、

『他人に起きたことは自分にも起きるのか』

『因果応報のイニシャル』

『「一寸先は闇」は福音』

『ジンクスあるいは験をかつぐとはどういうことか』

『時間を創り出さない方法』

こうしたテーマについての詳細がダウンロードされている。知るべきでない者が閲覧できないであろう場にほんのサワリだけを書き残したこともあるが、いずれ時宜にはこのブログに公表するかもしれない。書物にするかもしれない。その方が書籍代に金をケチる向学心のない、ゴシップ嗜癖のある者を選別できて合目的的であるかもしれない。

家族はだいたい同時刻に知ることになるけれども、どのくらい覚えているか、理解しているかは定かではない。しかしわがやでは、いわゆる無病息災・家内安全・自己実現が果たされている状態だ。五人とも虫歯がない(虫歯になったことがなく治療もない)。風邪すらひかない。他の病気も一切ない。自分の意識レベルというか円満度がどのくらいかは肉体に表現された症状で計ることができる。嘆き、心配、懸念、・・・そんな想念は家族において全くない。集まれば面白い話をしていつも誰かが笑っている。政治・経済・文化・芸術・科学・歴史・食農・社会・教育・工業・・・など、どうなっているかを正確に観察し、新しい見方を話し合う。会話にウイットや洒落が入り、ギターを弾きながら歌を唄うこともある。また、自分のやりたいことを各自がやってそれなりの成果を出している最中だ。

おそらく、真理の理解の家族への環現という状態なのだろう。弥勒の世が家族のレベルでは実現しているのだと思える。これが周囲に広がっていくのを望むのであるが、頑固で捻じ曲がり、素直さのない連中にも自己選択の自由が保障されている。彼らはとかく「正しい」とか「まちがっている」「おれの言っていることだけが万人共通の真実だ」と主張しまた「おれの物だ」「おれの所だ」と線を引きたがる。人生の目的が「線を引くこと」そのレベルに在る。こう言うと「ほんなら、境界線はなかとぢゃろ」とづけづけ入り込んでくる。わたしが何か言う前から覗き見、盗聴、盗撮をしていたのは野生のケモノ、畜生の性根であるからだ。

地獄にいる者の眼を開かない最もな要因は、わたしの見立てでは『素直さがない』からである。かれらは素直さとは他人の奴隷になることだと信じているようだ。こうした者たちが誤解しないよう韜晦したり、隠し絵のようにして分からなくしてきたのであるが、この間『「失敗は成功の素」が高次元への移行をしていく重要な見方』といったことを書いた時に相変わらず「しっとしっと、そんくれえ。だっでんしっと。おっでんわかっ」と嘯いていたようなので安心だ。彼らは言葉を知っているだけでそれの意味することは知らない。せいぜい、慰めや優越感の発露に使うのみである。あるいは怠慢の正当化や責任転嫁に使うにすぎない。

粘着質で嫉妬深く責任転嫁をし虚言まで吐く者が何を言っても相手にしない、興味を他に向けるまでだんまりを決め込むのは賢明な方法のひとつである。しかしこうした知ったかぶりがどのくらい危険かと言えば、たとえば「農薬の成分が遺伝子の構成物質である〈有機リン系〉でできている」などと言い、無知な農業従事者にドヤ顔をして使わせ、消費者にさも安全な印象を与えようとするところだ。さらに「農薬は紫外線ですぐに分解される」だの「細胞壁は紫外線を通さない」だの続けざまに言い、己の浅はかさに気づいていない。彼の言っていることは即ち「根から吸収された農薬は紫外線によって分解されず細胞内に留まっている」ということなのに。

こうした修正を当人に向かって言ったところで、すでに、単純なアタマによってカルト教化しているので無駄なことだ。だが、眼のある者、眼を開こうとする者には伝えておく、義務がある

有機リン酸系が入っている? そんなことを言うなら、CとOとHは有機物すべてに入っている。だから、なに? という話なのだ。毒として、ーー肉体の恒常性を衰弱させる方に作用する物質はできるかぎり避けよう、生物としてのわれわれの当たり前の欲求や本能を言葉で踏みにじって恬としている。農薬が害虫を殺す『毒』であることに理屈をつけて煙に巻き、本質から目をそらさせようとするおぞましさはいずれ己に降り戻ってくることだろう。

これと同じように霊的な事柄についても、自分勝手な解釈をする。曲解する。捻じり曲げるなど、アタマの悪さもさることながら、気分によってもコロコロ変わるのである。悔しさや甘い依存心が相手の言ったことを故意にズラす。スリ替えるといったことをやらせるのだろう。

失敗は成功の素とは、まずもって、それを「失敗」と定義しないことから始まる。しかしこれを聞くと「ないふりをする」とか「ごまかす」ことだと思い込む。そうやって望む結果でなかった事実から目を逸らす人が出てくる。直感で分かる人はこの時点でこんな遠回りはしない。

「望む結果がでなかった事実から云々」と聞けば、物理的現実と霊的な経験を混同したり、逃避するのに使う。そのことを説明しようとする言葉が理解を妨げるのだ。言葉の特性でもありまた、言葉に勝手なレッテルを貼り付けそれを賞賛したり非難したりといった二元的な意味合いで理解したつもりになる人があまりにも多い。文脈から素直に本質的な意味を受け取ることが非常に困難なのだ。直感が働かない。エゴによってアタマが濁っているように思える。

『なおらい』とは直来と書きたいものだ。高次元霊の情報を魂にちょくで受け取るために心が素通りさせる状態が素直ということなのだと思う。心が成熟しているほど、それが可能だ。大人であるとは、邪魔したり抵抗したりせず高次元のことを認めたり表現できたりすることであろう。自分の高次元の所に正直である。それが『なおらい』

「なおす」という言葉はわたしの郷里では、修理する、片付ける(元あった所に戻す)という意味で使う。九州には古語が残っているので、元々そういう意味だったのではなかったかと思うが、『素』とは高次元のことで、直とは「まっすぐ」なことであろう。つまり、曲がったり折れたり捩れたりしているのを真っ直ぐに戻すということなのだ。まっすぐに高次元とつながる。それが素直さなのではないか。3次元物理世界に生きていると真っ直ぐなばかりではいられないこともあるだろう。だが、本当に望む生き方をすると決めたなら、素直さを取り戻さなければならない。

意図した結果がでなかったことを認め、それを作り出した己のどこが原因なのかを正確に観察し、うまくいくであろうアイディアを思いつき、実行する。実のところ、誰もが日常的にやっていることなのだが、なにげなくやるのでなく明確に意識してやると日常茶飯事のことだけでなく人生の目標とか自己実現とか志を遂げるといったことが達成されていくのである。

成功か失敗かでなく、100パーセント成功している。うまくいっていないように思えることは、自分の意図する、望む結果を導くためのヒントである、こっちではなくそっちだと報せる標識だとみる。

と説明すれば、これにもまた誤解が生じる。

このようにこの世においてこの世の言葉を使って摂理を伝えるのはなかなか困難なところがあるのであるが、ダイレクトに受け取る人もある。したがって素直さとは、ある高次元のエネルギーをきっかけに己の深いところを思い出す、引き出す、アクセスすることであると思う。

だが、屁理屈をつけてでも抵抗する。他人の非をあげつらい怒り狂って指をさし矛盾を指摘しながら激憤し、頑として拒絶する。「他人の言うことを聞かない」といった嘆き、落胆あるいは批判はおそらくこれらのことを指しているのだろう。ところが次の瞬間には、あれだけ激怒して否定したのにコロッとなびき、まるで自分の育んできた持論のように言い触れまわり始める。優越感をひけらかすために、言葉だけを猿真似し。

相手の言葉や態度に、より高次の自分を思い出す。これが素直にひとの言うことを聴くということに思う。しかし、自他を明確に線引きし、自分以外の者がいると認識しているレベルにおいては、甘い反抗心が頭をもたげ、生気のない暗い形相が弱々しく揺れるばかりだ。

既存のパターンで安く決めつけたり、生半可な理解をする者に共通する性質は、頭ごなしに否定したのになぜだかその気になってやり始める、言葉を記憶しただけなのに、それになったつもりで生き始めるのだ。いわゆる「頭だけ覚醒した状態」だ。結局は「食わんといかんだろう」で全てを正当化しているレベルが変わらないまま、基礎や地盤がないのに、理性や観念だけが気球のように肥大化して浮ついたことばかり言い始める。本質を見誤ったまま実行するのは非常に危険なことであるので、知ったか通は読まない方が身の為だと思うのである。

 

前置きが長くなりすぎたが、今回、人間の格、意識のレベルを明らかにし、その域を卒業することで望む人生、好ましい生き方をして頂きたいと思っている。

ひとの霊性を判定する。こうした厚顔無恥で誤解大きことは、猨田彦のような旗振り役がやることになっているのでやらせて頂きます。

 

低い状態にある人には物事がどのように見え、どのように発想するか、それを知り、己の在り方を見つめ直す試行錯誤をわたしも二十年くらいやってきた。『こうなりたいという自分にふさわしくない』と思えば、即座にやめて頂きたい。まず、やめる。それから、なりたい自分ならどう言い、どう振る舞うかを思いついたり手本となる人の真似から入って自分のものにするのである。心の使い方を学ぶということだ。なぜ、自分がこんなことを言い、行なうのか、それには認識・信念・観念がある。本当に自分で選んでやっていることばかりではない。世の中がこれを正しいと言うから。先生がそう教えたから。親が諭したから。

すべて自分で自分を見つめ、洗い直し取捨選択するプロセスを経ることで、なんとなくでなく、自覚していることで責任というものが意識される。

どうやら、自分の中に一箇所でも低い部分があれば全体がそのレベルになっているので、そこを見つけて昇華させる作業をしなければ、より高いステージの霊格にはならないようだ。

レベルの低い状態の言動を指摘したからといって即座に誰かを責めているのではないことを押さえておいてもらいたい。その状態がお気に入りなら飽きるまで何万年でもそこに留まっているのは自由なことだ。あなたの自己意識の選択は完全に保証されている。(もちろんその結果とあなたは切り離し不可能である。責任というものだ)しかしもし、もう飽きた、上昇したいと思うなら、そう決意し、低い自分とはオサラバしなければならない。今までの自分でなくなったからといって、自分がなくなったり崩れたりするわけではないので安心していい。

 

 

霊格をあらわす指標は昔からいくつも考案されているが、人口に膾炙しているのは仏教のものだろう。ゴータマ自身がそんなカテゴライズをしたとは思えないが、門徒たちはそれらを編み出した。霊格の低い方から、地獄・餓鬼・畜生・修羅となっている。この上に「人間」という格があり、一応、生まれる前には誰もが「人間」ということになっている。少なくとも「人間」とはどんなものか知っている。

これらの波動領域は重なっているし、行き来もする。そのカテゴリーの主な症状がネーミングされているのであり、併発している人(行ったり来たり)もある。畜生にいるなら修羅の要素も含みまた餓鬼にも足をつっこんでいる場合が多い。ひとの霊格や意識の周波数は、株のロウソクチャートのように幅がある。

人間の上には「天上」という格があり、それは青天井でキリがない。この世に存在できてかつ「天上」の格を持つのが理想であり、それを目指して生まれてきている人も多い。

その領域から発せられた言動はそのレベルにふさわしい現実、結果が生じる。返ってくるとも言うし、創り出すとも言う。いずれにせよ、自分が何をしているか知っているなら結果についても冷静であることができるだろう。

 

だいたい割合で言えば、人間未満の者が7割、人間が2割、天井が1割である。人間に居ても何かの拍子に転落することは多々ある。反省してまた引きあがるを繰り返している者もある。

 

霊格の共通の正確な物差しとして主にデビッド・ホーキンスの指標を採用する。これは0から1000までの数値で表されているものだ。それと日本の古典的な六道などと合わせ心理学的分析も含め、それがどのくらいの領域なのかを知るのは進化を選択、決意する場合の手がかりとなるだろう。

また、わたし独自に知らされている電磁波数も合わせて表示していく場合もある。

ある朝、目が覚めたらそれを知っていた。3次元ボディを創っているスピリチュアリティは4次元なのだそうだ。私はそう知らされている。そして5次元ボディを創っているのが6次元霊性。

このあたりの見方、考え方は他にもいくつかあるけれど、私はこれを採用している。ともかく、高低や格があり、それの示す特徴があるということだ。これらを知るのは、己のレベルを知り霊的な進化をするのに使うためであり、自慢したり卑下したり、他人を裁断するのに使うべきでない。そうした途端、その人は修羅畜生の地獄にいるのだし、あがりようもない。

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間までが4次元霊性。人間の上層から天上のある部分までが6次元霊性に該当することになる。4・5次元から4・9次元くらいが『人間』の領域で、3・9あたりから4・5あたりまでに地獄・餓鬼・畜生・修羅が集約されていると見ている。

 

ホーキンス指標の175がどの次元、どの領域に当たるか、この地点は陰陽で言えばわずかにプラスを放っているところであり、誇り高き者とか真のプライド、自恃、矜持といった言葉で表される周波数帯であると思う。(劣等感の裏返しで威張ったり、見下したり、優越感を出したりするいわゆる高慢稚気で「プライドが高い」のとは違う。それは20や30の周波数領域である)ただし、ホーキンスの書き方だと、プライドがあるゆえに天狗になることがあり他者に対して傲慢にふるまったり、たとえば「愛国心のない奴はダメだ」と切り捨ててしまいがいちであるそうだ。違いが分かるだろうか? プライドとプライドもどきの違いだ。

 

ところで、以前私はブログの中で200や250からがプラスではないかと書いていたことがある。しかし、眠って起きた時(2020年の11月02日)に修正が入った。

175の値からだ、と。

それで書籍を確認するとそのようだ。「People feel positive as they reach this level 」と書いてある。(ペーパーバック 104ページ)

175より上だと日々の言動で陽(プラス・正)を発しているし、下だと陰(マイナス・負)を発している。アイディアが理(プラス)を帯び、非(マイナス)が少なくなるポイントなのだろうと思われる。実際に正(しょう)のエネルギーを発しているかは別として、少なくとも人々が積極性を感じるレベルであるのだろう。もちろん、明確にフォース(弱気)がパワー(強力)に転換し、実際にパワー(正のエネルギー)が発現するのは200だとホーキングは測定している。

おそらく、このレベルに達した人は「子供は親を選べない」とは思えず「子供は親を選んで生まれてくる」と思い始めるのではないか。また、そのアイディアを子供を責める言い訳にはしないのではないか。

 

エクサピーコの原子核の量が増えていくと波動(周波数)が高くなり、いわゆる霊格が高くなる。この量と同じではないが、ある量を持つと、こんな周波数を帯び、こんな特徴を得る、とするホーキンスの指数と対応させてみよう。

『人間』の範囲は175~500に対応するのではないか。

175未満が高い方から修羅・畜生・餓鬼・地獄。175以上500未満が人間。500以上が天上。ということになるかと思う。

175を4・5次元に対応させよう。「人間」の一番下である。人間入門は4・5次元程度とする。4・5から4・9次元は175から400台に対応することになる。6次元領域の入り口は500に呼応する。6次元も進化するにつれて500、540(6・2次元)、600(6・4次元)、700(6・6次元)となっていく。

ちなみに現時点では、175以上が100人中20~30人程度、逆に言えば人間未満に留まっている人が7割くらいいるということ。地域や集団によってその割合は違っている。

ホーキンスに言わせると、500は100人の内、7~8人くらい。540が1000人中に同じくらい。600ともなれば日本中に数十人のレベルだと思われる。だいたいこのあたりを達成するのが目標であり、このレベルにあると存分に三千世界を楽しめるのではないかと思っている。

人間未満すなわち修羅・畜生・餓鬼・地獄は0~174となり、超人や神人と称される『天上』は501以上ということになる。

修羅・畜生・餓鬼・地獄にある方は、コロコロそのあたりを移動しているし、通常は人間の領域にある人も、低い方の波動にある人はともすればこの領域に落ちる。

500以上になった人は、安定している。急降下することは稀だろう。飛行機を操縦していて熟練してくると、降下するような状況になっても落ち着いて適切な操作をすることで機体を安定的に保つ技術を心得ているからである。心をコントロールする技術があるのだ。

例えば、いきりたって怒鳴り散らしてくる輩に遭遇しても、

『心が弱く自分が卑小な存在であると信じ込んでいる人の表現にすぎない』

ということを思い出し、落ち着いていられる。引きずられて相手の波動にまで下がることはない。

 

断っておくが、ホーキンスの指標『10』と『20』は倍ではない。20引く10で、10桁ちがうのである。『10』と『20』では、20の方が並んでいるゼロの数が10個多い。したがって文学的に表現するなら「かなり違う」のである。では、『10』と『100』ならどうか? ゼロが90個ちがう。「非常に大きな差がある」のだ。ホーキンスの数値は指数であるから、最低が10の1乗すなわち『0』である。最高は10の1000乗すなわち『1000』となっている。

前にホーキンスの数値について話していると、

「わたし、あれで5000あるんですよ」

と言った人があった。おそらく、510の間違いではないかと思う。指数の性質をあまりご存知ないようだったが、とりあえずその人は己のスピリッチャアルな成長に関心があったので、500はあるのだろう。

500の水準にある人は意外にたくさんおり、誰しも実際に出会ったことがあると思われる。(気づくか気づかないかは別として)

540以上の人は極端に減り、1000人中の7~8人、1パーセント程度であるようだ。無名である場合も多いが書物の著者や芸術・芸能関係の一部、テレビタレントの一部などで目にしたことはあると思われる。(気づくか気づかないかは別として)

 

地獄(40~0)

餓鬼(75~30)

畜生(125~50)

修羅(174~110)

 

とりあえず、このくらいではないか。だいたいの範囲を示しておく。修羅に在る者はすぐに地獄にも落ちる。たった2、3センチだ。ところがひとたび地獄に落ちると大抵は頑張って頑固に踏みとどまろうとするようだ。執着の極地のような所なのだろう。地獄に帯びている電磁波に引っ張られ、なかなか這い上がれなくもなる。ちょっと足の先をつけただけなら、すぐに畜生なり修羅に戻ることができるだろう。

指標0というのは、10の0乗のことだ。つまり、量としては0でなく、1あるということだ。モル数みたいなものだとして、それが原子核の何個分に該当するのかは今のところ解らない。

歪み度がどのくらいか、歪みにどれだけ深度があるかということでもある。電子のレベルの歪みなら、蕁麻疹ができた、という表面の病症にとどまる。それが、エクサピーコを構成している原子核の陽子が歪むとアトピー性皮膚炎となり、中性子が歪むと皮膚ガンとして、より深刻な病症として現れるのである。

因みに、先に断っておくが特に人格が高いとも思えない人が風邪をひかない。主だった病気もしないという場合がある。これは魂がちいさいなりに正円に近い形状をしているものと思う。心配癖がない。気苦労しない。陰気に落ち込まない・・・。であっても高い愛を表現しているかと言えばそうでもない。そういう人は鬼の霍乱、性格のイヤみな奴の創り出す周囲との不和があるだろう。

そのことを観ても、病気をしない状態というのは別段たいしたことではない。車検に通る程度のことである。むしろそれさえ達成されていないのであれば、自分のどこかに大きく窪んだ、凹んだ所があると見なすのはどうだろう。どれだけ健康かを高めていくのがこれからの地球であるとわたしは思っている。健康は最終目標ではない。前提である。健康か病気かのはざまを行き来するレベルではない。(それはそれで病気の者の気持ちが分かるので価値あることであるが)健康である自分がどんな自分を実現、経験していくか、テーマはそこにあるのではないか。健康が高まっていけば、霊感や直感も鋭くなっていく。霊道が開きチャクラが開いているからこそ、健康も高まっていくのである。

では霊格がある程度以上たとえば500になれば、体調を崩すことが全くないのかと言えばそうではない。それは二元性における極端な見方であって、おおきく進化する時には一時的に霊魂(霊体)と精神と肉体のバランスを崩すというか、タイムラグがあるので違和感として肉体に現れることもあるだろう。しかし、病症の意味がちがってくる。当たり前のことに気づくための病症なのか、それとも霊格の上がったことを報せるサインなのか。

 

優越感のある者が176以上であることはない。優越感は劣等感の裏返しだからだ。自恃、矜持、誇り、本当のプライドを達成した者が176以上である。200や250を超えている彼らに卑下や劣等感はない。被害者意識もない。自己責任の意味を知っている。自業自得の意味を知っている。それらを他人を非難するために使わない。400、500、600と、ずっと上のレベルにある者からはいちいち『誇りの空気』を感じないだろう。もっと気高い雰囲気が表に出ているからだ。

また、なんでも他人のせいにする者が175より上にあることはない。最大に見積もって174。たいていは、100より下にいる。

 

まず幾つか例を挙げる。

 

食卓を見て、

「こげんとしかなか?」

と残念そうに吐き捨てたとしたら、どの領域か?

地獄。

多くの人がそう答えるのではないか。

感謝の波動がみじんも感じられない。

そして「頂きます」も言わず、しぶしぶ、不味そうに口に入れる。

感謝した後に希望を言っても遅くなかったのではないか? 不満が先に立つ。

現状の否定だけ。

自分が進化して、食いたい物が食えるようになると決意してもいいはずだ。それにしてもまず感謝だ。ここにこうして命を差し出してくれた植物や動物たち。それからその食べ物を調理してくれた人たちに。

「こげんとしかなか?」と嘆く者は別の場面では「おりゃ、なんでんよか。食えさえすれば」とも言う。どうしてこうした相反した態度に出るのか、考察して頂きたい。

 

 

「私の子供なのに」

「私の夫なのに」

中には「私のツインなのに」くらい言う者もいる。

これらはエゴに凝り固まった表現であり、たいていは非難、依存、中傷、攻撃の意図で発せられる修羅の領域にある。諍いを起こしたり、禍根を抱いたりするレベルだ。

「私の隣なのに」「私の店子なのに」「私の社員なのに」私の、私の・・・。彼があんなだと「私まで悪く言われる」

他者に執拗に全てを求めるなら、餓鬼。修羅畜生餓鬼地獄。全部含んだような物言いである。感化し同調すれば引きずり込まれる。自他共に破壊的行為を誘発しかねない。修羅が地獄を引き起こす。

そしてまたある時、気分が良けれは「目に入れても痛くない」ほど溺愛する。「自慢の息子」どんなに低劣なことをやらかしても「私の」何々をかばってかばって、擁護して援護して、「私」から遠い者を攻撃する。煩悩が『真実』を蹴散らし、ごまかし、うやむやにしようとする。受け取り方と発し方が非常に曲がっていて、ねじれて複雑にこじれている印象がある。おそらく深いところが歪んでいるので常日頃もそれに見合った現実や病症を創り出している場合が多いと思われる。

修羅が地獄を引き起こす。

 

「お前なんか生まれてこなければよかったのに」

こんなことを本気で言っているとすれば、罪悪感の中でも最低の波動で、恥辱の領域だ。指標で言えば30以下、0に近い値であろう。地獄も地獄。底にへばりついている。非常に粗くて苦しい電磁波の領域である。

この言葉を他人に投げかけ、吐きつける者はまずもって自分の存在を毛嫌いしている。世界を滅ぼしたいと夢想している。全てが否定で彩られ、なにもかも嫌で嫌でたまらない。

「お前なんか生まれてこなければよかったのに」

このフレーズ自体が非常に低い周波数を放っている。ーーわたしからすれば、余りに典型的すぎて笑いが出てくるほどであるが。まるで喜劇役者のお定まりのセリフのように聞こえる。多分、実際に人の口からこの言葉が出てくるのを聞いたら、その場で笑い転げるだろう。抱腹絶倒だ。そして、たらたら、これまでの苦労と恨みつらみを言い始めたら、すぐにメモを取る。自分ではなかなか思いつかない名セリフだから。

この領域より下がると、どうせ何を言っても解ってくれないから、と黙って死んでいくのかもしれない。実際「早よ、死ね」と思われていることも多々あったのではないか。あるいは存在が希薄だった。

 

こんな風に検討していく。もし、少しでもマシな生き方をしようと決意していて、心当たりがあるなら、即刻やめる。言い訳や非難が出てきそうになっても、ともかく止める。やめると決意する。そして、どうして自分がそんな反応をするのか検討してもらいたい。必ずなんらかの信念に行き着くと思う。

たとえば、わたしが人を妬まないのは、高校時代に「彼も人なり、われも人なり」という言葉に出会ったからだ。それまでは、劣等感の強い父親の信念が影響していたので、どこか言い訳じみた、他人のせいにしたい気分があった。

なりたい自分になるためには、なりたい自分になると決意しなりたい自分ならどうするかを実行すると共に、こんな自分はもう要らないと思うことは全て止めると決意することだ。(そうしたからといって、それを選んでやっている人を非難する必要がないのを付け加えておく)たいていは前者だけを勧めているが(レベルの低いことには執着しやすいからと思う)後者も実行した方が効果があるように思う。この点については、異見があれば教えて下さい。

 

人生は舞台、人間は役者

 

シェークスピアが台本に書き残している。もちろん彼が初めてのことではない。それまでも何度も口にされた言葉だ。

人間は「人間」がどういうものか、知って生まれてきている。それがこの世、物理世界でどのくらい実践できるか。

テスト勉強をする。それが本番でどのくらいできるか。

セリフを憶える。それが舞台でどのくらい演じられるか。

同じように、生得的に知識はある。それをどのくらい実践できるか。思い通りに、満足のいくような、渾身の人生を歩むことができるか。

「知っていること」を「経験」するために「体験」がある。

「知っていること」を知るために「知っていることと異なること」をやる場合もあるだろう。それが「人間以下の振る舞い」であるかもしれない。

何度も生まれ直すと、知っていることを知っている通りにやれるようになる。

一つの人生の中でも、

何度も生まれ変わっても。

試行錯誤して失敗や成功、躊躇や過度、などから学べば上手になっていく。物事の修練と同じである。すべてが『本当の自分』に至る道であったと気付いたとすれば、相当の領域に達したと思って間違いないだろう。

そこで、こんな言動をするのがどのくらいのレベルあるいは霊格に在るのかを皆さんと一緒に見ていく。

 

 

10月29日 このページ内でつづく」

 

 

 

このことは、なるべく早めに押さえておかねばならないと思う。人の健康状態の機構について、いくつかの説明が可能であるが、まずもって順路のイメージを抱いて頂きたい。

たとえば、ある人が自分の意にそぐわないことを聞くとすぐに怒りを覚え、非難し悪馬するという反応を常習にしているとする。いつもやっているので常時スタンバイ状態になっていて、キーとなる言葉を聞くと即座に臨戦態勢を取ることができる。それを常に訓練していると言い換えてもいい。

怒ろうとした瞬間に霊体の一部に低い電磁波、渦が形成される。実際にどうなっているかは解らないのであるが、肉体には霊体が重なってある。それはいくつかのレベルが複合しているが、何にしろ、わたしたちが何かを意図すると、まずもってそこに創造が働き始める。

当人の意思によって宇宙=霊体に選択され創造されたのである。意識を向けた、選んだ途端、そこにあったエネルギーが融合を始め、微細な素粒子が意図に応じた原子核などになる。それが、より物理的表現である想念や感情を創り出すのである。

肉体レベルでは、アドレナリンなどのホルモンが醸成され、交感神経が活性化し筋肉や器官が本人の意思によって動く。顔が怒りに歪み、口を尖らせて予め用意されているののしりの言葉を投げつけ、殴りかかろうと構える。(同時に防御しようともする)呼吸は大きくなり、体はガチガチに硬くなり、ぶるぶる身震いまでして見せるかもしれない。相手は、うぇ、っと寒さを覚えるだろう。同調すれば、殴りかかるかもしれない。

根になっているエネルギーは『不安』である。不安のエネルギーによって構成された素粒子やホルモンなのだ。

問題は、イキリ立ち、怒り、非難し、悪馬した後である。

それを実行するために生成されたアドレナリンなどのホルモンが分解される。体にとって、こうした状態は、緊急事態なのだ。一気にエネルギーを消耗したので、長くはもたない。

さっさとアドレナリンを分解してしまわなければ死んでしまう。アドレナリンが分解するとき、酸化する。この酸化が肉体にとっては『毒』となる。DNAの働きを阻害し、免疫機構を遅延させる。早く排出してしまわなければならないが、その際に身体中にあった微生物を殺す。過剰な酸素をくっつけてしまうのだ。いわゆる体が酸性に傾いた状態である。

こうなると、有用微生物が減り、発酵が起きずに体温が下がる。

しばらくすると、どっと疲れが出て、へとへとになり、げんなりしてきて(どうしてあんなことしてしまったんだろう)などと自責、自虐の念がわいてくることもある。エネルギーを使い切っていなければ、自己正当化と責任転嫁に走る余力はあるだろうが、いずれにしろ、楽しい気分にはならないので、暗い顔になり、体温も下がり、食欲も減退する。

あんなことを言ったあいつが悪いんだ・・・。そんなふうに結論づけて慰めようとするかもしれない。だが、

怒ったのは、

怒りを選んだのは、他でもない。私自身なのだ

その言葉を聞いても、他の選択はいくらでもできたはずだ。だが、怒りを選び実行したのである。それは、私自身だ。

これは不健康になると決意しているのと同じである。口では健康になろうだの健康第一だの言っても、病気のメカニズムを活用している。

戦闘において、怒りや憎しみを発せず、冷静にあった方が軽々と動ける上に持続力が長いことは誰でも経験済みにちがいない。だからこそ、戦いに勝とうとしたら相手を怒らせ、逆にこちらは冷静を保つことである。

しょっちゅう風邪をひくのは、「毒を出している」とうそぶく者がある。まやかしだと思う。まやかしを信じこんで自己正当化しているのだ。

入りそうになる毒を阻止するための咳と体内で病原菌が繁殖してそれを撒き散らす咳は違うと思わないか?

毒を出さなければならないのは、毒があるからである何よりの証拠だ。発症する前に浄化されていれば、『悪い咳』として放出することもない。

 

いつもこうして毒を作る訓練をしていると、皮膚がかさかさになり、髪の毛が伸びなくなり、関節が痛くなり、インポテンツになり、歯茎が緩くなり、・・・いわゆる老化が促進されるのである。余計な時間を創出しているからだ。インポは夫婦円満を壊す元凶であり、それが家内の安全をあやういものにする。(不倫はなくなるかもしれないが)

有用菌が少ない、適切な量のカロリーやビタミン・ミネラルなどがなく、体温が低いので、免疫もうまく働かない。

それで、いちいち風邪をひく必要が出てくるのだ。風邪で止まっているなら幸いだ。やれ肝臓だ、腎臓だ、肺だ腸だ、膵臓だ腎臓だ、と「早く自分を進化させてくれ」というメッセージを彼らに発しさせてしまう。にもかかわらず、原因は患部だとして薬という名の毒をぶつけたり、切り取ったりする。

風邪は万病の元なので、それを発症しなければ他の病気にはならないのではないか。

 

肉体や言葉や習慣など物理の側から働きかけることもあるが、それでも「潜在意識に働きかける」と称されている。あくまで順路は、意思、意識、霊体の方からである。すべて、己を何者と思うか、自己選択のいかんにかかっている。

 

肉体には細胞液にも血液にも至る所に微生物がいるのである

 

体内に有用菌が少ないと、発酵していない。そうすると体温が低くなる。DNAの活動が鈍化し、免疫機構がうまく働かない。有用菌が少ないので病原菌が繁殖しやすい。それで、しょっちゅう風邪をひく。

体温をあげるのには、体内に有機物があるとやりやすい。ご飯を食べると血糖値があがり体温があがるのは、微生物が発酵という分解活動をしているからだ。消化とは、身体中に有機物を蔓延させる活動である。それを蓄えとして、微生物がゆっくり酵素で分解することで熱とエネルギーを取り出しているのだ。腹一杯になるとか、エキスを吸っているとか、そういう話ではないのである。

健康や動物愛護を目指したビーガンやベリタリズムがなぜ、不健康な顔色をして、攻撃的傾向を色濃くするのか。動物を愛する前に人間を嫌悪、憎悪しているのは本末転倒を通り越して、微笑ましいくらいだ。

おのれが思想の正しさを訴え闘争するからでもあり、単純にタンパク質や脂質が少ないからである。健康どころか、病気である。調和こそ健康であり不調和は精神にも肉体にも好ましくない症状を呈する。霊格が低いのに動物性タンパク質を拒絶するのは不調和であるのではないか。

いまのところ、直接、プラーナを摂取しえないわたしたちの霊性と肉体では、食物を分解する過程で外れた結合エネルギーを得るしかない。いまの段階の霊性にあっては、食べる喜びもひとつの喜びであるため、拒否するのはもったいない。むしろ、最大に味わった方が賢明であろうと思う。

 

アミノ酸程度への分解までが臓器やそれの出すホルモンの役割で、もっと細かい例えば塩基などには微生物がやっているのである。有機物は微生物の『餌』というより、それらを分解するのが、かれらの仕事なのだ。宇宙と自然の循環の一歯車として彼らは存在しているからだ。

その微生物を能力通りに働かせているのは、太陽光線の一部であったりビタミンやミネラルの発する波動(エネルギー)だったり、あるいはわたしたちの溌剌とした意識であったりする。

田畑に有機物やビタミン・ミネラルが不足すると微生物が増えず、(仕事をするために仲間を作る)働きがわるいというより、不要になる。

植物も微生物の助けを借りて元気に育っているのである。

 

最も理想的で機能的なのは、『有用菌』:『その他の菌』の割合が72:28である場合だろう。

 

米や野菜を作っている人同士の闘争に、田畑に有機物を入れる入れないがあるが、どうして、「植物を喜ばせよう」とか「植物の能力を伸ばしてあげよう」と考えないのか? 肥料を入れてはいけないだのいいだの。生産性向上だの採れる物だけ採れればいいだの。そういうのは、人間のエゴだけではないか。野菜を食うのも人間のエゴと食欲、都合であるだろうけれども愛情をもって育てるのと植物を物体と見なしエゴをむきつける対象にするのは違うのではないか。「自然の循環を円滑にする」というのが、余計な力をかけない最もスムーズでパワフルな認識かもしれない。

有機物と有用菌が根元にある野菜。その土壌はわずかに発酵していて暖かいし、その分解物や微生物自体を取り込んだ野菜はやはりほのかに暖かいのではないか。太陽光を存分に浴びた野菜や米はそのエネルギーを取り込んでいる。それが、わたしたちの体の中で弾けるのである。

光合成のプロセスにおいて、植物は根から取り込んだ微細な物質を太陽エネルギーを使って結合し、アミノ酸やタンバク質、脂肪、糖分にしているのである。そのエネルギーが、人間の体内で異化する時に外れ、わたしたちの命に活力を与えているのである。合成で使われた太陽光の行き先は、わたしたちの活力というわけだ。

植物が根から取り込む微細な物質は、土壌の微生物が分解した物だ。そこに有機物がなくてどうして植物はおのれの体を形成することができるのか、わたしには解らない。

 

こうした、宇宙や自然と人間の肉体の循環を認めるなら、一体どうすればよいのか、答えはおのずと分かるのではないだろうか。

有機物を分解している菌を摂り込みたいのに、除草剤を分解する菌を大量に体内に入れるだろうか? あるいは防腐剤や残留農薬を摂り込んで体内の有用微生物を死滅させるのだろうか。

 

霊格が低いと、こうした負の循環を促進させ、健康にも豊かにも幸せにもならないのである。

 

 

「ここから11月14日記載分

 

このページに記していることは、(症状が出ていなくても)『病気の克服』のレベルである。さらに『健康増進』をしていくようになって頂きたい。病気の克服は一瞬で済ませ、青天井の健康を実現していくのは喜びであろうと思う。いまだ人類が経験したことのない喜びを創造するかもしれない。

霊格を上げ、望まぬ病気を発症しないように、あるいはコロナなどのウイルスと同調しないようにする、霊格向上の方法について述べていくが、その前に、ワクチン接種がどのような結果をもたらしていくかを簡単に述べておく。

 

ワクチンを打つ。いろいろなタイプがあるので、どのようなメカニズムで「効いて」いるのか一概には言えないが、感染できなかったり死滅したりするウイルスと生き延びるウイルスが出てくるのは確かだろう。そうすると、生命(意識)は生き延びるために『適応』する。DNAを組み換えそのワクチンでは効果のない、より「強く」なった変異株ができる。

これまでかからなかった強さを持った人まで感染し発症するようになる。それを繰り返すことによって、人類の手には負えない感染力と発症力を持ったウイルスへと変容していく。このあたりのことは眼のある生物学者などによって早くから指摘されていたことだ。門外漢でもちょっと洞察力を働かせればすぐに理解出来ることだ。

目に見えるレベルでは、ラウンドアップを長年使い続けたアメリカの畑では電動ノコさえ歯の立たない「雑草」が生えるようになったという報告があるけれども、それと同じことが微生物やウイルスのレベルでも起きるのだ。

それゆえの帰結として、ワクチンを打たずそっとしておく方が全体の被害が少ないのではないか、というのがおそらく微生物学の識者の見解なのだろう。

ワクチンを打たず、弱いままのウイルスにしておいて、人間の方の免疫力や抵抗力をつけていった方が賢明だ。賛成である。

だが、多くの人々は恐れや不安の方が先立ち、それを根拠に行動する。不安は、感染するのではないかという不安と他人に移す可能性のある者として嫌われる不安である。

不安がより強固なウイルスを創り出しているとさえ言える。

ただ、ワクチンによって死亡している例が多数報告されているため、接種に歯止めがかかってもいる。

が、不安の押し引きを考慮したとしても、ワクチンは効果があればあるほど、今後の人類の危険性を増していることになる。

他者の目や集団の同調圧力などを気にしなければ、死ぬのは発症してからでも遅くないと思っている。

0、感染しない 1、感染した 2、発症した 3、重症だった 4、死亡した

感染していない内からワクチンを打って死亡

感染しても発症しないかもしれないのにワクチンを打って死亡

発症しても重症にならないかもしれないのにワクチンを打って死亡

重症になっても死に至らないかもしれないのにワクチンを打って死亡

であれば、打たない方が死ぬリスクが減る。

これは本末転倒を通り越してなんだろう?

しかもさっき述べたように、他者、人類全体のことを考えても、他者に与えるリスクを減らせる。

これは論理的なことだと思うが、いかがだろうか。