手の親指に第一関節があることを知ったのは、2020年(令和2年)の2月21日のことでした。

正午を告げるサイレンが鳴った直後、僕のこの20年の懸案事項であった、雑念の払拭が成されたのでした。

本当にありがたかった。

手袋をポケットにしまいこむことはなかったので、こんな日にこそ何かあるのだろうと思っていたのは確かです。また、いつもはバイクに乗る前に必ずブリーフを履き替えているのですが、ーー覚悟と敬意、それからイザというの時の身だしなみのためです、ーーこの日は、なんとなく、いいやと思いそのままにしていました。(と言っても昨夜履き替えたばかりでしたが)なにかあるな、という予感がなかったわけではありません。エアーフィルターとフロントのブレーキパッドを交換したVツインエンジンを有する二輪車の最終調整のために試乗していたのでした。

しばらく走ったところで、ブレーキの利きも良い、アクセルのタッチも良好、エンジンの吹け上がりも抜群だったので、これでヨシと帰路についたのでした。

坂を登り、そのまま自宅に戻ろうかと考えたのですが、前方にトラックが停まっていたし、ちょうど昼休みになるので、左に入って妻の職場に寄ろうと思い直しハンドルを向けました。

子供たちがどこに居るかしれないので徐行まで速度を落とし細心の注意で魔のカーブに臨みました。ここでは、何かと不思議な事故が起きるのを知っていましたので、いつも他のどこよりも警戒して曲がります。

ちょうど、昼の12時を報せるサイレンが響きました。

右手に設置してあるミラーに太陽が入り眩しく、こんな時こそ気をつけなければ、と引き締めると、ちょうど前方に一台の車が目に入りました。やはり。と思ってさらに減速したのでした。

幼少時代・少年時代・青年時代・就職時代、およそ自分には雑念というものがありませんでした。会社では上司が毎日のようにやって見せてくれていたのですが、僕にはそういう感情がどうにも分からなかったのです。自責とか卑下をすることによってそれらを活性化させていなかったのだろうと思います。

ところが、20年前に11ヶ月の鬱、休眠を経て、ある種の目覚めを通過した時、自分を取り戻したと同時にネガティブな感情やエゴが噴出してきたのでした。2001年、31歳の時のことです。

それまでは『忘己利他』などと粋がっていたのもあって、(自分を犠牲にしてまでの)他者貢献が主眼にありました。ところがそれでは悟れず、どんなに本を読んでも考えても、ますます解らなくなるばかりで、僕は迷宮に陥り葛藤にふけっていたのでした。観念覚醒とでも名前をつければいいのかもしれません。考えて考えて、葛藤させて葛藤させた結果、それらが爆発し融合して、本質や実質が観え、直感や俯瞰の域に至ったのでした。

しかし同時に、否定的な感情やエゴまで活性化したように思います。押さえつけていた分、蓋を押し上げて噴射してきたのでしょう。忘己利他は、もう懲りたというかんじでした。大事なのは、自分だ。そんな当たり前のことに決して気づいた瞬間だったのです。崇高な自分を、実は単に自然な当たり前の性質に過ぎないのですが、それを自覚した反面、

雑念がわいたのです

主にエゴと恨みや憎しみが結びついてムカつかせていたのだと思います。ベースには不安があるからでしょう。しかも他人の腹の中が手に取るように観えるようになっていたのでなおさらムカムカするかんじがありました。それに、なんとこの世界は眠りこけているのか! なんでも望む結果と反対になるようやっている! という驚きというか憤りというか、嘆きというか、義憤とか憂慮と言ったらいいのでしょうか、そんな偉そうな感覚もあったのでした。

しかし、それを出すとあまり好ましい現実が創られないので、数年やってやめました。けれども、多少のイライラ、雑念は残っていたのでした。おれはやるのだ、やってみせるのだ、必ず意図する処まで到達してやる! 根深い恨みに似た感情でした。それが裏返って、保身や現状維持、自己正当化をしている様を見つけると、ちょっとムカつくのです。

いくら自分のためであっても、本当にヤバイ思い上がりなのです。

それが1日に数時間、好ましい時間ではありませんでした。なんとかしようと取り組み、数十分、数分、数秒にまで減らしてきたのですが、どうしても少し残るのです。これはなんともならないものなのか! 諦めの心境にもなっていたのです。

でも、どうにかしたい

その日も、そんな思いを抱えながら運転していました。

僕はスルスルと誘い込まれるようにカーブに引き込まれ、そして転倒したのでした。時速は10キロ以下、5キロほどだったと思います。まるで、右前方から風が吹いてくるように圧され、なんで? と思いながら左に倒れたのです。直前に左下に側溝跡が見えたのでそれに足を取られたか? と思いましたが、後になって検証してもバイクは道路の中で転倒していたのです。表面についた引っかき傷から見ても、側溝にタイヤがはまったわけでもありませんでした。

 

たいしたことではなかったのですが、救急車を呼んでもらいました。たまたますれ違った車の運転手が知り合いだったので、迷惑をかけたのですが幸運でした。

「救急車、呼びますか?」

「え? あ」それほどのことでもないな、と思って手を見ると、右手の親指の爪の下が上に曲がっていたのです。ああ、これは自分では直せないなと思いました。また、救急車で運ばれた方が処方が早いかもしれないと思ったので、

「お願いします」

と頼みました。

手の親指には関節が一つだけだと思っていたのが、爪の部分にもう一つあったのだなあ、と思いながら運ばれました。

実際、倒れた直後はなんともなかったのですが、肉体的な傷や衝撃よりも精神的ショックの方が大きかったのでしょうか、救急車が来るまでの時間で、頭が真っ白になる感覚があり、ちょっと朦朧となり横になっていた始末です。

ところが、魂のやつは、倒れながらなんと思っていたか!

やったぁ!

です。なんと、喜んでいたのでした。右前方から圧迫されたような力がかかり、なんで? と思いながらどうすることもできず、ーー足をつこうと思えばできたはずなのに、まるで他人の様を見るようにスローモーションで左側に倒れました。人間は他人がずっこけると笑いますが、魂は自分の肉体が死ぬかもしれない事態にも喜んでいるのです。肉体と精神と魂は、一体でありながら異なったエネルギーなのだと体験的に知りました。やつは、初体験を喜んでいたのでしょうか。

 

病院に到着するとすぐに手配がなされ仰々しくレントゲンなどを撮り、それをパソコンのモニターに映した医者があれこれ解説したのち、ではと立ち上がり僕の指を優しく握って、

ぐいっ

と下に曲げました。

うっ

という声は漏らしませんでしたが、痛みはありました。果たして、動かぬ関節は名医の技巧によって一瞬で元に戻ったのでした。

右手の親指は、同時に付け根の部分に突き指をしていました。擦り傷さえなかったので、おそらくは自分の胸にでも当てたのでしょうが自覚はありません。これは、いまでも治りません。日常生活に支障はありませんが、ずっと違和感があります。そしてまたそのことが幸いしているのです。

もしや? 

雑念が消えていることに気づいたのは23日か24日になってからでした。その後、経過をたどり、一ヶ月経っても、二ヶ月たっても雑念は戻って来なくなりました。半年が経ち1年が過ぎても雑念はわきません。2年半経った今でもありません。

一寸先は、光

僕は確信しました。

おそらくは、魂の襞みたいな奥まった所に釣り針が引っ掛かるように引っ掛かっていた恨みが、

ポーン

と転倒の拍子に取れたのでしょう。

一説には、ネガティブ・ウイルスを撒き散らしている宇宙存在もあるそうで、そいつらのせいにしたくはないけれども、僕自身のネガティブな部分に同調して入り込み食いついていたのかもしれません。

それを魔のカーブが取ってくれた。

そう思いました。『一寸先は闇』は天恵だったのです。わざと見えなくなっている、素晴らしい仕掛けだったのです。

事故の当初、大事故の予兆かもしれないという恐れもなかったわけではないのですが、学ぶことによってそれを起きにくくしている上に、実は魂の大転換の予兆だったことが今になってわかります。100パーセント現実をコントロールできないことへの不信もなかったわけではありません。ですが、だからこそ、不測の事態が望む状態へと移行させたのです。

2020年の2月22日から新たなスタートを切り、それまでの自分と決別したのです。バイクの免許を再取得してから2年をほんの数日越した日でした。(2年以内の事故だと自動車学校に通知が行って初心者の事故としてカウントされ学校の評価が下がる)

転倒したバイクは、購入時から曲がっていていつか替えようと思っていた左ステップを交換したり前輪タイヤとプラグを交換したりして、それまでよりかえって調子が良くなりました。

親指付け根の違和感は、スピードを出してやろうかという思いを抑制するのに効いています。たいていは安全運転をしているのですが、もしかすると魔がさすかもしれない。それを矯めるのです。アクセルをどれだけか以上ひねると、付け根が痛みます。それで、これ以上はアウトだとスロットルを戻すのです。

あの転倒は自分にとって全くネガティブなことはなく、むしろ好転した最高の転機だったのです。転身=EVOLUTION=進化です。衝撃とショックでバランスが取れ、統一性が増したのでしょうか、僕の全てが感謝の念に包まれました。あまりに根深かったので、こんなやり方(荒治療)でなければ取れなかったのでしょう。

たった数十センチの転落でも魂の進化には効果があるのかもしれません。(生き伸びれば、の話ですが)不測の体験は宇宙からのギフトだったのです。

 

こうして僕から雑念が消えたのです、ーーと言いたいところですが、消えて無くなったわけではありません。全ての時が、なにも湧いてこない静かな心であるのですが、他人がどんな雑念を沸き立たせ、それを自分のものであると勘違いしているかはわかります。また、自分の近くで雑念が行き来しているのは観測できます。まるでニコニコ動画の流れゆくコメントのようなものです。おそらく人は自分の波動の高さに応じて(多くはエゴやなんらかの恐れ)それらの内のどれかをピックアップして我が物としているのでしょう。そしてイライラ、ムカムカ、カリカリしている。

湧き出し、あるいは流れゆく雑念の中から「なるほど」と思える高次のメッセージをつかまえてもいいのです。玉石混交、中には砂浜の宝石のような情報もあります。

いずれにせよ、エゴや恐れから発する念は、自分の範疇にしないことだと思います。

でも、雑念が消えたからといって、ちょっと陰鬱な気分とか物憂げな気分というのは感じるのですよ。秋の物悲しさや深夜の静寂にふっと感傷にひたりたい気分もないことはないのです。愚かさや盲目さを観た時、人間がペットの猫が何をやっても、可愛いと喜ぶようには思えない時もあります。

 

まあそんなわけで、2年と半年ほど前の不測の事態が福をもたらしたという話でした。