卒業して2週間で体重が7キロ増えた。決して髪の毛の増量分ではない。すっかり僕はほがらかになった。背も伸びた。
ガリガリに痩せ細った骸骨みたいなガッデム先生の精神状態が転写していたのではないかと思えるほど、彼の圧迫からの解放感は大きかった。あの胃のよじれるような不快感はなくなった。ガッデム先生の伸るか反るかの緊張感がまるで悪性の放射能のように感情に悪影響を及ぼしていたのではないかと思えた。シールドしてもほっといてはくれない。わざわざこじ開けてきて彼の臭い吐く息を無理矢理注入しようとする。
この時の経験から僕は、俗物エゴイストの支配する集団にいるときは、徹底的に自分を貫くことを学んだ。社会的不遇に遭ってもだ。
4月開講。
駅を降りて歩いていると、ブリジストンから漂ってくるゴムの匂いがしていた。テニスコートの隅に設けられた校舎はこじんまりしていた。
僕はそこに意気揚々と通った。初めから終わりまでだ。
初め、僕は国立理系のクラスに入った。前から思っていた通り、国立の理学部を志望した。理学部生物学科だ。
ここの教師は高校を引退して、それから後の五年か十年か知らないが、教員生活を続ける老教師ばかりだった。授業は悪くなかった。さらに、英作文はネイティヴのアメリカ人が来ていたし、カバーしきれない科目は北九州の大手予備校から派遣されてきていた。
しばらく授業を受けていたが、僕は再考を余儀なくされた。
福岡市に駿台・代々木・河合の三大予備校が進出して出揃ったのは、この年前後でなかったか。久留米にあった老舗予備校は大打撃を受け、経営困難に陥ったと聞いた。明善時習学園は、生徒数は減ったものの、公立の付設予備校だったから運営はされていた。
大手予備校に行けば、1年で百万円かかるという。ここは、30万円と格安だった。
おそらく父は、僕が合格した時のためにと貯金してくれていたのだろう。納入の日に父の部屋に行くと封筒に入った札束を渡された。
お金を受け取る時、
「ありがとう。特待試験に受かれば授業料が半額か、全額免除になるらしいから、受けてみるよ」
と僕は言った。
「おまえが、なんが受かるか!」
こたつに入りテレビを観ながら、父はそう返した。
「あ、そ」
そのひとことで、僕は試験を受けるのをやめた。
照れもあったろう。過度な期待が失望を生むことも知っているのだろう。いつも僕の裏切りにあってきた彼が、子供にわずかな期待さえ抱かないための物言いだったにちがいない。また、金をケチることへの引け目もあったろう。そんなことが一瞬間、僕を横切ったのは確かだ。けれど、僕は意固地だった。
父の部屋から引き上げて台所を通っていると、母が言った。
「受けて、免除にしてもらって、余った分はもらっときなさい」
じっと母の目を見た。それが賢いやり方だと分かった。
「もう、いいよ」
僕はそう言って、全額を現金で予備校に納めた。
カネがない、カネがないが口癖の父は、以前からいろんなところで『その一言が高くつく』を何度も繰り返してきた。まだ、懲りないのだ。一度目の失敗を取り返すことはできないが、ほんの少しの用心深ささえあれば、次を防止することはできる。そのくらいのことは、いくら彼でも知っていたろう。にもかかわらず、対策をとらないどころか、半ば投げやりに、故意とさえ思える感傷によって損をしているのは、彼が『一つの欠陥があると、全てが台無しだ』ということを信条にしているからだ。全てをそれに帰結して責任逃れをし、注意を怠り、失敗を正当化しているのだ。
けれど、それほどまでに彼が人生の失意の中にいるのだと僕は思えなかったし、思いたくもなかった。そしてまた、父の常套句にまでなっていた全否定が「いい。お前に全部やる。好きに使え」という意味だと解ったのは、あとあと、あと、父が亡くなったあとのことだった。が、若くて性急な青年の僕には理解できようもなかった。
第1回目の校内実力試験があったあと、おたふく顔の受付の女性にたずねると「それくらいの成績なら、最低でも半額免除になったと思う。惜しかったね」と言った。けれど僕は、損をしたという気にはならなかった。
この年から、負担を軽減するとかで、共通一次試験がこれまでの5教科7科目1000点満点から、5教科5科目の800点満点に変更された。さらに、国立が2校事前出願で受けられることになった。(東大と京大のダブル合格ができた最初で最後の制度だった)
僕個人は、現役時代の英国生の3教科に数学と、理科を化学か物理をもう一つ、さらに1次で使う社会を、新たに加えることになった。
数学は少なくとも高3の1年間は数学Ⅰ数学Ⅱは授業すら無視、数学Ⅲは全くの初めて、初心者もいいところで、高校1年生の実力もない。なにせ、それまでもたいして得意でなかった上に、昨年はまったく手をつけていなかったのだから得点力は皆無、ほぼゼロからのスタートだった。もし僕がガッデムの言う通り、故意に不合格してことし国立を目指そうとしていたなら、密かに数学をやっていたことだろう。
それに加えて、気の進まない化学をいちからやり始めた。社会は高校の時に授業すらなかった地理を選んだ。歴史は、中学の時に問題になった『進出か侵略か』以来、胡散臭いと思い、忌避していたからだった。
国転した僕は浪人だけど、実質、2年生の時に数学を全くやっていなかった新高3生と同じだった。共通1次も2次試験も初体験となる。
ひとつきほど通ってみて、さすがに、いくら僕の頭が良くても、これは無理だろうと気づいた。しかも生物学科は15人とか20人とか、各大学で非常に募集定員が少なかった。
静かに考えた。
5月、僕は文転を申し出た。
「先生に聞いてみる」
と受付にいたおたふく顔の女性が言った。
3年生になる前だったか、ガッデムがこんなことを言って諭してきた。
「国立にすると科目数のちがいから、個々の教科の得点力が低くなる。失敗すると下位の私立大学に行くしかなくなる。それくらいなら、早めに私立専願にして受験科目を絞り、上位を狙った方が、得だ」
受験というゲーム、それから大勢の動向、そして全国トップレベルでない者の個人のデータを分析すれば、ガッデムの言うのも一理ある。
だが、その時の僕は火の玉みたいな勢いで、自分の未来を睨みつけていたので、ガッデムの持説や押し付けなど弾き飛ばす勢いだった。彼はそんな僕の態度を反抗と決めつけて非難した。
それが反抗なのか? なにもやらずに、成果も出さずにアドバイスを否定するだけであれば反抗にちがいない。だが、そうでないなら、志ではないか。熱い志の行くところに、甘ったれた生ぬるいご都合主義など入り込む余地はない。じぶんの言うことに従わなければ反抗と決めつける年配者は高齢な幼稚者である。
だが、初志にこだわりすぎるのは、ガッデムの言葉を借りれば、「愚の骨頂」なのだろう。目的が『最難関の突破』でもない限り、しなやかに選択し直すのは賢明さであろうと思う。コロコロ移り気なのも、理想だけ高く定めてそれに頑固に執着するのも同じく無明なのだ。
だいたいが僕の初志は、学門あるいは『真理の探究』にあり、この大学以外ありえないというものではない。実のところ、『絶対合格』を掲げていた明治大学にすら何の執着もなかった。そういう意気込みでなければ合格の十分条件を満たさないから思っていただけであって、こだわっていたのでもないし、こだわる大学でもないと思う。不合格だったところを見ると、その意気込みは必要条件にすぎなかったようだ。
高校1年の時に、学門の一環として受験勉強をやると決意していた自分を思い出した。その思いは変わらない。けれども、現実問題として合格するための方便はあるし、試験で高得点を取ったから、あるいは難関大に合格したからという理由で自分をその点数や大学の格と同一視するのは避けなければならない。それでは成長が止まる。受験の方便も、あくまで真理の探究をしていくプロセスに過ぎないと思うのだ。
以前からの想いの通り、僕はこれからも真理の探究をする。だが、それのための場とモラトリアムを得るために喜んで受験勉強をするのだ。
真理の探究などと言えば仰々しいが、当たり前の、日常の、茶飯事の心構えにすぎない。心の成長のことだ。(意識してやるか痛い目にあって思い知らされるかの違いはあるが、精神の発達とか魂の成長、あるいは意識の進化と言い換えてもよい。それが成されることによって生活や結果が変わってくる。いわゆる使える宗教、あるいは真実というものだ)
理学部が文学部にかわったとて、大差ない。どちらもリベラル・アーツ、原理原則の探究なのだから。と僕は思った。
だが、国立大学進学が譲れなかったのはなぜだろう?
許可はすぐに降りた。僕はその日から国立文系のクラスに鞍替えした。これで僕は国転した上に文転したことになる。こういうことをする人で成功した例は極めて稀らしい。
受講する生徒は理系のクラスより少なかった。
佐賀の全県模試で1位を取ったことがあるという、教壇のまんまえに陣取っていた生徒が授業中に弁当を食べ始め、アルマイトの弁当を真っ逆さまに床に落としたり、授業中に奇声をあげたりすることや彼がなぜこの予備校に来るに至ったかなど面白い話はあるのだが、横道に逸れるので割愛する。
五十嵐のことは少し触れておこう。彼は現役時、1次700点/1000点満点で山口大の文学部を落ちて来ていた。山口大学文学部・・・。ちょっと因縁めいたものを感じたけれど、すぐにその思いはそよ風に吹かれた。五十嵐は、
「浪人するんだから、九大くらい余裕だろ」
と豪語した。
結果から言うと、期待通り1次試験10%上げの630点台/800点満点を取って九大の文学部に合格した。
五十嵐は僕の落ちた公立高校の出身者で通学電車も同じだった。文学部志望も同じだったし僕の偏差値が自分より高かい教科があったので、近くで勉強する相手として不足はないと見なされていたにちがいない。
硬くて短い髪に白髪が交じり、濃い眉毛に菱形の強い目をしていた五十嵐はハイスクール奇面組の冷越豪みたいな暑苦しい顔をしていた。

自信満々で、不安の微塵も見せなかった。僕は喜んでそれに同調した。
自信がないというのは、あまりに余裕をこいた、自分を買いかぶりすぎた暇人の態度だ。それこそ慢心と怠惰の最たるものだ。
だいたい五十嵐は、初めて会った時にもかつてのクラスメイトにでも話しかけるみたいにぶしつけだった。プラットホームに降りた時だった。
「どこを狙ってるんだ?」
いきなり見知らぬ男が質問してきた。予備校で何度か見かけたことのあるこの男は、僕の落ちた高校の出身者だった。定期を駅員に見せると古いコンコースに出た。横を歩いている彼に僕は答えた。
「国立の理学部だ。生物学科のあるところならどこでも」
「それはいかんな」
おおきな目をぎょろぎょろ動かしながら言った。それが五十嵐だった。僕はどうやらガッデムに毒されていたようだ。
「まず、大学を決めなくちゃ。試験問題の癖は大学によってちがうから、そこに照準を合わせなくてはいかんな。俺たちは、あくまで受験をするんだ。学門じゃない。万能の学力だの、上から下までまんべんなく、など要らん。受験は、たった三年の限られた時間で志望校の試験でいかに合格点を取るか、そこに知恵を絞るゲームにすぎん」
「ケッ」
横で聞いていた夏木が吐き捨てた。彼は中学の同級生で朝は五十嵐と同じ駅から乗って来ていた。そして、どうせ何かの指南書に書いてあったことだろう、とぶつぶつ言った。五十嵐はちらっと夏木を見たが自信たっぷりに黙殺した。
五十嵐の言うことは的を射ていた。功利主義のように聴こえるかもしれないが、受験は受験にすぎない。彼は否定したけれども、残念ながら僕は万能の勉強などしていなかった。中学にはそんなことを思い勉強をやめ、高校になってからも根底にはその思いがあったが、いつしかガッデムが国立受験を認めるよう模試の偏差値を上げるための苦心にすげ替わっていた。僕は二重の意味で自分を恥じた。
五十嵐は自信の塊だった。
不安な物言いを聞いたことがない。自信過剰なのでもない。ただ、自分の想定している未来にみじんの疑いも持っていない。ずいずい風を切って歩いていた。
自信の根拠を問う者がいるが、めくらだ。
自信の根拠は自信である。
何か外側のことを根拠にして威張るのが最も見苦しい。それはむしろ、自信のなさを自信ありげに。自信をもって訴えているのだ。
自信とは過去の、しかも他人のデータをもって持つものではなく、今と未来に関して観る明るさのことだ。
国立文系の授業を受けた。数学。ベテランの老教師が丁寧に解答してくれた。だが、一応、三年生の時に受験勉強してきたものという前提であったので、僕はついていけなかった。それですぐに自習室での自学に切り替えた。授業は3回だけで、それ以降はひたすら自習室で問題を解き続けた。
文系に転じたのは、気変りだった。
心境の変化はなんの前触れもなく、突然起きるものなのか。受験科目の進捗と得点予想をしたからだけでなく、ふと「社会学をやってみたい」と思ったのだった。社会学は最も新しい学問だと何かに記述してあったのを思い出した。
これまで、男子だからなんとなく理系、理系の中でなら生物かな、と思っていたのであったが、ーーいや、もちろん生物学には理科の中では最も興味があるけれど、自分の志向や性質を観察・分析すると、どうも思想・哲学、心理、信念、観念、社会、集団、行動などに殊更興味がある。その根幹は人間の信念や観念、思考、理性、感情、直感、悟性、潜在意識である。
勉強を始めた当初、とりあえず目標にしていたのは農学部であったが、それは単純に偏差値が最下位だったからだった。成績があがり始めると、米と野菜と害虫をどう人間に都合の良いように持っていくかより、自然科学、植物や動物など自然の原理原則を解明したいと思ったから理学部を志向したのだった。
それが文学部や文理マタギの分野になったとしても自分の中では違和感はなかった。人間というものの本質を解明する。あるいは宇宙の心理を探求する。それこそ、自分の最も興味のあることだと思えた。意識という摩訶不思議なものが解明できれば、人間の全てが把握できるのではないか。それなら、意識をテーマにしている社会学こそ今これからの数年間に勉強し研究するのにふさわしい分野ではないか。そう思ったからだった。
これの方が「なんとなく生物学科」より目的が明確だと思った。自分にはしっくりくる。生物学をやるにしても、動物・植物・行動・形態・分布・細胞、遺伝子・・・どれをやりたいのか定かではなかった。しかもどれをやるにしても、外側のことでしかなかった。僕はどうやら、内面のことに強く惹かれるようだ。
そういうわけでこれ以降、志望への揺れも、ブレも生じなかった。
文系といっても、法学部や経済学部ではない。ましてや教育学部など思ってもみなかった。では、文学部で古典研究や歴史研究をやりたいのかと言えば、そうではない。哲学は、するものであって、研究するものではないと思った。同様に詩や小説は書くものであって研究してはならないとさえ思っていた。
一般では手に入らない本に書かれた各種論説文が国語の問題文に採用されていた。また、英語のリード文にも西洋の思想を中心とした知的なエッセーが書かれていて知的好奇心をくすぐった。それらを鱈腹読む内に、自分の幼き日に志したことを思い出したのだろうか、心境の変化が生じたのだった。
僕は大真面目に真理の探究をやっていたし、ガッデムの呪縛から解き放たれた今、国立大学に行くための、いわば見せるための偏差値伸長に執着していた次元から、行って何をするかにまで思考が及んだのだった。大学に入ったら、もっと自由に、自分なりにそれを掴みたいと思った。
社会学のあるところを探した。九州の国立では熊大の文学部の中の一つの学科にあった。まずは、ここを基点にしておこう。僕はそう考えた。
2
6月になった。5月に受けた、ガッデムが旺文社より難しいと言っていた進研の記述式模試の結果が返ってきた。
英語81.2 数学52.8 国語60.4 地理37.8 生物75.8 だった。晴れた日だった。配られた結果をもって生物の教室に行った。
これを見た五十嵐は、
「すごいじゃないか。おっさん、すごい」
と感心していたが、ーーかれは人のことを、おっさん呼ばわりする癖があったーー、僕にはそれより興味のある事柄があった。まずもって、
偏差値のインフレか?
と思ったと同時に、明治大学には学力がなくて落ちたわけではなかったと確信した。
旺文社は実際に受験した受験者より学力の高い生徒が受けたと想定した母集団で偏差値を算出していたので、ここまで高くは出なかった。
英国生物3教科の平均偏差値は72・4で、この時期はまだ浪人生には有利だったが、決して低い数値ではなかった。代々木の私大模試偏差値に10足したくらいだったので、3教科に関しては2月の受験期でもこんなものだったのだろうと思った。
ともかく、この3教科は県の公立トップ進学校の上位に入るほどの偏差値なのだから、明治不合格は実力相応というわけではなかったのだ。だから僕は、現役時の敗因を学力には置かなかった。むしろ、ガッデムの強制に屈し志望先を曲げたことにあると思った。
数学と地理を始めたばかりで得点力がなかったのに、すでに熊大文学部はA判定が出ていた。実質、現役と同等の僕はここからさらに伸びる余地はあったにちがいない。
五十嵐は、僕の成績を見てことらさ驚嘆していたが、国立に替えた僕には平均を上げているだけの、いたずらな高偏差値など眼中になかった。
偏差値は50を超えていたものの、数学の得点力がないのが懸念だった。共通一次試験に偏差値はどうでもいい。得点だ。物化生地、地歴倫社、平均点と標準偏差に違いがあるのに、点数で合否が決まる。
数学でどかんと落とす可能性のある僕に、他の科目の偏差値がいくら高くても全く保証がない。
「現役の時に3つしかやっていないんだから、当たり前だろ」
と僕は答えた。
五十嵐も、英語は僕よりちょっと低いくらい、国語は同じくらい、生物も僕より少し低く80点台か90点台と高得点を出していた。前年5教科7科目やって、僕の3教科に迫る数値なのだから、その方がすごいのではないか。数学と世界史は僕の三倍以上の得点があったし、前年に5教科ともやっていたので五十嵐は教科ごとのバラツキが小さかった。
彼の驚きと感心は、少なくとも2教科負けていることを知って発奮したからだろう。
私大受験で、偏差値がA判定ラインより5以上高かったにもかかわらず不合格だった経験から、僕は偏差値をあまり信用していなかった。あくまで、目安。自分の成績の上がり下がりを管理するものであり、自分の弱点を知る道具であり、またどの教科にどのくらい力を入れるかの分別をつけるためのツマミにすぎない。
第一、大学受験で受けるのは模擬試験でなく、大学の作成した問題だ。C判定以上なら、受ける権利があるくらいのものでしかない。入学試験で点数を取ることを重視した勉強法にシフトできたのはありがたいことだった。
そんな折、『合格へのパスポートライン』という冊子が配られた。これには旺文社の模試を受けた人の、昨年の各大学の合格者の平均偏差値がランキング形式で掲載されていた。
合格者平均は明大農学部農学科が58・4だった。合格者の平均なので、これより下の人も合格者には半分くらい含まれていたと推測される。農芸化学に至っては62・9で、どちらの学科も昨年の模試の合格判定に使われた数値より高かった。やはり、バイオテクノロジーブームに乗り、国立大農学部や理学部志望者のみならず私立上位の理工系志望者までが流れていたのだろう。
だが、すでにこの時の僕は明治大学にみじんの未練もなかった。あの日試験会場で「やめ!」の号令があったと同時に鉛筆を机に置いた瞬間、もう別の方を見ていた。
だが、自分の過去を正確に振り返ることは有意義なことなので分析を続けた。思い起こせば、出願に際して、日大や農大は農芸化学メインで選択したのに、どういうわけか明治だけは農学部にしたのだった。封筒の表に出願学科名の欄があり受験する学科を○で囲むよう指示されていた。鉛筆を持ち、農学部の欄の上にもっていき、さあ農芸化学に○印をつけようとした瞬間、手が勝手に動いて『農学科』を囲んでいたのだった。自分でも理由が解らないが、それでいい気がした。
果たして、農学科の合格者は388人で、農芸化学科はより少ない353人だったし、農学科に関しては僕の偏差値の方が合格者平均より少しだけ高かったので、合格者平均偏差値が62・9になっていた農芸化学よりも合格の可能性が高かったのだったのだ。
昨年は模試偏差値60くらいでA判定の出ていた農芸化学科の合格者平均が3ポイントほど高くなっていたところを見ると、農芸化学科に出せばもっと苦戦していたことになる。合格の可能性の高い方の学科に出願していたことになる。出願時の気まぐれは、あながち間違ってはいなかったのだ。
それにしてもあの、受験時の目の前に梨地ガラスのかかったような状態はなんだったのか? 不思議だった。
東京農大農学科は58・6、農芸化学科は61・0。日大農芸化学は55・9。いずれも合格者の平均偏差値が統計に出ていた。この学科に関して言えば農大は明治と同等、日大の合格最低点はあの難易度で8割だったので、おそらく面接の評価が最悪だったのだろう。お行儀と品の良さは、社会においては偏差値に勝る重要な要素である。面接試験は、偏差値至上主義者の不本意入学を減らすための最善の策だ。
こうして1年目の失敗の総括が終わり、もう振り返ることはなかった。
3
ヰタ・セクスアリスを読んだ。鹿児島本線羽犬塚駅から久留米駅までの時間は本を読むのにあてていた。日課だった。鴎外という人は、すでに僕らの時代には神聖化されて久しく、学校では夏目漱石と共に日本近代文学の祖みたいなあつかい方をされていたから、大仰なことが書かれているにちがいないという先入観で読みはじめた。
読書の習慣は、高1の十六歳の時に始まった。毎日読むと決意したその日から欠かさずやっている。小学校の時には読書家のクラスメイトと競争のように図書館から借りて読んでいたのだったが、中学1年の時に、ある思いから読まなくなり、丸2年間読書から遠ざかっていた。それに猛省してのことだった。
吊革につかまって読みながら、僕は幼少の頃、近所のガキ大将なんかと空き家の中でやっていたフリチン行列なんかを思い出していた。それは、両親からあの子とは決して遊んではいけないと釘をさされていた二級上の男の子だった。あるとき彼が、近所の悪ガキ連中を集めて空き家に侵入することを思いついた。そこで、彼が僕らに命令したのは、パンツを脱ぐことだった。そして股の間にチンコを隠して女になりくねくね歩くことを提案したのだ。僕らはなぜか、全員それに逆らわなかった。彼が恐かったからではない。男の自分が女のふりをするなんて、そんなおもしろいことはないと思えたからだ。聞けば父も、そんな遊びをしていたらしい。彼は『スモウ』を取っていたそうだ。彼は少年時代、山奥の村で過ごしたそうだが、道で見知らぬ少年と出くわし、メンチを切り合ったなら、申し合わせたようにズボンをおろし、下半身を顕にしたのだそうだ。そして、カブトムシの角のように組み合い、チャンチャンバラバラ丁々発止、お互いの男根同士をぶつけあい、先に射精した方が負け、というスモウだ。
予備校までの道のりを歩きながら最後の方を読み、読み終えたのはブリジストン工場の門の前だった。本を閉じ、カバンにしまった。
小説家というのは、自分の恥をさらせばさらすだけ、名誉をあげる不思議な仕事だな、と。名誉と恥とは水と油みたいなものだと思っていた僕にはちょっとした発見だった。恥ずかしいからというより、自分にまつわる人々の不名誉になるかもしれないというおそれがあったのかもしれなが、鴎外も小説の中で『こんなこと書いていいのかなあ』と自問しているし、『この人のことを書きすぎたかなあ』と反省している小説もいくつか目にしたことがある。
けれども、どんなにこれは本当にあったことですと念を押したところで、読み手は作り話としか思わないし、いくら自伝的といったところで、やはり作者の中での真実でしかない。反対にまったくのフィクションであっても、ゲスの勘ぐりはとどまるところを知らないし、なんでも自分のことを書いてあると読む女の子だってたくさんいる。
(僕は身内のことをさんざん書いてきた。けれど、僕の父や母に「こんなことがあったそうですね」とニヤついてたずねたとしても無駄だ。彼らはちっとも憶えていないか、全否定するに決まっている。そういうときだけ結託、共謀して記憶をなきものにするのだから。そしてまた、本当に忘れている。彼らは都合のいい健忘症だ。それでも、彼らの内面の動揺をみてとり、悪意に楽しみたいなら、そしらぬ顔でたずねてみたらいい)
したがって偉大な作家というのがあるとすれば、それは妄想と揶揄されようと自己の内面を脚色せずにできるかぎり正直に述べた人ということになるだろう。たいていほとんどのひとは飾り、隠すから。でも、小説という名称がついている通り、すべてを作者の妄想(ファントム)だと思って読んだ方が賢明かもしれない。どんなに作者が自分はモデルを使わないと言ったところで、それは嘘だ。必ずなんらかのモデルがある。ピカソがスレンダーな美人を目の前に置きながら、あのキュービックな裸体を描くように、作者によってデフォルメされ、元の姿とは似ても似つかない作品になったとしても。想像しうるすべての人や出来事はすでにいつかどこかで現実化していると言った方が正確かもしれない。大切なのは、そこに書かれていることがどれくらい事実に則しているかではなく、その記述に自分が何を見て取るかの方ではないかと思う。けれど、こんなふうに言えば言うだけ、信憑性が増すから不思議だ。
しかし僕はイタ・セクスアリスについて書こうとは思わない。鴎外の時代には誰も書かなかったことかもしれないが、いまや誰でも書くことだからだ。それに、僕は自分のセクシャリティを暴露することを恥だとは思わないし、そうして見ず知らずの青年の孤独な悩みを共に解決してあげようとも思わない。放課後に教室にしのびこみ好きな女の子の笛をなめてワクワクしたとか、好きな女の子の髪の毛を陰茎に巻き付けドキドキしたとか、好きな女の子のシャンプーをこっそり使い一体感をおぼえたとか、好きな女の子の箸にスペルマを塗り付けて青い興奮をおぼえたとか、リンスの中にスペルマを入れたとか、そういう話はよく聞く。
こんなことを言うのは別に恥ずかしいことでも悪いことでもない。自然な性のいち表現形にすぎないから。たとえ相手がそのことを知っても、場合によっては嬉しがっている。逆に僕がやられたとしても、それには悪意を感じず、むしろほのかな恋心すら抱くだろう。いや実際に、僕だって女の子に、かんでいたガムをかんでと笑顔でわたされたり、汗でびしょびしょに濡れたシャツを取られてほおずりされたこともあるけど、嬉しかった。
むしろ僕がいやーな気分になり葬り去りたいことは、母によって決めつけられた僕だ。しかもさも自分がなんでも知っているふうを装ったどこかで聞きかじってきたマズイ決めつけ方だ。そっちの方がよほど恥ずかしい。どんな事だって笑い話しにすることはできる。けれども、他人から勝手に決めつけられた自己については、悪性のスティグマのように染みつきし、笑いにしたところで寒いものが残る。僕については、僕がこうだという僕以外ありはしない。
などと考えながら予備校の教室に入り、カバンを下ろした。
朝、予備校に到着するとすぐに自習室に着席し、古文と漢文と英語と生物と地理のないときは、数学の問題を解いた。高校生の時のように、朝4時台か5時台の始発に乗って学校に行き、その時間に自作の文例集を暗記したり、休み時間や通学路で歩きながらとか、風呂に入りながら、便所でも、夜中の2時までなどということはなくなった。
高校三年の時は、平日は7時間以上、休日は12時間、机にかじりついていた。何時間勉強しなければならないからでなく、偏差値をこれくらいまで上げるためにやらざるを得なかったからやっていたのだ。
「このくらいの成績では国立は無理だ」と、ガッデムは言い切った。「お前が国立に通るのは、太陽が西から昇ってもありえない」
僕が偏差値をあげたかったのは、自分の作り出した最悪の状況を抜け出したかったからであり、同時に、どうしても上回りたい人がいたからで、こいつが「まだ足りない」「1教科だけできたって仕方ない」「ぜんぶ、まんべんなく得点できなきゃ」などと言うからではない。
ただ、模試の偏差値にこだわったのは、そうして見せないとガッデムが国立受験を認めないからだった。
だが、あとから振り返れば、ガッデムには始めから認めるつもりはなかったのだ。ああでもないこうでもない、これができていないあれができていないと屁理屈を言って人格まで否定し、持説に合うように持っていき、そこに押し込めたかっただけで、僕の志望や特性を見極めてのことではなかった。
「こっちも、生活がかかってるんだ」
ある時、堂々とホームルームで宣告した。
「お前たちは、おれの犬だ」
みな黙っていた。うすうす感じていたことをようやく口に出してのたまったに過ぎなかったから。
こうして彼は僕らが最も力を発揮できない最善の方法をごり押し続けたのだった。
生徒は商材
極端な考えをしていた。これが一般企業を経験してなった高校教師の成れの果てか。
こんな中で、自分を貫くには、強い意志を持つ。実力をつけて打破していく。そして結果を出す。とにもかくにも偏差値を上げて見せる、それしかなかった。
けれど今の僕は、自分の心にしっくりくる所を受ける自由を持っている。実に晴れやかで爽快でワクワクしていた。
そうでなければ物事はうまくいかない。
4
7月になった。6月に受けた進研マーク模試の成績表が返ってきた。
英語148点(73・4) 数学96点(52・1) 国語124点(59・8) 地理30点(36・4) 生物95点(79・3) 合計493点(64・1)
この時期までは前年の傾向が出ていた。英語・生物・国語が他の2教科より偏差値が高い。数学は、勉強し始めて3ヶ月あまりで半分ほど取れたことになる。おそらく2月の段階では0点だったと思われる。
生物は現役時代、20冊ほど、近隣の書店で手にはいる問題集はすべてやった。そのアドバンテージがまだきいていた。5月6月は偏差値も75以上出て、今回は全国で85位だった。
授業を受け始めてふたつきほどの地理は30点だったけれど、それでも他の教科で点が取れていたので熊大はすでにA判定が出ていた。
けれどもこのあと、数学に時間を取られる割には得点が伸び悩み、他の教科を維持するのがやっとという状態になる。
地理は模試を受ける度に10点くらい上がっていき、逆に生物は10点ずつ下がっていった。慣性の法則は、物理的世界ではそうそう長く持たないようで、春夏ー秋ー冬の生物の得点や偏差値は摺鉢状をなした。
昨年11月の代々木私大模試が瞬間風速ではなかったことが数字で示された。
したがって、明治の農学部は僕の道でなかったということだ。たしかに、今の僕の眼中には全くない。再チャレンジなど思いも至らなかった。もう、明治大学のことなど忘れていた。他の大学など、受けたかどうかの記憶すらあいまいになっていた。
誰かが憧れる大学・学部がある。そこに行きたくない誰かもいる。この両者の居ることは、どこの大学にもあることだ。
進研模試ではこの模試の偏差値から実際に1次で何点取りうるかの予想が示されていた。550点から670点と幅広い。しかしそれはあくまで他人の、過去のデータにすぎない。自分には400点を取る可能性も700点を取る可能性もある。目標点をいくらに設定するか、と僕は考えた。
共通一次の過去問を解いてみたのと自分の勉強積算量から算出すれば、数学以外は8割は取れるだろうと踏んだ。(昭和54年から始まった共通一次はまだ7年度分しかストックがなかった。しかも最初の3年分は模試より遥かに簡単だった)
総合点は数学が50点なら総計530点、100点なら580点、150点なら630点くらいになるのではないか。
数学の目標点を160点にした。160点が取れた時のことを想像したら嬉しかった。数学に悩んできた自分が、共通一次で160点を取る。なんて素敵なことだろう。
意気込みだけの、目をつぶったイタズラな高目標設定はかえって逆効果であることは誰もが知っている。自分を責めさいなみ、落ち込みたいからやっているマッチポンプに過ぎない。また、自己評価の低い、低過ぎる目標設定も不本意に終わるのも、よく観察される事実である。
最高のパフォーマンスが演じられる目標を掲げることが大事だ。
なぜ受験数学があまり好みでなかったかと言えば、2次元思考だからだ。あのような操作的思考は、データを目の前にして感情を抜きに解析する場合には有用な能力だ。大量の計算や手作業を節約する方法である。あるいは問題には明示されていない架空の鍵や道具を持ってきてガチリと開ける。そんなものだろう。
だが、実際の人間や社会を観る場合、あの思考法を採用すれば、トンチンカンな的外れ、独りよがり、サイコパスのようになってしまう。化学もそうだ。あまりに2元的すぎる。これとこれを混ぜたら、こうなるだろう! とガッデム先生のようになってしまう。これこれこうだから、こうするべきだろう! みんな俺に従え。
本質や核心はおろかバランスや調和を見ない。経済学で駆使した数式と結論は先を見通せないし、目的に合った方法を提示できない。せいぜい現状を把握するだけだ。
答えのある、人間の作った数学問題など、楽しいからやるお遊戯にすぎない。数学の本質をかすったようなパズルだ。それを時間をかけて全員がやることの無益さで、僕は中学一年を最後に数学を楽しんでやらなくなった。
本物の数学は宇宙そのものであり、人間にとっても有用だ。「生活の役に立たない」と言っているのは、忙しい暇人だろう。
本物の理学を究めるには、意識(電磁波)の解明、これに尽きるのではないか、おぼろげにそんなことを思った。
戯言はさておき、大学進学を希望し受験するのだから、押っ取り刀、受験数学で点数を取るしかない。すべてを排して、少なくとも合格点を取る以外に道はない。僕はこう諦めざるを得なかった。
浪人の10ヶ月間で最もやったのは、数学だった。コクヨの50枚のノート30冊ほどになったが、(100ページなので100題×30冊で3000題)他の人の手抜きレベルに到達していたかどうか、付け焼き刃の域だったにちがいない。
数学は諦めたのだが、なんのわだかまりもなくやった科目に比べて点数の低かったのが、もうひと教科あった。国語の古文だ。漢文と異なり、好みでなかったために受験期にあまり真面目にやらなかった。読めてしまえば英語より簡単で容易に高得点が取れる科目なのに拒否感があった。それが故に国語の総合点は伸び悩んだ。
マーク式模試で秋以降はだいたい評論文50点/50点 小説45点/50点なのに比して、古文は乱高下があり15〜25点/50点 漢文20〜35点/50点ほどしか取れていなかった傾向は、そのまま本番にも受け継がれることになった。
けれども、三十歳を過ぎた時点で霊的に覚醒しその度合いが高まってくると、不思議と古文が読めるようになった。これはもちろん加齢によって、人間がどういう生き物か、社会がどういうところかの認識が高まったことにもよるが、観えるようになったことが大きいのではないかと思う。
たとえば、五十歳の時に応募した増進会出版の添削の仕事では、最高ランクの採点者として登録された。希望した英語と国語のために事前にテストを受けたのだが、英語と古文のマーク式の問題は恐らくどちらも満点だったと思われる。特に辞典や参考書など使わず、実力で解いた結果だった。
正解を論理的に導き出す、という受験の方法とちがい、答えが観えるようになったのだ。リード文に書いてあることが分かる。人間が何を考えているのか分かるので、不正解は選ばない。問題作成者が何を答えさせたいか分かるので、正解を射止められるのだ。
早くにこの能力を開花させている人は受験においても非常に有利に働くのではないかと思う。努力による受験勉強を超えた感覚、理性や観念を超えた感性は伸ばすに臆することはない。とかく大学や科学はそれらを忌避し理性や論理性を異常に求めがちだが、数学においてさえ、むしろそっちの能力を養って頂きたい。理論と感受の両方を駆使すれば、正解のないことにさえ、喜びを覚える解答を得ることだろう。
評論文や小説は、受験を超えて試験中にも感心し、また感情移入し味わって読んでいたにもかかわらず、古文は処理や作業に過ぎなかった。日本語をガチガチの文法で無理矢理に読んでいく姿勢、それが嫌いだった。そうやって正確に読んでいるつもりになっているけれども、一体作者の想いと一致しているのか? そんな不満があった。ところが、四十歳をすぎ古典の原文に触れるととても面白いと思うようになった。
受験時代の僕には『詩や小説は書くものであって研究するものではない』という思いがあったことはすでに述べた。『文学や古典研究は30歳を越えてから』と思っていた。だから古典研究している大学学部や学科をメインに4年間勉強したいとは思わなかった。
こうした心理が受験国語にとっては、あしきに影響していたのだろう。微細な心の引っ掛かりが、勉強の割に得点につながらない要因になっていることがある。それが僕の場合、国語の古文に現れていた。英文や漢文を読むのが楽しかったのに比して、古文を読むのは憂鬱だった。だから僕は氷室冴子とか田辺聖子は好きでなかった。(あとから好きになったが)
僕はこのころ、国語の現代文にたいする考えを変えた。それで、取る点数に影響があったかは解らない。だが、足を引っ張るほどではなかったけれど、若さゆえの轍を踏んでいたかもしれない。
そもそも一部を切り取ってきた文章が、作者となんの関係があるのか。あるのは、問題作成者とである。設問のためのリード文を読むことが読書と呼べるはずもない。こんなものは、問題作成者が、自分の顔を隠すために僕らの目の前に置いたレースのカーテンみたいなものだ。質問をしているのは、問題作成者であって、僕らはレースのカーテンという状況から、彼の答えて欲しいことを的確に答える遊びなのだ。どういうことですか? と聞かれたら、具体的にこういうことですと答える。どうしてですか? と聞かれたら、具体的に、こういう理由ですと答える。まあ、当たり前の会話に過ぎない。自分の意見など介在する必要はない。どうせ、たいした意見をもっているはずがないとタカをくくっている。とまでは、言わないまでも、意見はこれから育んでいくとして、当たり前の会話のできないひとはゴマンといて、そういう人がなるべく大学に入ってこないようにするフィルターが受験国語だと言えるのかも知れない。世の中には、聞いたこととまるで異なることを平気で答える人がたくさんいる。感想はどうですか、と聞いているのに、ああだこうだ批判を始めてしまう人。実験によってでてきたデータを論理的に結論づけなくてはならない場面で、私情を吐露する人。けれども、この受験国語ができることは、従順すぎて自分のないひとに頭の良さと勘違いさせている側面もある。
ともかく、そうしてからは、試験時間中にいちいち文章を味合わずに、無味乾燥ぎみに解くようになった。味わうのは、試験が終わったあと復習している時だ。それからでも遅くない。
国語は評論文も小説も、おもしろいと思って読んでいたが、高校生の時のように身につまされるとか、感傷を呼び起こすといった、試験時間中に耽溺するようなことはやめたということだ。感情移入したような個人的な読み方から、とりあえず素直に正確に読み取り答える余裕を持ったと言い換えてもいいかもしれない。感想や批評は試験が終わったあとだ。
マーク式の模試では評論文が全問正解、小説が1問不正解、が定番だった。
嫌々ながらではなかったけれど、おもしろいな、と思うまでに変化しなかった数学と古文の点数が伸び悩んだのは、うなづける。理にかなったことだ。心のありようと現実世界の結果には確かな相関がある。
こうした引っ掛かりがあり、おもしろく読めない、取り組めない時点で、志向とはちがうし、道ではないのかもしれない。だからだろうか、五十嵐の志望していた、古典重視の九大文学部には食指が動かない。憧れないし、興味もなかった。
だがこのことは自分の好みの問題であって、今は選んでいないというだけだ。心に引っかかりはあるものの、数学も古文も勉強すること自体に鬱屈した気分や苦役感はなかった。
けれど、長い目でみれば、引っ掛かりがあったからこそ、長い間それに対する考えを自分の中で温めることができたのだった。
ところが、現役の時の僕には悲壮感があった。
土台、勉強していて暗くなるのはおかしなことだ。喜びこそあれど、陰鬱な気分に苛まれているはずがない。なぜなら、新しいことを知ったり解ったり、視野を広げたり真理を垣間見たりすることにどうして暗さがあるだろうか?
太宰治は『右大臣実朝』でこう書いている。
「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」
だが、暗さをごまかすための明るさでなく、心底、たましいが明るくないことは道ではない。
林真須美は娘の死の知らせを聞いた際「そんな暗い話は要らない」と言い放ったそうな。明るさだけを求めるのは暗いからだ。暗さに苛まれているから、暗さを拒否する。(暗さを暗さとして認知し、自分のものとして選ばなければそれで済むはずだ)
僕の現役受験時はまさに暗さゆえに「ゼッタイ合格」などとはしゃいで見せていたのかもしれない。実に僕の魂は、オイオイ泣いていた。
勉強して、魂の奥底で喜びがないはずがないではないか。困窮した状況から抜け出すために自分の考えを高めていく。その栄養となったのが、国語の評論文であり小説である。また、英語のエッセーである。参考書や問題集の著者が、あるいは入試問題の作成者が高校生に読ませたい、踏まえておいてもらいたい考え方や文章の構文やレトリックの盛り込まれたリード文を選んでくれている。まだ戦前の学校を出た教育者たちが現役第一線で活躍していた時代だった。
英語を訳しながら、科学者や文学者あるいは戯曲家などの高度な思想に触れ、とても興奮したものだ。受験を、学門の一端に位置づけさせてくれた教科だった。
不安になったり落ち込んだり、暗くなったりするのなら、その考えは真理ではない。そう言い切りたいほど、僕は明るかった。
たとえば、宇宙誕生130億年だのという、本当にそうかどうか分からない『時間』を信用し、手前勝手に決めただけの地球時間で計った時間で自分の百年足らずの人生を無理やりに割り、それが0・0000000000000・・・・だから、近似値ゼロだと勝手に切り捨て、自分は居ないのと同じだと決めつけ落ち込む。
ありもしないかもしれないことで、割れるわけもないものを割り、時間が近似値ゼロだったからと自分の存在を否定する。どうして時計時間を割った値が自分の存在にすげ替わるのか? 妄想である。時間の短さが算出されただけであって、存在を否定する根拠にはならない。
人間の数学に都合のよい考えを持ち込んで自分の『存在』を無視することは真理ではない。だから、不安になって立ち直れなくなるのだ。そんなのは不安の数学であって宇宙の数学ではない。不安から出た妄想で妄想し、妄想が現実だと信じ込んだ姿だ。女性にフラれたからとか事業に失敗したからとか、なんにしろ、根拠を勝手にこさえて「もうダメだ」と落ち込む姿は、ブレ(遊び)でしかなく、真理に含まれた暗真理である。
ほとんど自意識過剰の、自分に酔った、感傷に過ぎない。数学でもなければ科学でもない。不安だ。不安の頭の良さそうな表現か、世俗的な表現かの違いでしかなく、不安だ。
一個の存在は宇宙の重要な構成要素であり、勝手になくすことは不可能だ。そう確信した時、無常の喜びを覚えるのは、真理だからに他ならない。(真理に居て、真理から離れる妄想ができることにすら喜びを覚えて初めて、全般的に己を知ったのだ)
僕の鬱屈した悲壮感は、勉強ばかりして気がおかしくなっているからでなく、明るい未来が遮断されていたからだ。棒でこづき回され、突かれ、糞のついた足の裏で押しやり、行きたくもない道に無理やり歩かされるようなことになっていたからだった。
ガッデム汚腹。名前をもじって、そう呼ばれていた。
進路指導の席でガッデムは、さんざん僕を罵倒した。振る舞いの幼児性をとがめ、思考が固いと批評し、性格的欠陥を指摘し、あげく、
「どうしてもオレの言う通りにしないなら、オレは、お前の受験票を書かない」
とまで言った。彼が強制したのは、自分が滑り止めで受けた私大の農学部だった。「お前らが第一志望にするのは、この程度のところが目一杯のところだろう」と成績の良い生徒が出てくると強制した。僕はうつむいたまま、
「自分で・・・、書きます」
と言った。すると、息を吸い
「じぶんでは、書けねぇんだよ!」
と押し殺したような大きな声で怒鳴った。職員室で周囲を考慮したからだったろうか。だが、こう大上段に言い放った瞬間自分が何をしたのか、彼は恐らく解ってはいなかったに違いない。
「悪いことは言わない。俺の言う通りにしろ。そうすればうまくいく。ぜんぶうまくいくんだ。任せておけ。間違いはない。おれを信じろ。お前だって、合格したいだろう。どこだっていいから、合格が欲しいんだろう?」
今度は猫なで声で説得にかかった。もう何も聞こえなかった。この日から僕はお先真っ暗で、不合格を確信した瞬間まで、実に沈鬱な気分だった。
こいつが僕らを嘲りバカにしきっていたとしても、悲観的未来を予言したとしても、点数で人格否定したとしても、口でほざいているだけならこいつの自由だ。だが、そこまでやるのだったら、僕の責任まで背負いこんだことになる。しょいこんだ? いや、奪ったのだ。
実力行使に出た瞬間、この男は、僕に100%委ねたのだ、自分の人生を。そんなことをして大丈夫か? 僕の出す結果をすべてかぶることになるが、それでいいのか? 今の僕ならそう問い直すことだろう。
受験票を書かないと断言したとき、彼が僕に支配された瞬間だったのだ。完全に僕の思い通りになると奴隷契約を結んだのに等しかったのだ。
万一、僕が不合格であれば、こいつの将来は壊滅する。そんな賭けに出た自覚があったのか? この愚鈍な男に。もし自覚があったのなら、土下座して頼んだはずではないか。お願いします、と心から訴え、僕の心を変えたはずだ。
2年生の終わりのこの日この瞬間に、おのれの生殺与奪の主導権が僕に渡ったのに、僕を牛耳った、自分が他人を全部掌握しえたと思っていたに相違ない。これで第二段階クリアくらいにタカをくくっていた。
こいつが担任だった2年間、700日あまり、本当に悲しかった。
いつも曇天の中を過ごしている気分だった。
こんな暗く悲しい厭なことに道はない。そんな道が通ずるはずがない。
ゲジゲジ眉毛、大きな目、もみあげ、長い睫毛、側面だけ残したハゲ、痩けてたるんだ頬っぺた、尖った耳殻、指先を揃えて両腕を体に密着させたまま歩く小男。まるでナチの親衛隊。
本当に馬鹿なやつだ。一人一人を最大に伸ばしていけば、望ましい大きなご褒美がもらえたものを。稚拙な持説にこだわりゴリ押したから・・・・
もう、どんなに言い訳しても、責任をなすりつけても、どんな非難をしても、どうしようもない、取り返しのつかないことを彼はやってしまっていたのだった。
5
暇だったので、大手予備校の出しているデータ集をながめた。一次試験のデータを時系列に見ると、東京や京都の合格者の平均点は、全体の平均点の上昇下降や標準偏差の伸び縮みにほとんど影響されず、いつも88パーセントだった。そしてランクが下がれば下がるほど、平均点すなわち難易度の変化にひきずられていた。平均が130点の時には160点取れる人が、平均が110点になると130になってしまうということだ。
9割越えの力を持っていなければ、平均によって得点がおおきく変わってしまう可能性を有しているということになる。したがって、トップの大学では一次試験の得点は無視できるほど合否に影響せず、下位に行けば行くほど、見逃せない大きさで影響してくる。その傾向を、また二次試験の比率でさらに強調している。
データをよく観ると、最難関と称される大学は二次で逆転が起き、一次は意外に低い、その大学のイメージとは懸け離れた点数で合格している人がいる。勝算をもって二次力で一次を乗り切っているのだろうか。
それで難関大学ほど二次での逆転が起き易く、下位ほど起き難いということになってはいるのだが・・・。などと分析しながら、馬鹿馬鹿しくなって放り投げた。
僕にとっては1かゼロだ。下馬評をしてどうする。自分にとって最高だと思えるところに入ること。志したところに入るか入らぬか。ランクにかかわらず、誰でもこの対決をしている。では、なんだ。それは、どこだ。自問した。
どこでもいいから合格しようとすれば、なにげなく受けて取れた点数で通りそうなところに志願すればよい。それではダメだ。ずるずるだ。それに、来年度の国立入試は、事前出願で、一次試験の前に受験校を決めておかなければならない。理由がいるのだ。そこを志望する積極的な理由が。取った点数での変更できない。今回に関しては、点数が理由にはならない。
僕は絞り込めていなかった。だが、ひとつだけ明白なことは、自分の偏差値で行ける最高のランクの大学という選択の仕方はなかった。
①とりあえず良い高校とりあえず良い大学とりあえず良い会社
②できるかぎり良い高校できるかぎり良い大学できるかぎり良い会社
という考え方は中学時代からあまり好きでない選択方法で、それはこの時点では変わらなかった。
おとなになれば、ああ、なるほどね、たいていはそうだろうなと思うし、むしろそうしたい人も多いのだろうと観察する。
美人は見てくれには魅了されるが、付き合ったり結婚しても、自分と合うか、本当に心を通じ合える友となるかは重ならない場合が多いのではないか。美人を連れて他人に良く思われるという発想より、内実が充実しているかに僕は価値があった。
①も②も正解の一つである。間違っていない。だが、人生の選択は別解だらけだ。
受験校の決定理由は、最高ランクのところに入らないかぎり、とかく言い訳がましく聞えるものだ。東大に入らないかぎり、理由をつけなければならないし、東大に入れば理由はいらない。どんな理由でも、もっともらしく聞える。だからこそ、僕は理由を取ってつけなければならなかった。
たいていの人は『近く』を理由にするのかもしれない。自宅からの距離、興味との近さ。成績との、あるいは親の年収との。
僕にとっての近さとは、なんだろう。
そのことを宿題としてしばらくの間、考えることにした。事前出願なので、来年の1月19日までに決めなければならない。一次試験を受けその点数を見てからはありえなかった。
追補
このシリーズは、1986年の冬から始まり、1986年の春夏、1984年、1983年、1985年、1986年秋冬、そして1987年の春に終わる予定なのであるが、実のところ、この主題で文章を書いたのはこれが初めてではない。
20代、30代、40代と何度もチャレンジし、何十キロ分も大量に書いてはまとまりがつかずに頓挫してきた。こんかい、ある着想を得て手がけたのだが、それをブログに公開するのは憚られる。もう少し昇華した形でご披露したい。
ここでは偏差値と受験に主眼を置いて書き進めることにした。記憶していること(錯誤していることもあるかもしれない)・持っている資料・当時わたしがどう感じ考え思っていたかをできる限り忠実に表した、従ってこれは、わたしの受験時代を振り返った、わたしなりの真実だ。
登場人物の一人であるガッデム先生の、小説における扱い方に苦慮するところがあった。わたしなりにどうケリをつけようかとこの30年、書きながらいつも思っていた。
彼のわたしの人生への登場がわたしの進路をおかしくしたかと言えば、ノーである。むしろ、佳きに作用している。だが、彼の押し付けてくること、あるいは罪悪感を植えつけようとする態度、そして人格否定など、恨み、つらみ、憎しみというより、悲しかった。
見返してやるというより、己の意志を貫くと決意した。
どう解釈し、見方を変えようとも、彼の押し付けてくることが当時の僕にプラスに作用することはなかった。だが幸運にも彼は『そっちでない』という、道をふさぐ物体として、わたしに真の道を選択する明確な障害として現れてくれた。むしろあまりに周囲に恵まれている方が意志を変節する要因となるかもしれない。その点では彼に至上のない感謝をしている。けれども彼自身がどうで在るかについてはーー、見習うべき存在かと言えばそうではない。
受験指導に至っては、功利主義の世の中に照らせれば、お得な大学を選ぶのもありだろうし、各種データを解析すれば確かに彼の言う通りである。まったく間違いはない。けれども、全体のデータ(マクロ解析)を個人に当てはめる稚拙なデータ・サイエンティストと言わざるをえない。ありていの言葉で言えば、お利口バカ、うわっぺりの見せかけ主義者の典型である。個人は、意志・創意工夫そして、縁だということを知らない。おそらくそうした輩は『女にモテる方法』を平気で信じるのだろう。振られても、女が悪いと言い張るのに違いない。
だから、四十歳過ぎて現場を離れると『管理能力なし』と判断され退社にもっていかれた。いかにも彼が会社に不満で怒って辞めたのは、仕組まれた迷路だ。ところが彼はそれを作成して設置する地位にまでは登ることができなかったので解明できなかったのである。いつかは高校教師にと思って勤めていたのでない限り、彼の辞職は、出口の決まった迷路に置かれたことに他ならない。
受験数学が解けただけで安心しているから、仕組まれた円満な『自主退社』が解けないのである。迷路を解いて得意になったことそのものが罠だった。どうすれば自分が辞めるかを周囲に見透かされていたことに気づかないほど、彼はおばかちゃんだったのだ。
高学歴で品行方正な、命令系統に従っている会社員の管理ができないなら、もっと難しい高校生の進路指導がまともにできないのは当たり前だ。残念ながら、この世は『反面教師』に給料は出ないことになっている。
「この教師の尻叩きのお陰で成績が伸びました」
たとえ人聞きを考慮して口ではそう言っても、こいつは、邪魔以外の何物でもなかった。邪魔どころか迫害者である。生徒を指導しているというより、己を優越して見せ、威張りくさるのがこの人の仕事だった。大声で無能を暴露している暴君そのものであった。
