第3セクターに指定され、すでに廃線の決定していた木造の国鉄駅にに到着するのは、6時57分。改札を出て合流する県道770号線は、学校まで一本道だ。早朝だから車も少ない。
朝モヤの中、僕は歩道を歩きながら自前のノートを取り出す。広いアスファルト道路の歩道はまっすぐなので脇目を振ることなく、ただただ足を動かせばいい。

7時30分より少し前に教室に到着し、席につく。ふぅーとため息をもらす。毎日、1番に学校乗りしていた。季節によっては、8時前には1組の生徒が0時限目の授業を受けにチラホラ教室に入っていく。僕のクラスのホームルームまでは1時間以上ある。それまでは問題集を開き問題を解く。8時40分までには生徒が教室を埋め、そこにさっき学校に到着したばかりのガッデム先生がチャイムと共に背中に棒切れを突っ込んだような姿勢で慌てたように入ってくる。そして毎日、
「夜に引っ掛けた女をホテルのベッドで朝の光の中で見ると、ガッカリですよ」

などと、飲み屋の与太話を鹿爪らしい顔で語る。




「ホテルの食堂で」「夜景を見ながら」「カクテルを」「朝日で」「化粧を落とした」「ガッカリ」などと細切れの言葉を継ぎ合わせたように話すので、どの意味なのかよく分からないことが多いが、どうやらそういうことらしい。夜な夜な山下公園あたりに出かけていたのだろう。
ホームルームの時間だけでない。授業中にまでも、こうした武勇伝ともつかない自慢話を平気でのたまう。
こちらは、朝5時過ぎには自宅を出て始発に乗ってやってきているのだ。
数々の自慢話の中で、唯一、ちょっとだけ為になったのは、売血と口紅の話と並んで、青酸カリの味についてだ。
「味を確かめた科学者がいた。彼はちょっとずつ濃度を濃くしては舐めていった。その味をノートに記して死んでいた。彼が最後に崩れた文字で書き残していた言葉はーー」
「甘い、だった」
本当か嘘か知らないがーー。
ところでこの4月に、ガッデム先生は本を出版なさったようだ。

彼の教師生活3年目にして初出版だ。この線に沿って僕たちの進路や受験指導がなされた。
そして学生時代の話をされたのは、次のことが唯一無二だった。彼の担当だった化学の授業中だったと思う。学園闘争の時に、
「知るか!」

「こっちは実験があるんだ!」
と言ってバリ封を蹴り倒して構内に入ったのらしい。学園闘争時の「一部の学生による」「過激な」「抗議活動」に学生時代の彼は随分おかんむりだった様子だ。だが、当の大学については明かさなかった。
ところがある日、何を思ったのかガッデム先生は、唐突に言い放った。
「私の出た大学は、」と、のちにガンを告白した逸見アナウンサーのような言い回しで「ーー東京文理大、」

「今の筑波大学の、第2学群です」
いつものように抑揚のないブツ切れの言葉であったが、どちらかと言えば、静かなトーンだった。誰もなんとも反応しなかった。
筑波大という高台にいるつもりなのだろう。お前らには絶対に無理な大学を俺は出ているんだぞ、その大学を出ている俺の言うことは正しい。だから、俺の言うことを聞け、という意味だったのが今後の発言から解る。威張りを効かせ、自分の言っていることに権威を持たせ、言うことを聞かせようとする魂胆だったのだ。チラッと、そういう気分になった。
けれども、往々にして、だから何?としか思えなかった。誰が言おうが、僕の人生は僕のものではないか。
筑波大について、僕にはいくらか知識があった。左翼的色合いの強いマスコミ=ジャーナリズムの伝える大学像が別の側面を伝えているかには疑問があるのであるが、少なくとも1984年の時点では、筑波大学は日本全国からオカシな学生を集め、辺鄙な山の中に隔離されている異常な大学ということになっていた。4年間触れ合う外部は、狸と猿しかいないなどとも囁かれていた。
保守教育の総本山とみなされていた東京教育大学は、戦後、右からも左からも責められ、行き場を失ったために筑波大学と名前を変え、保守を温存しようとして統合移転したのであったが、どっちつかずのふにゃふにゃした骨抜きの学校機関に成り果てていたのだった。
そんな大学出身の、何に権威があるのか? と思いながら僕は聞いていた。
それでも僕は長らく、彼がバリ封を強行突破したのは、筑波移転反対闘争のことだとばかり思っていたのだった。

それから、先日、東大志望が愚の骨頂だと言い切ったガッデム汚腹は、こんなことを言い放った。
「東大にこだって、何年も浪人するなんて、愚の骨頂ですよ」

これは2回目だったのでクラス中の目が彼の頭に集中した。

愚の骨頂? 愚の骨頂? 愚の骨頂? 愚の骨頂? 僕たちのこと?

だいたい、なんで初めから、何年も浪人すると決めつけているのか。完全にバカにしきっている発言だ。(実はこの時、ガッデム先生は、チラッと自分が2浪であったことを仄かしていた)
東大にこだわるのが愚の骨頂? こだわるのはなんにしろ好ましくない。こだわるのは、なんにしても逆効果だ。けれど、志を持って合格するまで挑戦し続けるのが愚かとは思わない。志を遂げるのなら素晴らしいことではないか。僕はとりあえず広大を想定してはいるが、まだおぼろげに国立大としか思っていない。すでに明確に『東京大学』と定めているなら、素敵なことではあるまいか。ところがガッデム先生は、意思のつよい、目標の明確な者を無謀な愚行をする奴くらいに決めつけている。
なおも彼は主張する。
「いるんだよ、そういう奴が、この学校にも。高望みして、何年も浪人する」
ここに来て1、2年しか経っていない彼は、おそらく職員室でそんな話を聞いたのだろう。おばちゃん生態学の社会科教師が多浪している卒業生について話したことがあった。Mr.セイナンもそんなことを話していた。
頭の悪いこんな高校から、しかも進学クラスでもないお前たちが、
「東大なんて、笑わせんな」

と笑わずに言った。
この間の言い方とはちょっと違った。でも、ちょっとだけ詳しくなり、付け加えた方が意味が明確になった。
職員室でも同じように息巻いたのだろう。その時に、ーー高みを目指すのは悪いことではないでしょう? といった異見が出たのではないか。それで少し変えた。
彼は、若者の『錯覚』を舐めている。これが大きな飛躍をさせる原動力になる時もある。過去の統計データから、無難な、予想できる範囲の自分に着地させようとするドンキホーテを笑う輩。それが退屈でルーズな大人というやつだ。
それから幾日か経ち、4月の半ばくらいだったか、5月をまたいでいたか、昼休みに職員室に来るよう呼ばれた。桐川の言っていた例の進路指導だ。ガッデム先生が柔和な声で
「どこを希望している?」
と聞いてきた。
ガッデム先生の席はこのあと2列か3列向こうに移動することになり、左隣は江田島真理子、右隣は授業を受けたことはないが若手の男性教員の席の間になるのだが、この時は、通路入り口すぐの、仕切りカーテンのすぐ脇の端っぱの席にいた。おそらくこの4月に商業科棟にある寿司詰めの講師室から引っ越してきたばかりだったろう。僕はなんの感情も交えず、ただ答えた。
「国立をーー」
すると、
「こ、こくりつ・・・?」

と北原先生は笑いを噛み殺しながら僕の言葉を繰り返した。この時点での僕の成績は学研の模試が、1年の成績までで、
参考 1年春 英語 16点(42・0) 数学 8点(40・0) 国語42点(58・0)
参考 1年秋 英語 24点(50・0) 数学 16点(50・0) 国語43点(59・0)
6月 第1回 英語 38点(56・3) 数学 33点(60・9) 国語45点(60・5) ※1
9月 第3回 英語 57点(73・3) 数学 40点(63・2) 国語 ー受験せずー
このあと実施されることにになる6月の学研模試の成績返却は7月半ばくらいだったし、またすでに結果は手許にあったであろう校内実力テストが進学を諦めた者が百人くらい減った中で自己最高の37位であったが、この学校から国立を狙えるような成績上位者とは言えなかった。
「どこを?」
などと、具体的なことは聞いてこなかった。(聞くはずもない)
この頃の僕の志望校は、密かに1年秋の佐賀大農学部から広大生物生産に上げたくらいだった。
僕の中では、このくらいやっているし、3年の終わりにはこれくらいにまで伸ばそう、必ず伸ばすと思っていたけれども、ただでさえ持論を押し付けるためにデータを自分に都合よく解釈(=全否定)する彼は1年生の成績を以ってみくびった断定を行なっていたことだろう。誰がどう思おうが、僕はこうする、こうなるとしか思っていなかったし、学力をつけてともかく偏差値をあげようとしていたので、私立だの受験戦略だの、そんな段ではなかった。

気を取り直したプロ教師が、胴体を馬の首のように伸ばして言った。
「私立は?」
「考えてません」
首を振ると、ふむといった面持ちで、私立にもいいところがあるぞ、と何やら説明し始めた。どちらかと言えば丁寧な話ぶりだった。僕には不要な話だったが、おそらく、何度も同じ話をアイウエオかきくけこと名簿順に呼びつけた生徒にして聞かせていたことだろう。
職員室と言っても、ここは普通科棟と商業科棟をつなく宙空通路の左半分に事務机を並べた簡易な雰囲気を醸し出したオープンな場所だった。決して静かな空間ではなくそれぞれがそれぞれの思考と話をし、また大きな県道の横にあったせいか、70デシベルはあるだろうか、個人的な話をするのが恥ずかしくないくらい騒がしい雰囲気に包まれていた。だが自信家の北原先生は自信満々の声で話すので、近くにいる教師たちにも聴こえている状況だった。そしてこの場所のすぐ後ろには、天井から降ろされたカーテンで仕切られた学年主任の西方先生のいるルームが区画してあった。
「もっと考えなおせ」
と言い、この日の指導は終わった。なぜだか僕は、ありがとうございますと言うこともなく立ち上がり職員室をあとにした。
私立大学は考えていなかった。けれどもまだこの時点では担任教師の親切な助言だと信じていたので家に帰ってから調べた。生物学科を持っている大学は、神戸にある甲南大学の理学部と東京の東邦大学理学部だけだった。高校受験のていにならい第一学習社の第2志望、第3志望にはずっとそこを指定していた。よくよく調べると早稲田の教育学部や東京理科大の理工学部にもあるようだったが、少なくとも高校時代の僕は知らなかった。もし、それらを第一志望にするなら、私学受験に対してもそれなりの憧れを持って取り組んだかもしれない。が、鼻でせせら笑い僕らをみくびっているガッデム先生がそんなところを紹介するはずもなかった。
それから数日後。ホームルームの教壇にプロ教師が立った。
「君らには国立は無理だ」

鬱血したような色の唇で静かに言い切った。まるで人類不変の真理のような言い方だ。完全に馬鹿にしているのだ。

おばちゃん生態学の社会科教師は僕らに挙手させデータとして現状を調べているだけで、それも僕ら個々人の意思と選択を前提に、毎年だんだん減っていくと観察していた。ところがそれを伝え聞いたガッデムは、まだそんなにいるのか、と躍起になって策を弄し始める。職員室に呼びつけ、クラスのあらかたの希望を聞くと、みな口々に国立と答える。呆れ果て業を煮やした彼はついにこう言った。
「高望みするのは愚の骨頂ですよ」

今度は高望みそのものを悪罵し始めた。

理想だけを掲げて努力や工夫をしないことでなく、高い目標を立てること自体を愚の骨頂呼ばわりしたのだった。『高望み』になるかならないかは、それ相応のことをやるかやらないかで決まるのではないだろうか。やり遂げれば、高邁な志となるのだ。それが分からず、高い目標自体を否定するどころか嘲ったのだ。
よくこんなのに準特進クラスの担任を任せた。学校は思い切った起用をした物だ。大抜擢というやつだ。こいつの言い方を借りるなら、無謀、いや暴挙ですよ。
そして個別に指導した時に何度も言った秘策をもう一度上塗りした。
「頭の悪い君らが大学受験で成功するには、受験科目を絞らなければなりません」
「3教科ならなんとかなるかもしれない」
「国立は一発勝負です」
「1次試験と2次試験と2回も試験がある」
「それより、私立の方が合格率は高くなります」
説明足らずだから僕らが理解できないと思ったのか、さらに詳しく言った。(何日かにわたり、思いつく度に付け足していくのだった)
「3教科だけやれば頭の悪い君らでも5教科7科目やって私立を併願している者に勝てるかもしれない」
「私立なら、同じ大学の別の学部や学科をいくつも受けることができる」
「同じ受験科目で他の大学の同じ学部や学科を受けることができる」
「合格確率は上がります」
「合格率20パーセントでも5つ受ければ1回は合格する」
「頭の悪い君らでも何回も受ければ下手の鉄砲撃ちになれます」
志望校を尋ねると、みな判で押したように国立志望を口にする。それを諦めさせ、断念させるのが急務だと感じたらしい。ここでは解り易く書き換えているが、実際の彼は前提や周辺知識を何も説明せず、ーーですよ、ーーですよと行間の広すぎる短文を言い放つので本意がつかみづらいことこの上ない。おそらく風呂の中や車の中で考え、その延長線上で僕らに喋るので、自分だけ解ったような話し方になるのだろう。
聞きながら僕は思った。
自分だけがそうなら有利になるのだろうが、他の人もそうなのだ。

この人の受験時代(昭和40年前後)なら、みんなで国立、みんなで滑り止めに私立、国立型の受験科目の者が私立も受けていた。だったのだろうが、今や時代が違う。この人の秘策みたいな受験戦略など、周知のこと。東京なら尚更そうだ。
しかも、同じ人が何回も受けるのだ。ならばいつも同じ結果が出るのではないか? 通る人は何度でも通るし落ちる人は何度でも落ちる。何かの拍子に跳ねて、合格ラインに引っかかることはあるだろうが、博打みたいだと思った。
国立上位校志望者に匹敵しようとして3教科に絞る作戦で受ける者も多数いるのだろうから、国立上位層と私立専願者たちの入り混じった泥沼の競争になるのではないか? 3教科に絞れば1教科の完成度は高くなるだろうがそれを以って、国立大学より受かりやすいと言えるのだろうか。
例えば早稲田慶應入学者が、東大落ち一橋落ちで占められ、早慶第一志望者がなかなか受からずその下に回ることは(第一志望に受かるためにはワンランク、ツーランク上を目指していなければならないといった)受験の妙味として順当なところで、3教科に絞るのが必ずしも有利とは思えなかった。
国立と言ってもピンからキリまである。確実な学力で確実に受かった方が確実ではないだろうかと僕は思った。しかも、国立は2回も試験があるではないか。つまり、挽回することもできるし、ダメ押しすることもできる。僕にはそうみえる。
とはいってもこの時期の僕はまずは英語をなんとかしなければならないという気が先行していて、一歩ひいた受験戦略があったわけではない。私立大学を視中に入れた発想はなかった。そんなことは英語が満足にできるようになってからだと思っていた。
何が有利だ、これがお得だなどとあれこれ言葉で語っても仕方ないと僕は思う。このあとだんだん明らかになっていくのであるが、合格者を出すことに囚われたガッデム先生は、受験において最も大事なことを度外視した戦略を立てていたのだった。
「5教科7科目の国立を目指して途中で断念してそこから私立に切り替えるよりも、初めから私立にした方がイイところに行ける」

これが彼が理事長相手に一席ぶった秘策中の秘策なのらしかった。
基礎知識もないところにブツブツ切ったような喋り方をするので、まったく何を言っているのか解らないのだが、まとめると、こういうことを言っているようだ。
1期校2期校の時代なら国立大学を2回受けられた。しかも各大学の独自の試験で。それが共通1次が導入されて以降、1校しか受けられなくなった。2回フィルターにかけらることになったので、まぐれはありえない。
1次でうまくいっても2次で点が取れなければ不合格になる。私立なら、同じ大学のいくつかの学部や学科を受けられるし、他の大学も受けられる。1次試験で失敗して国立が受けられなくなったら、3教科しか勉強していない受験生に負ける。そうやって何年も浪人することになるし、7科目もやってダメなら中途半端な無名の私立大学に行くことになる。だから、早めに私立専願にした方が良い。
そしてどうやら次の考えが、プロ教師ガッデム先生の最大の持論なのらしいが、論理的飛躍も甚だしく、こう締め括った。
「今の偏差値でいけるところに行けばいいですよ」

それからというもの、毎日毎日、同じことを言い募り始めた。言葉を変えて何度も繰り返された。
「頭の悪い君たちは、今取っている偏差値で行けるお買い得な大学に行けばいいです」

洗脳しようとしているのだ。つまり、後から思えばこれがガッデム先生のカリキュラム第2段階だったというわけだ。 
第1段階が、自分に対する権威づけ。・筑波大学を出ている・東京の夜で夜な夜な女をひっかけてベッドを共にするモテる男だ・学生運動のさなか、アホかと呟きながらバリケートを蹴り倒して大学に入り実験を続けた・会社に離縁状を叩きつけて辞めたなどなど。そういう優秀な自分の言うことはなんでも絶対に正しいと思わせ、思っているに違いないという前提を作る。
そして頭ごなしに否定し、国立を諦めさせていくつかの私大をゴリ押しする。これが第2段階なのである。ただ、その意図とは裏腹に、彼はいつも僕らを馬鹿にし自信を踏みにじり、ゴリゴリに押し付けることによって圧迫し、自然な作用として自分に反発するよう仕向けていることに気がついていない。おそらくは試験管の液体ばかり見ている彼には人間の心がどのように作用するかが全く理解されていなかったのだろう。それは偏差値というデータの取り扱いにも現れていて、僕らがまるで生産ロボットのように見なしていた。
こんなに何回も言っているのに理解しないお前らの頭の悪さにはうんざりすると憤懣におちいったのだろう、何か言うたびに「頭の悪いお前たちは」が枕詞になった。少なくとも僕が最後の最後まで国立志望を示し続けたのは、この人の持論が理解できなかったからではない。僕だけではない。こいつの言っていることは解る。そしてそれなりに有効な方法だろう。
だが、 
断る。
この瞬間、僕の愚の骨頂が決定した
私立高校子飼いの、しかも未経験の古々米教師がやけに大上段なことを言ったもんだ。いち意見として間違ってはいない。それに賛同する人はそうすればいい。どれも、人生だ。優劣はない。この人の言うことに合致する生徒もいるだろう。だが、全員を一律にとらまえている時点で無理強いになっていることに気がつかない。そしてなにより、石橋を渡る僕らの行先を叩いているのは、固陋で姑息なジジイのオンボロで脆い杖でしかない。しょせんと、したり顔で垂れる、何でも知っている経験豊富な狒々ジジイの人生観の滲み出た持論は、生徒を確実に不合格へと導く魔法の杖である。
ホームルームの後、なんにんかで固まっていると、そこにやってきた松居が息巻いた。
「ガッデムが!」
「ちんころ、こーまい」
正直、僕は彼が何を言っているのか解らなかった。マ行の松居がこんなことを言ったのだ、クラスの男子にはあらかた個別悪罵をし終えたのだろう。
よく考えてみれば、ガッデム先生の持論こそ、最も甘い、そして合格には最も厳しい考えだと解る。確かに松居の言う通り、

小さなキンタマを股座に挟んでクネクネしている男のものだ。
15から18歳までの青年期。最も精神を鍛えていく時期に、易い、お手軽な、安直な方法を押し付ける。それらを生徒が発想したらむしろ止めるべきところを。
高みに至ろうとしている若者を踏みつけ、頭をこづく。押しのけ、オレガオレガの重戦車として爆走する。
ガッデム先生の持論は、次の概念ひとつに集約できる。
生存者バイアス 認知バイアスの一種であり、ビジネスシーンでもよく見られる現象として知られ、『生存バイアス』とも呼ばれています。 つまり、成果や成功を遂げた人物や企業、物事だけに注目し、失敗した結果を考慮せずに誤った判断や結論を導き出してしまう心理事象と言えます。
言い換えれば、勝者の言ったもん勝ち
いや、彼は勝者ですらない。僕らはまだ大学受験をしていない。高校2年になったばかりだ。したがって、同じ土俵にすら乗っていないのだ。この高校にいる僕がラ・サール中学や灘中や開成中を中学生だからといって見下げるのに等しい愚かしさ。
ガッデム先生の大学受験に対する認識や信念はむしろ敗北者のそれだ。「今の偏差値で行ける一番お得な」などという発想で『今の偏差値の大学』に行けるはずがないではないか。(このことについては、おいおい深く洞察していく)
通ると思わなければ、そしてそれが具体的に想像できなければ、長時間で長期間の勉強に取り組めるはずがない。合格する未来を知っているからこそやり抜けるのだ。
それを安易に否定する ーー愚か者。
こいつにしてみれば、西方先生の言うことはお為ごかし、現実の厳しさを突きつけてやるのが親切、くらいに思っているのだろう。実際、何度もそう発言した。
教育者、管理者としては全くの不適格。世の中しょせんカネだろ、こっちは生活がかかってるんだ、そんな悠長なことはやってられないなら尚更、教育の本道に戻るべきだ。
こうしてこうしてこうやれば必ずうまくいくと頭でこねくり回した机上の皮算用では計り知れない妙味が、受験にはある。
さらに松居は、
「ハゲの進路指導は、縁起わる〜」

と言った。僕にはまたしても意味が解らなかった。
「I.Qは100ないね。あれは」と松居は続ける。「あいつだいたい東大でもないやんか」
さっきから、腰を屈《かが》めて聞いていた桐川はちょっとニヤけながら黙っていたが、ついに参戦した。
「そうそうあいつ。そこから見える世界が世界の全てだと勘違いしている」

時に、痛烈な批判は人や世の中を見抜こうとうする勉強から出てくる。
「まったくだ。それが東大がどうの。 笑わせるなと言いたいのはこっちの方だ」
松居がそう言うと桐川がちょっと抑えた声で言った。
「東大目指すのがぐのこっちょうなのだと。あいつ、学歴コンプレックスじゃないのか?」
自分たちはたいしたことがないので大きい声では言えないけど、といったニュアンスだった。東大を実力以上に持ち上げたり、実力以下にけなしたりする者は、必ず劣等感の強い輩だ。
いちいち学歴で威張ることはないが、他人の学歴を「お前も東大じゃなかやんか」と非難する者は東大の傘に隠れて威張り返そうとする者だ。自信のないねたみ深い輩。何事も公平に精確に評価してこそ、対等な関係となる。

自分が1日の内で何時間勉強していたか、意味がないと思い、いちいち数えたことはなかった。しかし、見積もってみるに、寝るのは夜中の1時か2時。朝の4時20分に起きて5時10分には家を出る。5時半前後の始発に乗り込むと、到着まで1時間半ほどあるのでその内の1時間は勉強にあてた。それから歩きながら勉強することもあった。7時半からホームルームが始まるまで教室で勉強するのを合わせると1時間ほど。休み時間や昼休みにもやっていたのでかき集めると30分くらいはあったろう。それから僕らを蔑んでいる教師の授業中には堂々と英語や数学の勉強をしていたので、それがいくらかあった。帰りも汽車の中で1時間、帰り着くのが午後6時ごろで、7時には勉強を再開し、そこから12時までだと5時間、1時までやると6時間。
そうすると月曜から土曜日まで平日の自学は9時間前後。日曜日は12時間くらいやっていたので、週に66時間ほどだった。年間3000時間。僕はしかし時間を誇らない。模試の偏差値が全てだ。科目教科の理解が制限時間内でできるだけ発揮されるか否か、それだけだった。そしたまた、ずっとやっていると『頑張ってやっています感』が消える。甘えとか幼い自己主張でなく、わがこととして勉学を捉えるようになる。
そこに持ってきて、ーー今の偏差値で行けるお買い得な大学に行けば良いんですよ?
あまりにも隔たりのある意識。彼の言っていることは解るが、承服するわけいはいかない。僕の人生だ。
ガッデム先生の自意識分析
時を前後して、ガッデム先生が自分の出身大学を披露なさった日の直後のことだ。休み時間に長渕と酒見と三人でなんとなく便所の前にいたときだった。
「あいつ、トウキョウダイの農学部だって」 
と、酒見が言った。ホームルームでガッデムがぶった3日くらいあとのことだったか。すぐに東教大だと変換できた。つまり、東京教育大学のことだ。
どこで聞いてきたのか、その情報は僕の知る限りガッデムの口から語られたことはなかった。
中学が同じかは知らないが、酒見は長渕と帰りの方向がいっしょだった。二人でよく一緒にいるのを見かけた。授業中に自分で言わなかった馬づら先生やその他の教師の出身大学をことごとく僕に教えてくれたのも酒見だった。どうも、この学校事務に親戚だか知り合いが勤めている風だった。ともかく酒見はこの方面にかけては情報通だった。別のある日、一緒に階段を降りている時に、親戚に東大を受けた人がいたらしく、酒見はこんなことも言った。
「1次で950点とったんだと。でも、2次があるから受かるかどうかわからんと言っていたら、落ちた」
東大受験はまったく身近ではなかった。間接的にでも顛末を聞いたのはこれが初めてだった。Kが理科1類を受けると聞いたのも、この時から2年後の3年生の終わりだった。もちろんKは高校1年の当初から、いや中学のある時点から東大を意識していたと思う。
それにしても、950点と言えば限りなく満点に近い。そんな点数を取っても2次ができなければ落ちる東大は一筋縄ではいかないのだなと思った。
背が高く色白で目の細い酒見は大仏みたいな顔をしていた。1年生の時に特攻崩れの担任教師に「軍事先生」とニックネームをつけて大目玉を喰らった長渕は当然、ダイブツと呼んでいた。担任教師はしかし自分のことを「ぐんじ」と呼んでいる彼が、ちょっと前に世間を騒然とさせた通り魔殺人の川俣軍司に当てつけた渾名だと思って怒ったのかもしれない。命名の訳を聞いていた僕は長渕の名付けには悪意がなかったのを知っていたからだ。それとも、自分より前に特攻で亡くなった友がいるのに、気安く戦争を語ってもらいたくなかったのだろうか。
「あいつ、トウキョウダイの農学部だって」
酒見はそれだけしか言わなかったが、しかも知ったことを淡々と伝えただけだった。東京大に行きたかったが叶わなかったので、同じ発音の東教大に、しかも農学部にしか入れなかった。というニュアンスさえなかったけれど、酒見があえてこの情報を口にする意図は多分にそこにあったろうと思った。東大にこだわるのは愚の骨頂と言い切る彼の心理を見透かしていたのかもしれない。
ガッデム先生は終始、これから2年の間、自分が農学部の出であることを隠し、誤解を招くような言い方をなさっていたのだった。が、数日後にはもうバレていたのだった。
「ガッデムはあいつ、自慢と見栄っ張り」

と長渕が言った。ちょっと古風な田舎の学生を思わせる彼は、夏目漱石を読み耽り、人間性の側面から人物を観るのが長けていた。最終的には地元の銀行に就職した彼は、いつの頃からか大学受験から離れたために北原アンチではなかったけれど、どちらかと言えば批判的な目を持っていたと思う。長渕の僕への批判のいくつかは実に参考になった。
この時点では、農学部であることを隠しているとまでしか知らなかった僕だったが、筑波出らしいガッデム先生の自意識に疑問を持ったのは、僕が熊大に合格した後(19歳)のことだ。ガッデム先生が「彼は良い大学に入ったのだろうが、あんなに反抗的では云々」と言ったと仄聞した時だ。(このことについては合格後のページで詳しく考察する)熊大を良い大学と評するとはどういうことか? と思ったのだった。
筑波は十分に合格範疇だっだし、僕自身にとっては熊大は最高の良い大学だったけれども、世間的なランキングからすれば、筑波大より『良い大学』とは言い切れないからだ。のちに悪名を馳せるオウム真理狂の麻原彰晃が筑波出の土谷正実を重宝し、地元の熊本大学を軽視蔑笑していたところから観ても、それが世俗の偽らざる本音というものだろう。難関大と関係のない者ほどランキングで輪切りしたがるものだ。
政治的な理由で解体創設された筑波の校風そのものに、土屋は褒めそやして取り立てれば犬みたいに懐き、ポリシーも科学的倫理もなく命じられた通りにホイホイ研究する扱いやすい人材であり、国家建設の志に燃える反骨・気骨の旧制熊本高専の精神を引き継ぐ熊大工学部や旧制5高の率直・善意・シンプルを据える理学部より、戦後の社会には都合が良かったのだろう。余談だが、ちょうどこの年1984年に土屋正実は、ガッデム先生の後輩となる筑波大学第2学群農林学類に入っている。
ともかく、彼の自意識が熊大の格より低くない限り、「良い大学に入ったのだろうが」とは言わないのではないかと思った。つまり、添言には嫉妬が付着しているのだ。しかも悪口を言って落とすために一度大学を上げるとは、根深い嫉妬があると言わざるを得ない。
本当に東京文理大や筑波大なのであれば、もっと対等に見なした発言をするのではないか。「志望の大学に」とか「初心を貫き国立大学に」であれば、フラットだ。自信に裏打ちされた余裕がフラットな表現をさせる。
もしガッデム先生が人知れず努力し、艱難辛苦にも諦めず、全身全霊で志を遂げて東京教育大学に合格した経験があったなら、僕が自分と同じくらいの勉強をしたのに違いないと、それで人間も成長したのだろうと推測するのではないか。
「今の偏差値で行ける一番お買い得な所」
などとテイタラクを勧めるガッデム先生には、自己ベストを達成した真の合格者の栄光は眩しすぎたのだろうか。
それで僕は最近、発達した情報によって当時の状況を時系列にそして立体的に再構築してみたのだった。すると、 彼の言わなかったことと言ったことの辻褄が合い、どうして自意識が低いのかが府に落ちた。ここではその一部分だけを記載しておこう。
東大の理科2類は生物・化学系である。農学系もここを通って分配される。だが、東京教育大学は理学部と農学部は別系統。農学部として独自に募集されていた。しかも各々前身が異なっている。
筑波大学になってからは、農学部と理学部の生物学科はどちらも『第2学群』に隠れて分かりにくいが、農林学類と生物学類になった。ここも個別に募集している。農林学類は筑波大学の中で底抜けに偏差値の低いところ、筑波大学たりえない難関ぶりだった。
手元にある各社の偏差値表では、第2学群の各学類の難易度は、
第一学習社 旺文社(60%)
比較学類 59・0 70・7
人間学類 58・8 70・5
生物学類 59・5 68・7
農林学類 53・5 56・3
となっていて、これはもう別の大学と言ってよいほどの開きがあった。(受験科目が同じなら、偏差値が5違うと別の大学扱い)農林学類だけが群馬大や新潟大あたりのランクだ。
よく調べて観ると、東京教育大の理学部は東京高等師範の理科を前身に持っているが、農学部の前身は『東京農業教育伝習所』だった。それは旧制度下には、東大駒場キャンパスにあった東大農学部の附属機関でしかなかった。東大農学部の研究成果を全国に撒くための農業指導員養成所だったというわけだ。それが戦後、学制改革により東京教育大に組み入れられ、さらに筑波大の第2学群の中にもぐったのだった。
旧制度の時代には、盛岡農林を前身に持つ岩手大農学部や、内務省勧業寮内藤新宿出張所に起源を持つ東京農工大の方が格上だったかもしれない。東大構内にあったし、教育関係だったから教育大に組み入れられたが、それらの後塵を拝し、難易度は筑波に潜る前にはもっと低かったのではないかと推測する。それがガッデム先生の自意識形成に大きく役立ったのではないだろうかと思うのだ。
それにしても農学部がどうしてこういうことになっているのか? ひゃくしょうが! という罵倒語や「農業は誰にでもできる」などという誤解の蔓延したのは、金の卵が重宝された昭和30年代以降、どうも田舎の農業は暗くてダサいと見なされるようになった。それまでは8割が農家だったのが、1抜け2抜けと商業、工業へと移行して行ったからか、大事な国家の根幹に携わる者を軽視した。
高校においては、農業を志して進学した成績上位者を押しのけ、行きたくもないのに偏差値が低いからと振り分けられた大部分の者たちによる劣等感の強い学校になっていたし、それと同じ目で大学の農学部を見る差蔑主義者もそれなりにいた。人には誉高き集団に属したい本能があるので敬遠されるむきもあったろう。
農学部はどの大学でも人気がなく、バイオテクノロジーが脚光を浴び始めてきたこの時代の前は旧帝大にあっても偏差値は低く産出されていた。
理学部 工学部 農学部
京都大学 67・0 66・5ー63・8 63・4
名古屋大 63・6 61・6ー60・9 57・0
九州大学 61・0 61・2ー60・2 56・2
(1984年版 第一学習社による)
調べてみるに、彼が大学に通っていた昭和44年頃には、筑波大学第2学群農林学類はまだ発足しておらず、農業教育伝習所が建物も教師もそのままに、学制改革によって組織上、東京教育大学に組み入れられたばかりだったようだ。つまり組織図に線を引いて同じ大学の枠内に入っていたに過ぎない。元々は別の機関であったために、東京都文京区にあった東京教育大としてひとまとまりに同じ敷地にあったのではなく、なんと、農業教育伝習所は15キロほど離れた目黒区の東大駒場キャンパスの中にあったのだった。
生物学類と農林学類では、旺文社の難易度で13ポイントも異なる。東京教育大学の農学部として組み入れられてさえ、そして筑波大学第2学群と名前を変えてさえ、この格差。旧制の頃の難易度はこの差よりももっと大きかったと推測される。そのことを示す資料が次のものだ。昭和22年、旧制末期の進学適性検査の結果である。※2
高等師範とされる学校が東京文理大の予科的学校、すなわち後の東京教育大学である。そして赤線を引いた所が、ガッデム先生の学ばれた所である。
旧教育制度において、第一に、ガッデム先生の学ばれた所は、東京高等師範(東京教育大)とは別の学校で、そこは『東京農業教育伝習所』だった。そこは後に東京農業教育専門学校となり、教員養成所も敷設されるのだが、進学適性検査の合格者平均は71台点ー67点台で、地方の農林学校と同程度だ。教員養成所に至っては61・88、首席であっても75点あったかなかったか。ガッデム先生がこの範疇にいたかどうかは個人の問題だが、第一高等学校((合格者平均93点のダントツ1位)は言うに及ばず、旧制の高等学校に合格した者(の平均83・58)とも格差があった。自分と同じだと言っている東京高等師範(東京教育大)の理科(77・30)と比較しても段違いに低かった。
やたらと持論をゴリ押し強制する態度からして、自意識が低く劣等感が強い。その劣等感がどこから来ているのか? 生まれつき、生育過程、受験に際しての取組、それらの育んだ人生観・・・。
劣等感を増強する考えと選択と実際の受験行動。そして結果。彼が自意識を低めていくにはお定まりのルートだった。
彼は、筑波大学とも東京文理大とも関係ない。戦後の新制度によって、東京教育大学農学部に組織図上位置づけられた、東京農業教育伝習所で学ばれたお人だったのだ。その目的も学問研究でなく、東大の成果を教えて回る農業の伝播者の養成所だったのだ。
東大の成果を授けられたのだから偉いとばかりに東京教育大に組み入れられたが、母体は高等師範学校でも旧制教育大でもなく、伝習所。東京農業教育伝習所だった。看板を付け替え、大学の学部にはなったけれど、中身は東京農業教育伝習所のまま。
たいへん有用な学校であるが、ガッデム先生にとっては「そこにしか行けなかった」という思いがあったに違いない。だから、隠す。
自分の権威を落としそうなことは全て省いてお話になっていたので、なんのことやら解らなかったことが、情報ツールの発達した昨今、詳細が明らかになった。自分を大きく見せよう、良く見せよう、言うことに権威を持たせようとする意図によって隠された大事な部分は、彼の思想や言動に色濃く現れていた。
素直に正直に語れば語るほど、実は信用度が増し、威光が輝くというのに。自分に自信がないから、そして人間を成長させる自覚と気概がないから大事なことを隠す
こうしたことから、彼が暗に、無自覚に、自分と同じよう、諦めた、怠慢で、成果だけを欲しがる失敗続きの人生を僕らに歩ませようとしていたことが見て取れる。

本当は、


元東京農業教育伝習所(東大駒場キャンパス内)たごさくがっこう。しったかせんせい養成所。
履歴書には書いたことが僕らに言えない。伝習所だったことはおろか、農学部だったことすら言えない。権威が下がるとでも考えたのかね? 学校の変遷は間違っていないが、こいつはそこには居なかったのだし、意図的に誤解を招くよう計算された物言いだったとしか思えない。

お買い得な大学を勧める背景には、東京農業教育伝習所→東京教育大学農学部→筑波大学第2学群へと昇格していったような印象を受けるルートを学校が辿ったからであるのだろう。彼が通った頃の実体は何も変わらないのに、ネームロンダリングのような塩梅になっているのだ。あとの時代の人たちにしてみると、大学そのものの名声や格がそのまま浸透したように見える。それに味をしめ、テイタラクな自分を正当化する意味でも、あのような人生観になったのだろう。
自分の正確な経歴を語れない。それは、年齢と共に進化しなかったからだ。過去の失敗や成功が自分を成長させる礎となったなら、時に応じて話せるはずだ。今の自分を創った貴重な経験と捉えるからだ。
俯瞰した想像力が発達しないと 概念を相対化したり、対象にのみあることとして描写することができず、自分がやっていることを暴露するに終わる羽目になる。隠せば隠すほど、奥底に秘めた劣等感を曝け出すことになる。

ところで酒見のこと。彼は背が高く、色白で目が細くて坊主頭の四角い顔はまさに大仏みたいだった。おまけに耳ダブが大きい。何度か部屋に遊びに行ったことがある。細い階段を昇った2階の狭い部屋。南沙織だとか麻丘めぐみだとか、ちょっと前の世代のレコードなど数十枚くらい持っていて、文化的だなと思っていた。上にお兄さんやお姉さんがいたこともあったのだろう。ある種、早熟だった。
縊死。
3年になったとき、彼とはクラスが別れた。おとなしい、無口な性質だったので目立たなかったのが、
高校卒業後に長渕が伝えるには、
「死後の世界がどうなっているか知りたかったので、死んでみた」
のらしい。死んでみたかった、だったかもしれない。ともかく葬式に出かけた長渕は、そう僕に、どこか忌々しそうに言った。
死ぬまで待てなかったんだなと思った。死後の世界なんて、死んでから知っても遅くなかったのに。そう思って黙っていた。酒見らしいと言えば、酒見らしいと思った。一人で考えて完結するところがあり、自分の問いに自分で答えようとしたのだろう。
死んだ理由は遺書にあったのか? 長渕の話ぶりでは、直接本人に聞いたかのようだった。僕はそのことを質問しなかった。
縄をかけて実行したらしかった。あの部屋で。
あの風体の男の疑問と実行は、似つかわしいとも似つかわしくないとも思えた。仏みたいな風貌の男が仏になったのだ。

「あいつ、3浪なんだと」
その酒見が最後に僕に語った言葉がそれだった。
勝者でさえない。惨めな敗北者のお手軽な人生の強制。それがガッデム汚腹式受験指導だったのだ。彼の頭が僕らの未来を暗示していた。
※1 最近発見した問題集 1984年発行の『シグマ 標準問題集 現代文』には、6月10日学研テストとメモ書きがあるため、これまでこの成績推移は2年の第1回を5月としてきたが、6月の実施だったようだ。したがって成績の返却は7月の半ばだったと思われる。実施月はともかく、この時点の指導には1年時の偏差値だけが考慮されている。偏差値自体は成績表の現物があるので確かだ。
※2 『進学適性検査結果報告 第一分冊 昭和22年度』p77による
これは文部省のpdfで閲覧できるので、ぜひご検討願いたい。




