リブログ記事見えない荷物が消えるとき!?
以下の前回記事の続きのような内容です。読んでいなくとも大丈夫です。前回、以下のように文章の末尾に記載しました。「100人いれば100通りの「意味付け」と「解放」があります。次回の記事では、「意味づけ」を手放したさきについて書く予定です。」意味づけを手放したさき・・・とは、そもそもなんでしょうか。実は、なにも変わらない100人いれば100通りの小宇宙が変わらずにそこにあります。変わったのは、光と闇を意味づけている自分が頭の中にいるんだと知ったことです。それを冷静に意識し観察している(俯瞰している)自分もいるのだと知ったことでした。さて、光と闇を意味づけている自分とはどんな自分でしょう。ごちゃごちゃと口うるさく頭の中で意味づけを繰り返す作業を無意識にしている自分のことです。あたかも正当な唯一の真実が自分の意味づけにはあるかのように錯覚し、意味づけた内容がたしかな正義であるかのように世界と自分の間で摩擦を起こし、ひたすらに世界と自分を区別することで意味づけを分析(立証)したかのような気になり、いつでも正当性を更なる意味づけで上塗りすることをやめられず、そうして一度意味づけしたあとにも、頭の中の意味づけの声は飽きることを知らず、コロコロと意味づけをやり直し、頭の中で意味づけを永遠と繰り返す作業を無意識にしている自分のことでした。実はその無意識な自分こそが自身の精神と肉体を疲弊させすり減らしている、その要因であると気が付いた日にはすでに精神的にも肉体的にもへとへとになっているギリギリの状態でした。ですが、ギリギリの状態だったので心と体をいたわるため(不毛なループから抜け出すため)には、いったん頭の中をからっぽにするしかありませんでした。二十代の後半で、ようやくそのことに気が付いたのです。遅いか早いかはひとそれぞれの人生計画があるので、いくつであるのかは関係なく、私にとってはただそのときがベストなタイミングだったのだと思います。あまりに不毛な・・・自分の作業・・・ただ自分が勝手に意味づけをして、そして、ただ勝手にジャッジすることで、さらには、ただ勝手に感情を発生させ、まわりまわって、勝手に自分の人生を迷わせていたのだと。面白すぎるよ!自分!!というツッコミを自分したことを覚えています。そのときは思わず大笑いしました。「ようやく気が付きはじめたね。」という冷静に見ている(俯瞰している)自分の声にもなんだか涙が出そうになりました。ひとしきり大笑いしたあとで、いっぱい眠りました。次に起きたときにはたくさんお水を飲みました。そうしたら、びっくりするくらい世界が綺麗だと気が付いたんですね。なにも意味づけをしないでいいので、世界がこんな色鮮やかなであるのかと思ったことを覚えています。ジャッジしないでいいので、それはそのままにしていいのだと素直に思えました。感情が湧き上がってきても、そうかこれは古い価値観 ( 固定観念・だれかやなにかから植え付けられた思い込み ) がもとになっていたのかとすっきりしてきました。人生なんて堅苦しく思っていたものは、実は 「今この瞬間」 しかなかったのかと肩の荷がおりました。ああ、見えない荷物が自分の中から消えていきました。小さな解放のはじまり・・・だと思えました。感じていた感覚(直観)を素直に受け入れました。ようやく地に足がついた日でした。逆に世界と自分という存在の堺があいまいになった日でもありました。それについてはまた別の記事でも書こうと思います。不思議ですが人生には澄み渡るような意識の拡大を感じる日があり、逆に古い固定観念に縛られる日があり、また意識が拡大して・・・を繰り返していきます。ただ、繰り返すたびに 「意味付け」 と 「解放」 をやさしく俯瞰できるようになります。ちいさな無意識からの解放はおだやかに淡々と進み、なにも変わってないかのような日常はそれぞれの人生計画に沿って それぞれに軽やかな歩みに変わりながら進んでいくのでしょう。すべてのひとがそれぞれの気づきを俯瞰できるようなやさしい一日となりますように。~心を軽くする魔法の勧め~空原 真水