TOEIC、超(ちょう)ブレイクスルー通信講座

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松岡修造1

過去最高に熱い記事

本日の記事は熱いです。モチベーション上がりまくりです。ただ、ネタにされやすい方ですので、見る人によっては不思議と笑みがこぼれるかもしれません。そう、元プロテニスプレイヤーで現在スポーツキャスターやタレント、そしてテニス指導者として活躍している松岡修造さんです。最近ネット松岡修造さんの家系が「リアル華麗なる一族」と言われるほど、凄い家庭環境で育った松岡さん。その点に関しても記述していきたいと思います。ではいきましょう。

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松岡修造のプロフィール

松岡修造さんは1967年11月6日生まれの現在45歳。身長188cm、体重85kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。日本のテニス選手としては大柄な体躯から繰り出される威力の高いサービスショットを最大の武器とした典型的なビッグサーバータイプの選手の一人であり、1995年ウィンブルドン選手権で日本人男子として62年振りのシングルスベスト8に進出した人物です。松岡さんがテニスに興味を示したのは8歳の時。3つ上の姉がテニスをしていて、興味を持った修造さんは兄と一緒にテニスを始めました。テニス人生に関しては以下で細かく書きますのでここでは割愛します。テニスを始めた当初は兄の方が体格的にもセンスの面でも優れており、周りの大人は兄にばかり高度な指導を行っていたそうです。勉強も兄は真面目で本好き。修造さんは宿題もまともにやらない腕白坊主。以下で省いた内容を記すと、松岡さんは一度テニスから離れた時期がありました。それは高校に進学した時。中学3年生で覚えた麻雀にハマり、テニスをサボってずっと麻雀をしていたそうです。しかし、「いつまでもこんなことをしていていいのか?」と思い改め再びテニスへ。転向を気にテニス街道まっしぐらの人生となりました。話は飛び、30歳で結婚した松岡修造さんは奥さんの出産時期と自身の仕事が重なってしまったため、出産を早めるため奥さんに階段の上り下りをさせたという逸話がある。そして出産に立ち会った松岡修造さんは半袖半ズボンで分娩室に入りひたすら応援し続けたそうです(笑)。ちなみに、錦織圭選手の指導も松岡修造さんが行っていました。

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松岡修造の学生時代

松岡修造さんは松岡家の次男として生まれ、将来は阪急東宝グループを担って行くことを運命付けられていました。小学校は慶応義塾幼稚舎に入学。松岡さんが本格的にテニスを始めたのは小学校5年生の時。テニススクールに通い出すと、松岡さんの才能は一気に開花。翌年の小学6年生の時に、全日本ジュニア12歳以下で優勝。そしてジュニア世界大会にも日本代表として選ばれました。さらに、慶応義塾中等部に進学した松岡さんは、「全日本中学校選手権 優勝」「全日本ジュニア14歳以下 優勝」「関東中学大会 優勝」「関東ジュニア16歳以下 優勝」「関東ジュニア18歳以下 優勝」と数々のタイトルを総なめ。あっという間に日本トップレベルのジュニア選手となりました。そしてそのまま慶応義塾高等学校に進学するが、2年生の時もっとテニスがうまくなりたいと自主退学。福岡県のテニス強豪校・柳川高校に自分の意志で転向しました。すると狙い通り、腕前はさらに上達していきました。高校入学時は身長が165cmしかなかったものの、転向した時にはその身長も180cmと成長していた。当時のサーブの早さは時速160km。松岡さんは転向した年のインターハイでシングルス、ダブルス、団体戦の全てを優勝して三冠制覇の快挙を成し遂げました。そしてその才能を数々の名選手を育てた世界的な名コーチ、ボブ・ブレッドさんに見いだされた松岡さんは、高校を中退し18歳で単身アメリカへ渡りました。

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新人時代の苦労

エリートコースを外れ、勝負の世界に飛び込んだ松岡さん。翌年の19歳の時にプロデビューを果たします。当時日本人選手としては唯一の時速200kmのサーブを打てる男として、世界でも注目を集めました。阪急東宝グループのイスを蹴って、プロになった松岡さんにつけられたあだ名は「反骨の御曹司」。夢はテニス界最高峰の舞台、イギリス・ウインブルドンのセンターコートに立つこと。しかし、ここからが茨の道。当時、プロテニスの世界はピラミッド型に4つのクラスがあり、試合に勝ってランキングをあげればクラスも上がって行くというもの。最下位クラスは若手プロの大会「サテライト大会」。次がトッププレイヤーの登竜門「チャレンジャー大会」。そしてトッププレイヤーが参加する「マスターズ大会」。最後がウインブルドン・全米・全仏・全豪で競い合う「グランドスラム大会」。1000人以上がしのぎを削る中、最上位の大会に出場できるのはほんの一握り。 最下位クラスからスタートした松岡さんはプロの厳しい洗礼を受けました。サテライト大会で予選落ち。そして、負けた選手は次の大会まで練習コートから閉め出されてしまうのです。なんとかしなければと、朝5時起きでフェンスをよじ上りコートに侵入する毎日。なんとか練習のコートを確保しても、一緒に練習してくれる相手はいませんでした。予選落ちの選手でかつテニス後進国の日本から来た新人。日が暮れるまで一人黙々とストレッチだけしていたといいます。コートに練習に来る選手全員に聞いてもやはり誰も松岡さんと練習してくれる人はいませんでした。しかも生活はギリギリ。飛行機やホテル代はすべて選手が持つうえに、一番したのクラスの賞金は安い。親の反対を押し切ってアメリカに飛んだため実家からの援助もなかったそうです。宿は他の選手の部屋に入れてもらい床で寝る。そんな生活を続けながら10ヶ月間。世界中を回りながら試合を続けました。

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松岡修造が常に世界に持ち歩いていたものとは?

辛い日々が続き何度日本に帰りたいと思ったかわからないと語る松岡修造さん。しかし、そんな苦しいツアー生活の中で松岡さんの支えになったものがありました。それは、漫画「エースをねらえ!」。主人公に自分を重ね合わせひたすら自分を奮い立たせたようです。松岡さんは全18巻を世界中に持ち歩き、また時には試合場にも持ち歩きコートチェンジの間にちらりと見て勇気をもらっていたそうです。そんな松岡さんがこの漫画で一番好きなセリフは「この一球は、絶対無二の一球なり」です。試合で形勢不利の時は、何度も何度もこの言葉を心の中で叫んでいたそうです。そして20歳の時、サントリー・ジャパン・オープンで当時世界1位のジョン・マッケンローと互角の勝負を展開し、プロ3年目の21歳の時には世界ランキング60位まで上昇。日本人が世界ランク100位以内に入ることは現在でも快挙と言われているほど。ここからウインブルドンに向かってひたすら駆け上がって行こうかと思った矢先、松岡さんに苦難が襲いかかりました。

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苦悩を乗り越えて手に掴んだウインブルドン舞台

ある日の練習中のこと。松岡さんの両膝に鋭い痛みが走りました。両膝の半月板損傷です。松岡さんの半月板は両膝の2つとも切れていました。立つこともできず、2度の手術を受け10ヶ月間コートから遠ざかってしまいました。その間に60位だった世界ランキングも445位まで転落。しかし、翌年復帰した松岡さんは135位までランキングを戻しました。しかし、、、復帰から9ヶ月目の試合で再び大事故が起こりました。22歳の松岡さんを襲った大事故とは、左足靱帯の断裂。3本ある靱帯の全てが切れていました。テニス生命を危ぶまれるほどの大事故だったが、松岡さんは諦めませんでした。逆境を乗り越えるたびに人は強くなれると信じ、入院中は上半身の強化に務めました。そして23歳にして再び復活。24歳の時の韓国オープンで日本人男子初となる公式戦優勝を成し遂げ、自己最高の世界ランク46位を獲得しました。ここからウインブルドンに向かって、、、そう誰もが思っていた矢先、次は伝染性単核球症という病気を患い2ヶ月間の療養生活に。この時ばっかりは涙が止まらなかったそうです。選手ランクは再び171位まで下がってしまいました。その後は不振にあえぎ、周囲の期待も薄くなっていきました。引退も囁かれていましたが、松岡さんは絶対に諦めることをしませんでした。そしてプロ9年目の27歳の時、念願のウインブルドンにたどり着きました。怪我で棄権した選手が出たため、出場のチャンスが転がり込んできたのです。誰からも期待されていない孤独の中、松岡さんは勝ち進みます。そしてエースをねらえのあの言葉「この一球は、絶対無二の一球なり」を叫んで迎えたマッチポイント。・・・勝利。松岡修造さんは日本人では62年ぶりとなる快挙、ウインブルドン・ベスト8に進出しました。そして2年後。29歳で松岡修造さんはテニス界の第一線から退きました。

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松岡修造が今もなおスポーツ選手の応援に力を注ぐわけ

松岡修造さんは引退後もテレビや現地で他のスポーチ選手を応援し続けています。それも人一倍熱く。ではなぜ、松岡さんはそれほどまでに応援に命を賭けるのでしょうか。その理由はあのウインブルドンにありました。ウインブルドンの三回戦目。松岡さんは負ける一歩手前まで追い込まれていました。「もうダメかもしれない」そんな気持ちが芽生えた時、客席から「修造ーーー、自分を信じていけーーーー!」という声が。外国人ばかりの観客席から飛んできた日本語の応援。それは松岡さんの諦めかていた気持ちを繋ぎました。その言葉を聞いた松岡さんは「俺はまだ負けてない」と気付いたそうです。その一言がなければ松岡修造のベスト8はなかったと語ります。その時の経験が今に響いているわけです。応援が選手の力になることは松岡さん本人が一番わかっている。だから選手を応援するのに命がけになるのです。 ただ、ネタにしたいわけでは決してありませんが、ゴルフのクルム伊達公子選手やフィギュアスケートの村主章枝選手はこんな発言をしています。
「あのウルサイのは誰だ!もー!、と思ってスタンドを見たら松岡さんだった(笑)。一球くらい打ち込んで黙らせようかと思った(笑)」 「いやあもう、集中力が切れそうになっちゃって。こんなこという人はいったい誰なんだと思いましたよ。あの後で、よく自分でも最後までどうにか滑ったものだと思います(笑)」

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松岡家、華麗なる一族

  • 高祖父 : 松岡修造 (実業家:松岡汽船創業者)
  • 曾祖父:松岡潤吉 (実業家/政治家:松岡汽船創業者社長,元貴族院議員)
  • 曾祖父:小林一三 (実業家/政治家:阪急東宝グループ創業者)
  • 曾祖叔父:田邊七六 (政治家:元衆議院議員)
  • 曾祖叔父:田邊宗英 (実業家:第4代後楽園スタヂアム社長)
  • 祖父: 松岡辰郎 (実業家:元松岡汽船社長,第9代東宝社長)
  • 義祖父: 小林米三 (実業家:元阪急電鉄社長)
  • 従祖叔父:田邊圀男 (政治家:第31代総理府総務長官,第12代沖縄開発庁長官,第3代山梨県知事)
  • 父:松岡功 (テニス選手/実業家:元デビスカップ日本代表,第11代東宝社長)
  • 母:千波静 (元宝塚歌劇団星組男役:本名:松岡葆子(旧名:静子),宝塚歌劇団卒業生)
  • 妻:田口恵美子 (ハーバード大学卒業,アナウンサー)
  • 兄:松岡宏泰 (実業家:東宝東和社長)
  • 義兄:辻芳樹 (辻調理師専門学校校長)
  • 義伯父:三村庸平 (実業家:元三菱商事社長・会長)
  • 義伯父:三村亮平(実業家:阪急不動産副社長)
  • 義伯父:小林公平(実業家:元阪急電鉄社長・会長)
  • 従叔父:鳥井信一郎(実業家:元サントリー社長・会長)
  • 従兄:小林公一(実業家:阪急阪神ホールディングス取締役,宝塚歌劇団理事長)

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松岡修造の名言

  • やがて僕のレベルも知らず知らずに上がっていった。なぜなら、僕が戦う相手は、いつも自分より強かったからである
  • 一所懸命生きていれば、不思議なことに疲れない
  • 僕自身「世界No.1の選手と話しをしろ」「練習をしろ」と言われた。「そうすることで、世界No.1の選手が普通の人に見えてくる」と。
  • ミスをすることは悪いことじゃない。それは上達するためには必ず必要なもの。ただし、同じミスはしないこと
  • 弱気になったとき、まず一ヵ月後の自分を想像してみる。それが自分の好きな姿だとしたら、そのために何をするべきかを考える。そうすれば、少なくともその日までは目的意識を保ち続けることができる
  • 褒め言葉よりも苦言に感謝
  • 何かを認識してやってみることが「体験」、その体験を二度三度重ねていくことで「経験」になっていく
  • 崖っぷちありがとう!!最高だ!!
  • 人は完璧を求める。しかし、完璧だと思った時から全てがやり直しになる
  • 編集が怖くて、テレビになんか出られるか!
  • 涙よりも、血よりも、汗を流していたい
  • 怒る時には、自分の身長の高さから厳しい態度で言うこと。褒める時には、必ず子供の視線までしゃがむこと。
  • 人の弱点を見つける天才よりも、人を褒める天才がいい
  • 時間が解決してくれると言うけれど、そうは思わない。でも、行動した時間なら解決してくれるはずだ。
  • ダメダメダメ!諦めたら!周りのこと思えよ、応援してる人たちのこと思ってみろって!あともうちょっとのところなんだから!
  • 一番になるっていったよな?日本一なるっつったよな!ぬるま湯なんかつかってんじゃねぇよお前!!
  • 暑くなければ夏じゃない。熱くなければ人生じゃない!
  • もっと熱くなれよ!熱い血燃やしてけよ!人間熱くなった時が本当の自分に出会えるんだ!!だからこそもっと熱くなれよおおおおおおおおおお!!!

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まとめ

その人の言動はその人の人生を表しますね。ホントに熱い。冷静であることは大人にとって必要なことかもしれませんが、熱くなるところは素直に熱くならなければならない。これは事実だと思います。ガムシャラに頑張るということは絶対に死ぬまで必要なことなんだと思います。僕が今まで出会った人の中に本気でガツガツ努力していた人はほんの数名です。やはりどこかで甘えようとする人がほとんどです。発行しているメルマガにも書いたのですが、僕は自分のTOEIC受験期は何もかも捨てて努力しました。その時は日本一英語を勉強していたという自負があります。するとやはり結果が出ました。・・・いや~、松岡修造さんの本気の部分だけ調べていたらなんだか熱くなってしまいました。人生で一度は熱くなる経験を持つとその後の生活が劇的に変わりますね。 あ、英語に関して語ってませんでしたが、松岡修造さんは英語ができます。18歳で渡米した後、日本語を全て排除して数ヶ月で身につけたそうです。テニスを精一杯やるために。英語はあくまでもツールと、改めて思わせてくれるエピソードです。

TOEIC講師:石崎力也 PS:TOEICに本気になれる方のみこの先の内容をお読みください。確実に力になれます。