自分にはどうも自分より他人を大切にしてしまう節がある。

金の使い方、時間のさきかた然り。

相手が友人であろうと恋人であろうと、程度の差こそあれ、それ自体は変わらず。

自分より他人を大切に、というとやや語弊があるかもしれない。

自分をあるところで犠牲にして他人のことを考える

そういう自分が好きで酔ってるんじゃないか

そういわれたら全否定はできないし、するつもりもない

自分のことを好きでいること

それを他人に主張できる自分でいること

それは生きていく上でとても大事で、不可欠なことだと思う。

自分のことを好きでいられるように生きることは

ときにはとてもしんどいことだけど、

そう生きることこそが自分を支えてくれる人々を、

そして自分自身を裏切らないことだと思うし、

自分のアイデンティティだと思う。

他人を大切にすることで自分を大切にすること

その方法論は今の自分には変えられない。

きっとそうやって生きていくのが俺の生き方。

恐ろしく危険と脆さをはらむ生き方。

俺は仏でもなければキリストでもない。

人を無尽蔵に愛し、大切にする体力も気力もない。

だからバランスが必要。

自分の身を立てる努力と他人を大切にする努力、

それにもがく自分とゆっくり心休める自分、

うまくバランスをとって心にも懐にも余裕をもたなきゃいけない。

どうも自分はバランス感覚に欠ける。

大事なものには全てを注いでしまう。

「一人では多すぎる、一人では全てを奪ってしまう。」

ウィラ・ギャザーの言葉に背くかのように

俺はたった一人に全てを注いだ。

いや、全てではないかもしれない。

他に大切にしたもの、たとえばゼミの仲間、もあったが、

たった一人の人に出来る限りの力を注いだ。

そういう思いは非常にそして非情にも脆い。

その相手を失ったとき、世界は崩壊する。

男と女で多少の程度の違いはあったとしても。

行き場を失った感情、愛情はときに暴走する。

本人にその意識がなくても、ときとして他人の目にはそれが自暴自棄としてうつる。

病んでるなぁ、自分。

自覚があるということは自分をよく知る他人にもそう思われているということ。

あまり、心配をかけたくはない。

他人に甘えることと、他人に弱さを見せられる強さがあるということは

境界線こそ不分明だが、まるで違う。

最近の自分はなんだか甘えっぱなし。

いつまでもそんなことを続けると

大切な人をひとりならず失うことになる。

気をつけよう。

そんなことを思いつつ、大切な人とのふれあい、そしてまだ見ぬ人への出会いには期待する。

つくづく自分はバカだなぁ、と思う反面、恵まれてるなぁと思い、

感謝する瞬間

嫌いじゃない。

あほか。あほや。

きっと似た過ちは繰り返し、その度に周囲に支えられて立ち続ける

まぁ俺の人生、そんなもん。

幸せもんだね、俺は。

あはは。
タイだかどこかでは、人のことを

天から恵まれたものとして

giftと呼んだりするらしい。

英語では贈り物って以外に天賦の才って意味もあるんだよね。

自分がgiftかどうか、自分にgiftがあるかどうかなんてわかんないけど

自分が今ここに存在してること、

自分のおかれた環境、

自分のまわりにいる人々に
感謝しようって思ったりする。

きみは今、イギリスの空の下で何を考えているのだろうか。

自分にgiftがあるとしたらそれはまわりにいてくれる人々。

俺は彼らに何が出来るのだろうか。

そう考えるのはちょっとおこがましいことなのだろうか。

でも自分は友人に恵まれている、それは確固たる事実だと思う。
俺と彼と、二人の男に挟まれて

それぞれに求愛されて

彼女は傲慢になった。

ますますわがままになった。

このまま手を離したら廃れた人生を送るのは火を見るより明らか。

幾分なれてきたけど、彼女の感情の起伏に彼女の豹変ぶりにちょっと驚いた。

そしてとっても悲しくなった。

彼女は俺の言葉を受け付けない。

彼女は俺を受け付けない。

彼女がいま求めているのは彼。

それにしてもこの世界と自分に本気で嫌気が指す。

登場人物が違う別世界に行けたら

記憶喪失になってしまえたら

そんな不謹慎でばかげたことを本気で考えてしまえる自分がキライだ。

そろそろ他の女の子のところに行ったら?

彼女は言う。

全てをかなぐり捨てて一緒にいたいと思えて

かつ、一緒にいられる女の子と

出会えるもんなら今すぐにでも出会いたいのは山々だよ。