正直美少女になりたいんだよ -2ページ目
期末考査の勉強ができない。やる気が出ない。教科書を開いて目の前に置いて読んだ。しかし全然頭に入って来ない。いやいや読んでいるせいか目で文字を追う作業になってしまう。そのように集中できないので期末考査とはほとんど関係のない勉強をした。とくに速読英単語を音読した。正直いつもより集中してできる。中間や期末に向けての勉強は毎回やる気が出ない。勉強をやらされていると感じてしまう。本当にどうしようもない。
暇だったので読書しようかなと。まだ読んでいない本はないかと引き出しをあさってみる。『天才エジソンの秘密 母が教えた7つのルール』(ヘンリー幸田 講談社)叔父からもらったこの本はまだ読んでいなかった。余白や文字がかなり大きくページ数も200ちょっとだったのですぐに読み終わった。エジソンと母ナンシーとの関係に重点が置かれていた。いったいどんな教育方法だったのかわくわくしながら読み進めた。エジソンは知的好奇心旺盛であった。「なぜ」「なぜ」と繰り返すエジソンに母ナンシーはその答えを一緒になって探してあげた。答えが見つからないこともあったが必ず新しい発見がある。その結果として知識が身に付いたとのこと。先入観にとらわれないエジソンの発想はブレーン・ストリーミングに由来すると筆者は言う。これも「なぜ」の産物だ。「あなたはなぜ史上最高の発明家になれたのですか?」記者の質問にエジソンはこう答えた。「私は教育を受けなかった。だから成功したのです」
「正規の教育を受けないこと」、「ナンシーのホームスクール」、「知的好奇心」この3つがうまく組み合わさった。ではその1つ「知的好奇心」はどのようにして生まれたのか。小学生のうちに不登校になれば知的好奇心が旺盛になるのか。ナンシーのホームスクールによってエジソンは変わったのか。どうやらそうではなくそれよりも以前からエジソンは普通とは違っていたということが一般に知られている。「1+1」の問答は有名だ。「天才」エジソンの伝記はここから始まる。エジソンは生まれた時から天才であったと。しかし実はエジソンの知的好奇心はある程度つくられたものだったといえる。ここにも母ナンシーが最も重要な役割を担った。しかし方法はいたって簡単。母ナンシーはエジソンが寝る前世界の名著という名著を読み聞かせていた。エジソンのお気に入りはアルキメデスだったそうだ。そこからエジソンは自分から本を読むようになっていった。エジソンは若くして学びの快感を知っていた。ナンシーの読み聞かせがどれほどエジソンの成長に影響したのか計ることはできない。しかし私は「天才」エジソンの原点をその読み聞かせに求める。
この方法が正しいと仮定して今の教育の反映できないだろうか。現実にそのまま当てはめた場合今日の日本で読み聞かせができるだけの余裕のある親はいない(と思う)。小学生になれば勉強は苦しみ以外のなにものでもなくなる。それではだめなのだ。ではどうしたらいいのかなあと考えてもいまのところ何も思いつかない。
昨日は青チャートの順列を少しと一対一対応の展開・因数分解のところを少しやった。学習量が足らないことはわかっている。今日は気合を入れてやろう。何の教科がいいか。英語を2学年までに完璧にするつもりだったが今の今まで忘れていた。今日は一日英語をしよう。
自分の書いた文章を読み返してみるとああなんて幼稚なんだと思う。文面もそうだが興味のあることでも知識が浅すぎる。前にも同じことを考えて少しでも知識を肥やそうと書店に行ったのだ。遠いところに時間をかけていった。しかしそこで絶望した。私の期待しているような専門書は一冊もない。高校生なりに判断したわけであるが確かに読者を馬鹿にしたような雑学程度を載せた本しかないのだ。とくに歴史政治経済軍事の棚には目を覆った(高校生だけれど感じた。あれは読んではいけないと)。私の周りには小さな本屋しかない。その小さな本屋には参考書コーナーを覗きにいくがそれくらいもので本屋に行って本を買うということはそうそうなかった。そうであるだけに落胆が大きかった。なぜこんなにひどいのかと。まあ当然そういった本の方が良く売れるのだろう。だからってなあと思ったが良い勉強になった。専門書が売っている本屋はきっと都会にあるのだろう。私は田舎に住んでいるので本はアマゾンで買うのが確かだ。さてさて私がまず学びたいのは教育についてだ。とくにどんな教育を理想とすればいいのか具体的に書いてある本を読みたい。
大学進学についてどうしようかなと今日突然思い立った。我が通う高校は所謂自称進学校である。○例に漏れず文武両道を掲げている。○土曜課外があり朝学もある。○課題が多い。私は課題が大嫌いなのでよく適当にごまかす。○無駄な調べ学習と発表会がある。これも大嫌いである。しかしとんずらしたので全く問題ない。進学校を自称しているがお頭の成績を全国の中で比較すればそれはもう見るに堪えない。国公立信仰があるがその国公立進学割合はここ数年減り続けている。ちなみに●●大学(我が県名が入る)が大半を占める。もう末期状態である。自称を前にもう一つ付けて自称自称進学校と呼ぶのがふさわしい。さてさて私の進学についてである。身を自称進学校に置いているのであるから当然国公立を目指そうか。しかしどうしてもこれといったものを決められない。自称進学校であるだけにしつこく進学先を早く決めろと言われ脊髄反射的に目についた法学部を紙に書いて提出した。なすがままなされるがままに授業で調べてみたところどうもこれは退屈そうだと思えた。今目を付けているのが経済学部である。これも三日後には変わっているかもしれない。とりあえず勉強はしておこうと思うが先ほど散々馬鹿にした自称進学校の中でも中途半端な成績をとる私であるのでそれ相応の努力が要求される。まあ別段苦と思ったこともないので心配はしていない(楽観的なのかもしれない)。だらだらとやっても飽きが回ってくるのでその記録でもこれからブログに張り付けていごうかなと思う。ただこれを宣言したかったのでこの記事を書いた。
椅子に座っている。ここは教室だ。教室のどこでもいい。とにかく座っていて、……西を向くと黒板がみえる。教師は生徒に背を向けて教科書と同じようなことをかいて説明をしている。普通すぎる授業だ。そしてとても無意味な授業だ。教科書はある分野についての説明が丁寧に記述されている。つまり教師は説明の説明をしているということだ。こんなものは絶対にダメだ。学生に求められるのは教わる姿勢ではなく学ぶ姿勢であるべきだ。などと成績不良の学生である私が恥ずかしいながら思ったのだ。

(こうしたらいいのではないか)。

①黒板に問題を書く(内容理解を問う難問が良い)。
②教室の後ろに椅子を配置。そこに教師がどっしりと座り高みの見物。
※主体性を損ねないよう教師は出歩いて覗き見をしてはいけない。ただし生徒が調べてもどうしてもわからないというのなら質問に答える。

これだけでいい。生徒は持てる教材をすべて活用して問題解決にあたる。

解けなかったと言って宿題にしたり居残りにさせてたりしてはいけない。
あくまで一日に何回も何時間も自分で学ぶという行為を繰り返させてそれを習慣づけることが大切だからだ。
学生身分が何を言うのだと。しかしこういった教育方法を議論するのは大抵教える側のみであるので教わる側の感じた意見というのは多少価値があるのではないかと思うのだ。学生は受動的になってはいけないと思うのだ。だからといって学業にあまり関係のない調べ学習や討論をさせる場合があるがそんなものに価値はない。テーマを広げすぎると学生は楽に済ませようと切り貼りを行う。時間の無駄だ。
あれはこうした方がいい、こんなことを始めてみよう。
などと、人前で言いたくてうずうずしている。
だけれど、自分に自信がないのです。
なのでこうやって、辺鄙なところから叫んでいるのです。