今日は前回のブログで少しふれた、『音』のことについて。
 


私がここにきてようやく私の魂のコアにあるものだと確信した、
『音』のことについて、なぜそう確信したのかといういきさつを
ちょっとお話ししてみようかと思います。


実は今までもこのことはずーっと書いてみたいと思っていたけれど、

どこから切り出して書いていいか分からず

私の中でこのことについて、自由に思いのまま書ける自信がなくて、

なんだかまだ書いてはいけないような、
許可が下りていないような気がして、
怖くて書けないでいることでもありました。


でもようやくここにきて、私がこれまで『音』について感じてきたことが

思い込みや思い過ごしではなかったと思うことが重なったり、
ことあるごとに受けていた天からのメッセージが
『音』そのもののことだったんだと確信できたこともあって、
これから少しずつでも書いてみたいという思いに至りました。


これから私が度々綴っていくことは
私の中での感覚による部分が多いし、
まぁ、もともとブログのタイトルが
“超感覚”とか付いちゃってるので今更なのですが、
本当にそんな超感覚的なことが多いです。


でも、なにげに付けたこのタイトル、
ここにきて妙に自分自身でしっくりくるようになった感じで、
やっぱりこの手のことを書くために始めたことなのかもと

なんだか一人で勝手に納得しています。



結論から言ってしまえば今日のブログのタイトルの通り、
『音』とは、
人間が宇宙の営みと同期するのに必要不可欠で、
かつ、もっとも自然なシステムやツール
なのではないかと。


もっと言ってしまえば、宇宙そのものと言っても過言ではないくらいに
今私は思っています。



私は物心ついたころから音楽がとても好きでした。
音楽を聴くことも、歌うこともどっちも好きで、
小さいころの夢は、聖子ちゃんに憧れて歌手になることでした。
(憧れのままで終わりましたw)


それからしばらくして思春期に入るとしばらく、
ユーミンを聴いていました。


ユーミンの音楽の世界は、それまで聴いていたどんな音楽にもない
言葉では言い表せないような、何か独特のインパクトがあって、

私は彼女の音の世界と詩の世界にのめりこんでいきました。


なんだかこのメロディ、初めて聴くのにとっても懐かしい気がする・・・


この詩はこのメロディのために、
このメロディは、この詩のために生まれてきたんだろうな・・・



そんな魂のデジャヴみたいなことが、彼女の曲を聴いていて
度々おこることがありました。


音楽って不思議。

音って不思議。


音楽や音には今の文明や科学では説明のつかない
そこはかとない壮大な何かがきっとあるに違いない。




何の根拠もなかったけれど、
でもこれだけ魂を揺さぶる何かを持っている音楽や音に対しては

そんなふうに思うことが、私の中ではとっても自然なことでした。


そんな頃から、ことあるごとに私は音楽や音に対してのアンテナを
無意識のうちに広げるようになり、
何かピンとくる来るときには、その感覚を大事にするようになりました。
 


よくありませんか?
ある曲の、あるフレーズの旋律を聴くと、
決まっていつも胸がキューンとなったりすること。


すごーくリラックスしたりすることもあれば、
時にはズキッとしたり、チクッとしたり、などなど。


その音楽を聴いていた当時の感情が蘇ってくる、
っていうのとはまた別の、独特な感覚。


魂が記憶している何かにピンポイントでヒットしたような、
それが何だかまるで分らないけれど、
でも何かに確実に反応している感じ。


そんな感覚が、不思議で不思議で仕方がありませんでした。
そして、私にとってそんな感覚を覚えるのが往々にして音楽でした。



そして歌声そのものにも、
魂にせまるものとそうでないものがあることに気付きます。


この音楽はどうしてこんなに心に響くんだろう?
なんていうふうに、自分なりに分析しながら聞く癖がついた時、
【倍音】の響きがその要素として大きく影響していることに
気が付きました。


倍音についてはまた違う機会に改めて書きたいと思いますが、
簡単に言うと、その基音となる音の周波数の倍になる音が
重なってできた音とのことで、
例えばラの音(A=440Hz)を二倍すると、
1オクターブ上のラ(880Hz)になり、
その音がともに重なってできた音が倍音です。
1/2倍、2倍、3倍、4倍など様々あります。


そして倍音の響きの質によっても、
伝わるインパクトが違っていることも感じました。



私の中で【倍音】は、漠然としながらも
かなり重要に違いないと思わずにはいられない
特別なキーワードになりました。



それからかなりの時を経て
私の長女がピアノを習い始める時に、
ピアノ教室の先生から聴音用に音叉を用意するように言われました。


それまで全く縁のなかった音叉だったけれど、
音叉というものに意識を向けた時に、
何かまた漠然とした不思議なものを感じました。



ピアノの調律師さんが使うものくらいにしか思っていなかったけれど、

でもよく考えるとその調律の仕方はいたってアナログで、

調律師さんの感覚や感性に全く委ねることになるわけだから、
調律したピアノから紡ぎ出されるメロディというものは
その調律師さんの感性が音色になって出ているんだと思うと、

その音色の基礎を決める大元の音叉は、調律師さんが使う

魔法の杖のように思えて仕方がありませんでした。




そして、その音叉には
「A=440Hz」のものと「A=442Hz」があることを知ります。



ピアノ教室の先生は
「A=442Hz」の音叉を購入してくださいと言いました。


昔は440Hzで調律するのが主流だったけれど、
今は442Hzで調律することの方が多いので、
というようなことを言われたような気がします。


私自身音楽は大好きでしたが、
ピアノやそのほかの楽器を習ったことがなかったので、

音楽の理論や細かいことなんかまるで分らないけれど、

でも、その時そのたった2Hzの違いが
何か大きな意味を潜ませているような気がしてなりませんでした。



たった2Hzの違いだけれどそれがメロディを奏でて人に伝わった時に、
周波数のエネルギーとして
大きな違いになって影響してしまうんじゃないかな、と。


そして、なぜ今は440Hzではなく442Hzなんだろうという疑問も、
頭の片隅に残ることになりました。


それからまたしばらくして、「平均律クラヴィーア」という、
J.Sバッハが作曲した曲集があることを知ります。


いまだに曲についてはよく知らないけれど、

この平均律】という言葉に妙に引っかかって、

当時ピアノの先生に、平均律ってなんですか?と
訊いたことがありました。


その時に教えていただいた内容が、音楽のど素人である私には

すんなり理解することはできませんでしたが、

でもなにか自然的ではない、意図的な人間の“作為”のようなものを

この【平均律】という言葉から感じずにはいられませんでした。



【平均律】ってなんか不自然・・・



漠然とそう思い続けて今に至っていました。







かなり長くなりそうなので、続きは次回に書きます♪