先週戦国時代のみちのくを代表するNo,2の足跡を辿る為に宮城~福島~山形を旅した。


伊達政宗公の懐刀・片倉小十郎景綱公
と
上杉景勝公の懐刀・直江兼続公
前から「No,2 としてどちらが優れているのか?」という疑問があったんだけど色々見て廻った上での結論は
“No,2としての立ち位置や功績が全く違うので比べがたい”
という事だった。
平時において陣中において伊達政宗公の側近くで献策してた片倉小十郎景綱公はまさに“参謀”タイプ
数多くの戦において伊達政宗公を勝利に導き
小田原合戦の際、秀吉公に頭を下げるか戦うか家中が割れた時も「蝿は何度追い払ってもしつこく来るものです、それに豊臣家は一代限りでしょうから」と小田原参陣を進言し伊達家の存続に貢献し
大坂の陣の折も遠く白石の地で病床にありながら戦の結果を予言したらしい
卓越した戦略・戦術眼をもって伊達家の舵取りをして仙台藩の礎を築いたと言っても過言ではなく徳川幕府の一国一城令が出された時も白石城だけは特別に許された事から天下に比類無き人物と認められていた事が伺える
景勝公の絶大な信頼の元その意を組んで上杉家の一切を取り仕切った直江兼続公はいわゆる“宰相”タイプ
生き残る為には何でもアリで利益優先だった戦国時代において何よりも“義”を重んじた上杉家は正直他の大名家より取れる手段が限られてただろうし当然そうなれば自分達の思わぬ結果になる事もあったんだけどそこからどう立ち直っていくか?というのが兼続公の本領発揮だったと思う
長谷堂城の戦いの折、関ヶ原での西軍破れるの報を聞くや否や自らしんがりを務め猛追する最上軍を食い止めその退却戦は最上義光公本人や徳川家康公も褒め称える程だったそう
石田三成公に引っ張り出された毛利・島津と違い直江状で挑発し国を上げて徳川を迎え撃つ気満々だったので取り潰されてもおかしくない状況で家康公の懐刀・本多正信公の子を養子に迎える等手を尽くして減封だけで済ませ上杉家を存続させ
会津120万石から米沢30万石の大減封になった際も譜代の家臣をリストラする事なく自ら倹約に努め家臣達に新田開発・産業育成を奨励したり治水事業や文化事業、有事に備えての鉄砲研究等米沢藩の礎を築いた
ただNo,2としてのタイプは違っても一人の主君に生涯忠義を尽くした点では一緒で豊臣秀吉公からの破格の条件を断ったからね
あと片倉小十郎景綱公も伊達政宗公の幼少の頃より傅役として武芸・学問を仕込んだりしたし直江兼続公も幼い頃より上杉景勝公と共に雲洞庵で学び共に上杉謙信公の薫陶を受けて育ったりと家というより主君個人への忠義が強かったのではないか?と思う
片倉小十郎景綱公の妻が妊娠した時も「正宗公に未だ御嫡男が産まれない内に我が家に嫡男が産まれるのは申し訳がない」として男子だったら殺す様に行った等ある種狂気とまで言える程の忠義だよね(この時は政宗公が“それは駄目だ”と止めたおかげで産まれた男子は無事成長し立派な2代目になるんだけど)





