数日前ちょうど母と長電話した。



私が駐在員の家族のもとアメリカで生まれた人間なので、
私の母というのは駐在員妻だ。

80年代中盤、円ドルのレートが狂っていた時代に夫である私の父と共にアメリカに渡り、

中西部の田舎で暮らし、子供を二人アメリカで産み、一人目(私)が9歳になるまで育てた人間である。

母には駐在員妻なりの苦労や辛さがあっただろう。

今回は母の苦労話にこそならなかったものの、母の後悔の話になっていた。



私は日本に「帰国する」という話を知らなかった。

親がそんなつもりでいることはさらさら知らないまま、自分が生まれた土地で、近所の高校でチアリーダーになることなんかを夢見ながら、私も金髪青い目だったらよかったのに、なんて金髪青い目でくるくるヘアのバービーちゃんみたいな同級生を軽く羨みながら、アメリカの大統領の名前を覚えられずに困りながら、でもそれを他国の大統領だなんて思いもせずに暮らしていた。


私は日本に帰るつもりなどさらさらなかった。

日本が嫌いだったんじゃない。

私はここ(アメリカの田舎)で生まれ、ここ(アメリカ)で育つものだと意識もせずに思っていたと思う。


人と言うのはそういうものなんだろうなと思う。

自分のいる環境で、そのまま生活が続くと思って生きている。


当然私もそうだった。

日本に帰る発想など微塵もなかった。

そもそも、日本に「帰る」という表現自体、アメリカで生まれた私には適切じゃないが、

とにかくそんな発想全くなかった。

私の生きる場所はアメリカだと思っていた。


母の後悔はそれらしい。

私にちゃんと「あなたはいつか日本に帰るのよ」と言わなかったこと。

(まあ私としては、教えてもらっても 帰るんじゃねーよ、行くんだよ てなところだが、

まあそれは母の言いたいこととズレるのであまり重要ではない)


私は9歳のある日突然日本に引っ越すことになったと言われる。

そしてその少し後に学校で吐いている。

体調が悪いわけでもなんでもなかった。

自分でも、私はどうしたのだろうと焦りながら、アメリカの小学校の教室のシンクに走って行って吐いた記憶がある。

今思えば精神が不安定だったのかなと思う。


そして気付けば荷造りが進み、

いくつかは処分を免れたものの、

お気に入りのぬいぐるみがガレージセールで売られたなあ

そして、私にはただの移住である「帰国」をしたのを覚えている。


母に今回初めて「あなた心の準備する時間なかったよね ごめんね」と言われて、

いやまあ、そりゃあ、子供連れて国を渡るんだし、あなたたちも余裕がなかったんでしょうよ なんてなことも思いながら、

でも「心の準備以前の問題だ」と思った。


何故なら私は自分の状況を特殊なものとして見ていなかった。

特に子供はそうだろうけども、自分の生活が多くの他者から見て異質だなんて、ある程度成長しないとわからない。

だから私にとって私の生活は「当たり前」のもので、

両親にとっての「一時的にアメリカに住んでいる」という感覚は、全然理解していなかった。


幸運にも、99%以上白人の社会において、英語の発音は他と変わらない、ただ人種の違うアジア系の女の子として、明らかな差別を受けたことがなかったので、受け入れられてないと思ったこともない。

(むしろ「受け入れられていない」なら、人種的にも民族的にも同じはずの日本での方が圧倒的に頻繁に感じた。だがそれはまた別の時の話にしよう。)

だから、両親は地に足のつききらない生活だったようだが、

私は地に足をつけて生きていた。

なんなら、感覚としては骨が半分以上そこに埋められていた。

日本についての知識こそあり、日本語こそそれなりに読み書き話せたが、

日本で住む心の準備どころか、意識も世界観も感覚も準備できてなかった。

アイデンティティがそもそも、日本で住むのに適していなかった。

子供だったのでそんなにはっきりと考えていたわけではなかったが、私は自分が日本人だと思ったことがなかった。

だから、心の準備以前に、

アイデンティティが準備できていなかった。


そんなことを母の言葉を聞きながら思った。