続きです。






—「俺様」は未熟な男性像、「超俺様」は成熟した男性像—



「俺様」について考える時、幼い子どもをイメージすると分かりやすい。



実は幼い子どもの考え方、行動のすべては「俺様」に基づくものだ。



幼い子どもは自分の世界こそすべてであり、自分の言うことを聞いてもらおうと周囲に対してあらゆる手段を使う。



例えば、泣きわめいてヒステリーを起こしたり、周りに対して意地悪をしてみたりする。



それもこれも、未熟な「俺様」に由来する世界に対する万能感からくるものだ。



つまり



自分は世界の王様であり、この世にできないことなどなく、すべての人は自分の言うことを聞くべきだ



というものだ。



子どもの頃、こういった未熟な「俺様」を持っているのは当たり前のことであり、別に悪いことではない。



子どもは自分の未熟な「俺様」をどのくらい許してもらったかによって、自分の価値を形成していくものだからだ。



問題は、もう「大人」になったにも関わらず、自分の中の「哲学」がこの未熟な「俺様」由来のものである場合だ。



職場などで、仕事が計画通りにいかなかったりする時、周囲に不機嫌を撒き散らしたりする人がいる。



誰かがミスをした時、怒鳴り散らしたりする人がいる。



自分の思い通りにならない時、相手としょっちゅう喧嘩になる人がいる。



すべて、未熟な「俺様」が行動基準になっているせいだ。






対して「超俺様」は成熟した「大人」の男性をイメージしてもらうと良い。



イメージとしては、オシャレなスーツをまとい、気品に溢れる英国紳士みたいな感じだ。



「超俺様」は、本当の意味で世間を、社会を、世界を知っている。



自分の人生を通して、経験として「正しく」それらを理解している。



それはつまり、



世界は自分だけのものではなく、多種多様な価値観によって形成されている



と知っていることであり、よって



自分は世界と調和して存在すべきものであり、自分のできることとできないことを理解したうえで、他人を尊重して協力していくべきだ



と考えるということだ。



「超俺様」に由来する「哲学」を持つ男性は、むやみに不機嫌を撒き散らしたりしないし、人を怒鳴ったりもしない。



また、むやみな争いも避ける。



それらはすべて、調和することから脱線する行為だからだ。



しかし、だからといって自分を無理に抑えるという訳ではない。



「正しく」感じ、「正しく」怒り、「正しく」戦うことができるということだ。



「超俺様」の視点を持つことにより自分の感情を「正しく」処理し、それに振り回されることなく客観的に自分をみることができるのだ。



「俺様」は未熟な自分に支配されてしまうのに対し、「超俺様」はそんな未熟な「俺様」を認識したうえで、自分のとる行動を選べると言うことができる。