自分の性質を理解してより良く生きたい。
ただそれだけ。
社会人になって初めて勤めた会社では失敗の連続で、それによってバカにされることがあった。
例えば、上司に平気でタメ口で話してしまう。
敬語がまったく分からないのだ。
口を開くとタメ口をきいてしまい叱られるから、いつしか黙りこくって仕事をするようになった。
それから、同じことを繰り返し聞いてしまって人を怒らせることもあった。
どういうことかと言うと、当時勤めていた会社は不動産屋で、取り引き先の会社に対して毎朝物件の有無を電話で確認する業務があったんだけど。
普通は同じ取り引き先には、2、3日置きに電話で確認を取る。(今ならそうすべきだと分かる。)
なのに俺は毎日電話をかけて確認をとっていた。
何というか、「さじ加減」が分からないのだ。
普通、「ここには今日電話をかけたから、次の確認は明後日以降にしよう」くらいの感覚があるものだが、それが分からない。
「毎日確認するように」
という業務命令通りにただそれを遂行してしまう。
「あんたもしつこいね!昨日答えたばっかりじゃない!」
と電話越しに怒鳴られたこともある。
これは「指示の意味が分からない」といった失敗ではないけれど、とにかくこういった「感覚的」な失敗が死ぬほど多かった。
そして、俺の性格上怒られたことをずっと引きずるものだからテンションは下がりっぱなしで仕事を進めていくうえで支障がでた。
だから、この教訓を活かして次に勤めた会社では徹底的に敬語を話すようにし、曖昧で「感覚的」な指示をされた場合は細部まで確認するようにした。
また、業務の抜けが多かったので徹底的にメモを取るクセをつけた。
これらの対応策はかなり有効で、特にメモを取るというのはかなり俺のミスを防いでくれた。
これは今でも有効に機能してくれている。
ただ、問題もあった。
敬語を徹底している時は、なんだか自分が自分じゃないような感覚になる時があって、上手く言えないんだけど第三者目線の自分がその自分を冷めた目線で見ている感覚になったりした。
お前は本当はそんな奴じゃないじゃん
と言われているようで、ちょっぴり苦しくなるのだった。
また、ミスを防ぐために細部を確認する作業も、ある時は度を越してしまって
「そんなことまでやらなくていいよ」
と半ばあきれられることがあった。
しかもこの作業は俺にとって膨大な労力と時間を費やす作業だった。
普段とは逆の対応をする訳だから、とにかく疲れるのだ。
素の自分では取らないような「真逆」の作業をするから、とにかく疲れる。
業務内容が比較的軽い場合は、確認事項や細部のチェックもまだ軽くて済むのだけど、それが煩雑な案件となるととにかくチェックチェックチェックを自分に課してしまい、グッタリとなってしまう。
しかし、それをやらないといつか「ボロ」が出てしまうという恐れから続けざるをえなかった。
仕事で素の自分を見せようものなら、それまで築いた信用や人間関係は崩壊するというちょっとした恐怖感すらあったのかも。
とにかくそんな状態を頑張ることで何とか成り立っていた。
社会に出たら、素の自分を隠して生きていくのがスタンダードになっていたのだ。
それは子どもが生まれてからますます加速度を増して、いかにしっかり振る舞うかを自分に課して生活するようになっていたと思う。
まあ当然そんなことがずっとできるはずもなく、7年くらいの間にほころびが生じてしまった。
ハッキリ言って、すごく疲れてしまったのだ。
もうそういう行動・作業をするのが嫌になってしまったのだ。
でまあ、それからの後は素の自分で生きることを目指して生きる日々を過ごしている。
俺の性質は、こんな感じだ。
人の気持ちに分からない部分があったり、曖昧な「感覚的」な部分が分からなかったりする。
人からの話を「字面」だけで解釈してしまったり、人の気持ちの真意が汲めない。
これで散々失敗して苦労してきたから、今までこの素の部分をいかにして隠して、もしくはなおしていくかということにスポットを当てて解決策を考えていた。
だけど、どうもこれは有効な解決策ではなかったみたいだ。
一時的には確かに効果はあった。
だけど長期的に見ると決して上手くいっていない。
そしてこの解決策はこの先通用しないと思う。
なぜなら素の自分で生きることと、それを隠したりなおしたりして社会に対応していくことは真逆のことだからだ。
上手く言えないけどアクセスとブレーキを同時に踏んでしまう感じ。
これをやることは結局、過去と同じ状況をまねくだけだ。
今回のような妻との喧嘩を、また繰り返すだけだ。
にもかかわらず。
自分で書いていて気づくのだけど
素の自分で生きたい
と言っているくせに自分がやっていることは、
素の自分を隠したり、なおそうとしている
という決定的な矛盾が俺にはある。
俺に必要なのは本当の意味で
素の自分をフラットに理解し、ただ認識すること
だろう。
肯定も否定もせずに、ただそのままの自分の性質を認識するだけ。
それによって、自己嫌悪も、必要以上の自己評価もせずに解決策が導き出されると思うのだ。
今まで素の自分で生きるために、とても沢山のことをブログに吐露して書いてきた。
しかし、ショックなことにその中で気づき解決策として書いてきたことの中には、素の自分で生きることとは真逆の、素の自分を隠したりなおしたりする方法になってしまっているものがあった。
そしてもっと悪いことがある。
過去の自分を否定したり、その自分の性質を隠したりなおそうとすることは、実は自分が今までに出会った周りの人(妻や子ども、家族や友達)を無意識に侮辱する行為であるという重大なことに気づいた。
そういう意味でも、これからの俺に必要なのは
隠したりなおしたりすることによる解決策ではない
ということが身に染みて分かる。
その4に続く