わたしは、メンフクロウが好きです。


Living In North Place by uchili


この非生物的でニュートラルすぎる存在感、
真っ黒のガラスみたいなおめめ、
ハート型のパラボナアンテナみたいな顔面にV字のくちばし。

この形のすばらしさとシュールさと不気味さで、ほかに並ぶ生き物はいないと思います。
圧倒的な無表情と、普遍的な威厳を感じます。
なにせ、フラットウッズモンスターの正体がコイツらしいですからね。
そしてこの顔は土偶とか太陽の塔を思わせますし。
もはや正体は宇宙人じゃないかと思っています。
私はこの生き物にぞっこんです。崇めてます。猫と同じくらいリスペクトしてます。





・・・で。
ついに、先日そのうちの一羽と接触することができました。







Living In North Place by uchili

ドヤァ(`∀´)



見てコレ!意外とちっちゃいでしょ!!!
重さ200グラムだってさ!ティッシュ箱くらいなんだよ!!!!!
やばいべ!このふくろうすんげー軽い!!!!!




http://www.fuku-kita.com/

えっと、先週末に相方がこっちに遊びにきたので、ここにいったんですよ。
動物大好きな同僚のレコメンド。
真駒内からバス乗り継いだ上に山のなかのバス停からさらに1,4キロっていう僻地ですが、
姉妹施設含めていろんな動物をじかに触れるっていう、なんかかなりコアなスポット。


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ガガヘアーの馬とか、
池見ると・・・あれ、あざらし・・・!?!?!?
みたいな。


でもすごいのは、ふくろうだから。

止まり木に、ありとあらゆるふくろうが止まってて、


Living In North Place by uchili


もうこの距離ですから。


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森に馴染みつつも美しい羽毛とひそやかな佇まいです。


Living In North Place by uchili

この存在感、森の中で切り出した木喰とか円空の木彫り仏像じゃね?
てか彼ら、一回くらいふくろうと仏を見間違えたんじゃないかって思う。



んで、メンフクロウももちろんその中にいたわけです。



Living In North Place by uchili


腕にのせたやつ含めて、なぜかこいつらだけ4羽もいました。

しかしながら、一番無表情な顔のくせして、
実はこいつらが一番キャラクター的にギャップあります。

なんか、やたらせわしない。
写真じゃわからんのですが、近づいていくと

「プギャー!プギャー!」

っていう電波ぽいというか、ノイズと悲鳴の中間みたいなシャアシャアした声で鳴くんです。
断じてホーホーではない。
んでさらに、こいつにえさをあげてみると、えさ箱に私が近づいた時点で、
止まり木からすっ転んで羽ばたばたして、そわそわしだすんです。

・・・実家の猫のぐれと同じレベルじゃねーか。君。

飼育員さんに聞くと、
「この子達は調教しやすくて、人に慣れちゃうんですよねー」
だってさ。


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いろんな角度から見ると、すごい形だよね、ともかく。

頭の丸いラインもやばいんだけど、
なんといってもふわっふわの羽毛がなんとも魅力的でした。
特にさー、羽のところにベージュとまだらっぽいグレーがふんわり乗っているんだけど、
そのテクスチャーの美しさといったら!ドリス・ヴァン・ノッテンもびっくりのテキスタイルですぜ。

横とか上から見ると、顔っつっても鳥類とはかけ離れているというか、
哺乳類なのか顔なのか生き物なのかよくわからん感じなのがしびれました。



そんなわけで、自然界ってスバラシイ。
メンフクロウのお面でも作ろうかと思います。




2番通りは空が広い。
このバス通りは、駅に向かうにつれ団地が増えるが、祖父母宅のあたりまで歩けば一軒家が増えてくる。北海道の家と言えば、赤か青の三角屋根に煙突つき、もしくは最近のものであれば、全て四角く大きい。この辺の住宅街というのも、まるで箱がきれいに並んでいるような景色がつづいていて、特に森林公園地区などは、真っ直ぐに伸びるもみや樫の木と国道が調和して、非常に静かな調和をしている。
そんなわけで、この2番通りは、幼い頃からもの珍しさを感じていた。団地は現在、市が格安で貸し出しているとの看板が立っていて、意外と人気があるのかもしれない。とはいっても、これらが立てられたのは60年代か70年代ではなかろうか。窓にはふすまが多い。団地の間には公園もある。ここに似た場所を、昨年、南阿佐ヶ谷で見つけた。バスで狭い道を抜けて井の頭線までの道のりだったが、途中に、やや低い高さの団地が連なっている区域があった。晴れた日の休日に、バスに揺られながらそれを窓から眺めていて、奇妙な懐かしさを感じていた。
ただし、いくつか変わったかもしれない点に気付く。まずひとつ、団地のはずれに家か建物があったはずだが、更地になっている。もうひとつ、太い煙突が消えている。この煙突はかなり存在感があった。液のほうへ曲がる頃、団地のど真ん中に突然、銭湯のコンクリート煙突を何倍も太く長くしたような筒が現れるはずだった。この煙突は焼却炉なのか、排気口なのか、今ではわからずじまいだが、最後に訪れた6年前でさえ、まだあそこにあったはずだった。

その煙突が消えたせいで、2番通りの均衡が崩れてしまっている。
団地のあらゆる建物に高さと幅、人が住んでいる重厚さを感じられないのだ。息をしていない。それらは他人行儀で通り沿いにつつましく並び、空に空間を明け渡している。そして空は横に長く伸び、弛緩している印象さえ受ける。それが午後5時半。
ジョイというスーパーがあった場所には、違うスーパーの看板がかかっている。そこの駐車場では盆踊りを毎年夏にやっていたので愛着が湧いていたが、幸い裏の商店街はあまり変わっていないようだ。祭りのときに、こども向けに投影されていた映画のスクリーンは、駐車場隣にあったふとん屋の壁だったが、そのふとん屋の看板はそのままある。あとは、バスでアナウンスされていたヤジマ薬局も。郵便局もある。ただ、一度とびひでかかったことのある病院は、あるかどうかわからない。
ちょうど祖父母の家に一番近いバス停を降りた交差点にある、アーケードの商店街も、そのほとんどが閉まっていたが生き永らえているようだった。たしか手前の一軒はおもちゃ屋だったかもしれない。93年の夏に、私はそこでがちゃぽんを回していた。100円のミサンガ。夏休みの最後に、トイレに流してしまった、小汚いミサンガを買ったのだ。

この日はまだ、祖父に顔を合わせることができなかった。さきほどの母の電話では、いろいろ面倒な部分が多いから、手紙を私のほうで出しておくから、それから挨拶にいってくれ、とのことで、ここから先の、一番懐かしい道のりは、息を潜めて歩かなくてはいけないらしかった。

交差点にはセブンイレブンが一軒。これは7,8年前にできたもの。ここでコーヒーと煙草を買い足す。それより昔に、なにがあったか思い出せない。その隣には、水色のビルがある。これは94年ごろに建てられたはずだ。その年の夏休みには、祖父母の家の前から、真新しく輝くそのビルを眺めていた。しかしこのビルは薄汚れて亀裂が入り、野暮ったさを醸し出している。
コンビニの脇を抜けてすぐに、洋風の一軒家。ここを右に曲がる。この曲がり角が、自分にとっては一番大事な曲がり角だ。見送られても、ここを曲がれば姿は消える。あるいは、ここを曲がれば、3軒先の家の前に、じいちゃんとばあちゃんが立っていた。

あたりは薄暗い中で、懐かしい平屋はひっそりと縮こまり、崩れかかっていた。
それはあくまでも私の印象だ。何故なら、この並びにあったはずの、ほかの古い家はほとんどなくなり、ダリアのピンクの花が咲いていた隣の青い屋根の家は消えて竣工中の空き家が出来ている。また、裏にあったベージュの切妻屋根の家は、持ち主が亡くなったせいか、まったくの空き地だ。まわりに押し込められていたはずの祖父母の家は、隣人を失っている。春先の庭には、なにも生えていない。雪でひしゃげた低木が、ぐったり裏庭に幹を伸ばしている。おんぼろだ。忘れられたように、おんぼろだった。私はうたかたの日々の、徐々に狭くすすけていく家を思い出してしまった。あれとまったく、同じじゃないか。家の外壁は剥がれかけ、昔よりも一層、屋根の高さは低くつぶれてきている気がする。しかしそこの中に祖父はいるはずだった。痰のからんだ咳をしながら、ストーブの前で新聞でも読んでいるかもしれない。申し訳ないと思いながら、私は公園に向かう。

はるみ公園は真っ直ぐ行って左に曲がったところにある。砂利道に囲まれて、そこそこ広い。ラジオ体操と花火の場所だ。ラジオ体操は、小学生の頃にあそこでやっていた。秋田ではなく、こっちで過ごすことが多かったから、私と弟は地元の子供にまじって、みんなとは違う種類のスタンプカードにはんこを押してもらっていた。黄色い台の上に、きびきびと動く背の高いじいさんが体操の指揮をとっていたが、今は他界されているかもしれない。
花火も、おそらく何回かはその公園でやっていた。ただしその記憶は意外とあとのもので、私が高校の2年あたりだったかもしれない。いとこと一緒に、花火で遊んでいたが、同い年のいとこはその頃の典型的なやさぐれ方をしていて、煙にまぎれて煙草を吸って、吸殻を芝生にぽんと投げた。いくつかいとことそりのあわない会話をしたが、ピアスを開けたといって、耳たぶをみせてくれた。街灯が暗くてよく見えなかったが、耳たぶには穴と、かぶれたような跡があった。痛々しくてむずがゆい感じがしたが、自分で開けたからしょうがないよ、開けたかったんだし、と彼女は言った気がする。
公園は雪が大量に公園に積まれており、見通しが悪く、公園としてはまだ利用できる時期ではなかった。ぶらんこはまだ使えない。滑り台も、半分しか見えない。そして先ほどから、人は誰も通らない。
午後6時になった。6時の音楽アナウンスが流れたので、私は時間に気がついたのだ。日はほとんど暮れかかっている。雪山と、上半分のブランコと滑り台と鉄棒のシルエットがオレンジ色に浮かんでいる。


なぜ、ここでよりにもよって、新世界なんか流すんだ。ばかやろう。
冷めかけた缶コーヒーと鼻水をすすって、今度は祖父母の家の前は通らずに帰る事にした。
駅の南側に戻ると、学生がたむろしていて、それを見るとほっとした。





私の住んでいるところの駅の北側から、20分ほど歩くと祖父母の家がある。










昼に起きて、ホットケーキの残りを焼いて食べ、掃除をしていると4時をまわっていた。外は晴れている。まだまだ明るい時間帯で、今のうちに外に出かけないと、後悔しそうな休日だった。ふきのとうは日に日にとうを立て始めている。家の目の前の公園は、やっとわき道以外の地面が露出して、学生たちがボールを蹴って遊んでいるのが窓から見える。ブランコに乗りたいと思ったが、ポールに固定されて、まだ使えないのが残念だ。外でいくつかの買出しがあることを思い出したので、スーパーには行かないといけない。スーパーはアンニュイで、駅前に昔からあるラルズも(そこの上のマンションには、25年近く前にいとこの一家が住んでいた)、もうひとつある別の小さな店も、わたしはあまり好きになれない。広さと明るさ、天井の高さが足りないからだ。
財布だけ持って外に出ると、思った以上に暖かい。4時半をすぎた陽光は、弱々しくもちゃんと雪を溶かしている。
もしかして、と思って家の裏へいく。樫の木の林がある。林をぬけても、森林公園の敷地なので、おそらく芝生や遊歩道があるはずで、もしかしたら歩けるかもしれない。
しかしながら、目の前の林にはしぶとく雪が固まっていて、突っ切ろうとすると靴が沈む。私は沈まずに歩く事、雪を踏むことだけに集中する。車の音も何も聞こえない。足の裏でくぐもった音しか耳に入らない。私は嬉しかった。パフ・ザ・マジック・ドラゴンのフレーズを繰り返し口ずさんで遊歩道まで出たが、残念ながら雪道は途切れていない。なので私は迂回して戻る。ちょうど近くに博物館かなにかの施設があって、閉館準備をしているところだった。警備員が外に1人だけいて、掲げていた国旗をするすると下げていた。その横を通り抜けた私も相手もお互い一瞥して道路に出ると、家の前に戻ってしまった。

もう少し歩きたいので、ちゃんと煙草や携帯電話もポケットに入れて、いつもと違う道で駅まで向かう。向かいながら、母親から電話が来たのでしゃべりながら歩く。目の前のトンネルは、駅の南から北へ自動車が通り抜ける為の道なのだが、ここを昔、いつもバスで通ったのを思い出す。12丁目のバス亭から、新札幌まで出ている懐かしいバス。大麻駅まで行くのにも利用していたが、なにしろ私が小さい頃の感覚なので、まさか歩いて20分で駅まで行けることには6年前まで気がつかなかった。それに引越しの際に地図を見た時に、意外と新札幌までも離れていないし、自転車があれば不便しない距離だという事にも驚いた。
この街は、意外と、小さい。
そういえば、札幌は大雪対策で、ちゃんと道路にはヒーティングが入っていて雪を溶かしてくれるんだよ、と祖父が教えてくれた。私が中学1年の冬に来たときだった。祖父の車に乗せてもらって、夜の遅い時間に新札幌から祖父母の家に向かう途中、ちょうど大麻駅のこのトンネルを通ったときに、その話をしてくれたはずだ。吹雪きと街頭のオレンジ色の灯りを覚えている。いや、もしかするとタクシーだったかもしれない。祖父は年齢を理由に、かなり昔に愛車を手放していたはずだから。でもそれは冬だった。冬に札幌を訪れたのは今まで3回だけで、96年の3月の、祖母が頭の手術をしたときと、99年の1月、私一人だけで遊びにいかせてくれたとき、あとは03年の3月、春休みに予備校の講習を受けに行ったときの、この3回。
私が一人で訪れた記憶があるので、おそらく99年。
トンネルの南側、つまり駅の南側は、実は今まであまり知らなかった。図書館や大学と、だだっ広い敷地があったことは覚えている。あと、昔あった南口の機関車のレストラン。その店は駅前のビルで今も営業している。
この文京台地区は、あまり住宅がひしめいている印象はなかったけど、実際は学生向けのアパートが多く、たまたま安い部屋が見つかったのだ。北口にはそういったアパートはほとんどない。
トンネルを歩いて抜けるのは、道が狭くて不便だったが、北に出ると、なつかしい団地群が目に飛び込んできた。
このあたりは団地がいくつもあった。駅前には茶色い屋根、2番通りに出ると赤と青の長い建物が並んでいる。しかし、いくつかは取り壊されたかもしれない。あまり入居しておらず、人の気配を感じなかった。そういえば文化会館もこのあたりにあったな、と、目の前を通りながら思う。

ここで私は迷った。道に迷ったのではない。