ごめんね、太郎

ある日、夫が寝言で、別な女の名前をつぶやいた。

「アイちゃん・・・・・」

妻は、愕然とした。真面目だけが取り柄の夫なのに。

 さて、この妻に真面目だと信じ込まれていた夫は、私の大学時代の友人の、山ノ内くんである。

山ノ内くんは、明くる朝、鬼と化した妻に詰め寄られた。

 アイちゃんって誰・・・・!?

 アイちゃんは、山ノ内くんが奥さんと結婚する前につきあっていたかわい子ちゃんだった。山ノ内くんは、アイちゃんに振られたはずみで結婚したのだ。本人は、断じて違うと言うが、私たち仲間うちでは、そう噂されていた。

 山ノ内くんは、咄嗟に嘘をついた。

 「ウチの田舎の方では・・・・・妻のことをアイちゃん、という愛称で呼ぶんだよ。」

 山ノ内くんは、東北の出身だった。山ノ内くんの奥さんは、コロッと騙された。

 「なあんだ。じゃあ、これからは私のことをアイちゃんって呼んで」

 山ノ内くんの奥さんは、昭和40年代生まれには珍しく、

貞子(サダコ)という名前である。

 常々、その名前の響きがかわいくない、となげいていたのだ。

 かくして、山ノ内くんは、奥さんのサダコさんのことを、昔の女の名前で呼ぶことを余儀なくされた。

 サダコさんに向かって、アイちゃん(正しくは、愛ちゃんである)と呼ぶたびに、山ノ内くんの胸は痛んだ。

 三日めでギブアップした山ノ内くんは、真実を述べ、しばらくは奥さんから口をきいてもらえなかったらしい。

 ハハハッと笑っていた私であるが、過去の暗い思い出が頭をもたげた。

 新しい恋人とデートしている時に、つい昔の恋人の名前で呼びかけてしまった。

 渋谷の街を並んで歩きながら「ジュンッ」と呼んで、

「しまった」と思ったが、もう遅かった。

 実家で飼っている犬の名前なの・・・と咄嗟に誤魔化した。

 本当は、うちの犬の名は、太郎だ。期せずして、彼とは長いつきあいになり、実家に連れ帰った時、家族全員で、犬の太郎をジュンと呼び、それ以来、太郎はジュンになってしまったのだった。ごめんね、太郎。