最近、何かの漫画のリード広告で、『いじめの被害者にいじめられる理由があっても、いじめていい理由にはならない』的な内容を目にして、ふと思ったことがあったので文字にしてみることにした。
いじめ被害者には本人にはコントロールできない不運な出来事で、いじめのターゲットになるのであろう。
自ら手を挙げて、いじめてほしいという人は少なくともいないと思う。
この、『本人にはコントロールできない不運な出来事』は、
①学校などの閉鎖環境
②家族機能不全の家庭で育った子がその集団にいる(家庭に居場所がない)
③些細な変化に気がつく大人(学校では教員)がいない
などの要因が土台となり、不運な出来事が起こることで、いじめの被害者と加害者が生まれるのではないだろうか。
例えば、小学生の時にいじめらていた被害者が、環境が変わって中学生になった時に加害者になる可能性は容易に想像できる。
まだまだ、子供なのだから。
それはしょうがないのかなとさえ思ってしまう。
もちろん、加害者になることなく、いじめの後遺症を抱えながら大人になっていく子供が大多数だとは思う。
ここで気になるのが、いじめの後遺症を抱えながら、大人になった人が大人を対象にいじめの加害者になる事例だ。
幼少期のいじめの後遺症を、少しずつ消化して大人になる。
会社などの集団に馴染めず、起業をした場合は従業員を雇うことになる。
ここに、社長と従業員という関係ができてしまう。
従業員という、『自分より弱い立場の人』をみつけてしまうのである。
この社長は、自分自身が従業員という立場を長く続けていけなかったからこそ従業員の立場が理解できない。
そして、会社での諸々のストレスをこの従業員にぶつけてしまうのである。
これこそ、いじめ被害者が加害者になる状況である。
本人はきっと、幼少期のいじめの経験が大人になって、人間関係に影響しているとは思っていないだろう。
なんなら、従業員とは良い関係だと思っている可能性が高い。
いじめているなんて全く思ってもいないであろう。
まぁ、こういう会社は長続きしないだろうし、成功もしづらいだろう。
いじめのきっかけは本人にはコントロールできない。
だからこそ、被害者から加害者になってしまったことを責めることもできない。
しかし、幼少期にいじめの被害者になったことがある人は、大人になった今、人間関係はどうだろうかと俯瞰する必要はある。
もしかしたら、私は加害者になってはいないだろうか。
幼少期に私をいじめていた子と、同じことを周囲にしていないだろうか。
俯瞰する。これだけでも全く違う結果になる。
知識と経験と想像力。
無知は罪。