大阪城に行ってきました!6 石山本願寺推定地(いしやまほんがんじすいていち)
大阪城に行ってきました!6 石山本願寺推定地(いしやまほんがんじすいていち)
豊国神社と修道院がある南側にある石山本願寺推定地の石碑
![$東大阪ストラット・パートⅢ~こちら国道308号線~中央大通でございます-石山本願寺(いしやまほんがんじ)](https://stat.ameba.jp/user_images/20091021/18/the-dark/77/3c/j/o0600080010282760369.jpg?caw=800)
埋め込んだグーグルマップ航空写真ではBの位置が石山本願寺推定地の石碑がある場所になります。
大きな地図で見る
(PCからご覧の方はBをクリックしますと、説明が表示されます。 スクロール、拡大、縮小が可能。)
![$東大阪ストラット・パートⅢ~こちら国道308号線~中央大通でございます-石山本願寺(いしやまほんがんじ)](https://stat.ameba.jp/user_images/20091021/18/the-dark/2b/c3/j/o0600045010282760774.jpg?caw=800)
![$東大阪ストラット・パートⅢ~こちら国道308号線~中央大通でございます-石山本願寺(いしやまほんがんじ)](https://stat.ameba.jp/user_images/20091021/18/the-dark/b9/82/j/o0600045010282760612.jpg?caw=800)
パネルにはこう書かれています・・・
『石山本願寺推定地
明応5年(1496)に本願寺8世蓮如が生玉庄の大坂坊舎を建立した。
これは現在のところ「大坂」の地名が資料上に現れる初例である。
『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、
当時は小堂であったと考えられる。
その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性がますとともに、
天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、
本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。
この造営が現在の大阪の街並みの原型となったと考えられる。
その後11世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、
石山本願寺を退去した本願寺教壇は 鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大阪城が建設される。
この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。
さらに大坂夏の陣ののちに徳川大阪城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。
このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実とされている。
大阪市教育委員会
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写真の瓦の説明にはこう書かれています・・・
石山本願寺期の出土瓦
大阪城京橋口北側での発掘調査で発見されたもの。
丸瓦のひとつには「永禄五天」(1562)の年号がみられる。』
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★この大阪城公園の歴史は、かなりドロドロとしたもので有名!?かどうかはわかりませんが、歴史をたどると、石山本願寺があったときには信長との石山合戦があり炎上・・・焼失・・・。
そして秀吉が石山本願寺跡を大規模な土木工事により、地形を変え、安土城よりも凄い大阪城を築城。
そして大坂夏の陣で徳川家康によって外壕を埋められた後裸城にされ、そして焼失し、豊臣時代の大阪城のものはすべて埋め尽くされ、現代の徳川大阪城が誕生。
現在では豊臣時代のものは石垣を含め、地上に残っているものは全くないそうでして・・・。
あくまでも、この石碑も「推定地」という風に名付けられていますが、これ以外はなにもないということで・・・とりあえずは大阪城にいった時のチェックポイントとして観光してみてはいかがでしょうか。
・・・といいますか、この場所にこんな石碑があったなんて、最近しりました・・・。
ほんと目立たない場所に、ひっそりと石碑がたててられています。
大阪城公園は地元の人間はよく行きますが、歴史通が喜ぶようなポントがどこにあるのかわからない人が多いんですよね・・・。
大阪城公園内には他にもこういったひっそりポイントがひっそりとあったりしますので、チェックポントでめぐるのもいいかもしれませんね。
豊国神社と修道院がある南側にある石山本願寺推定地の石碑
![$東大阪ストラット・パートⅢ~こちら国道308号線~中央大通でございます-石山本願寺(いしやまほんがんじ)](https://stat.ameba.jp/user_images/20091021/18/the-dark/77/3c/j/o0600080010282760369.jpg?caw=800)
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パネルにはこう書かれています・・・
『石山本願寺推定地
明応5年(1496)に本願寺8世蓮如が生玉庄の大坂坊舎を建立した。
これは現在のところ「大坂」の地名が資料上に現れる初例である。
『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、
当時は小堂であったと考えられる。
その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性がますとともに、
天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、
本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。
この造営が現在の大阪の街並みの原型となったと考えられる。
その後11世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、
石山本願寺を退去した本願寺教壇は 鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大阪城が建設される。
この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。
さらに大坂夏の陣ののちに徳川大阪城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。
このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実とされている。
大阪市教育委員会
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写真の瓦の説明にはこう書かれています・・・
石山本願寺期の出土瓦
大阪城京橋口北側での発掘調査で発見されたもの。
丸瓦のひとつには「永禄五天」(1562)の年号がみられる。』
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★この大阪城公園の歴史は、かなりドロドロとしたもので有名!?かどうかはわかりませんが、歴史をたどると、石山本願寺があったときには信長との石山合戦があり炎上・・・焼失・・・。
そして秀吉が石山本願寺跡を大規模な土木工事により、地形を変え、安土城よりも凄い大阪城を築城。
そして大坂夏の陣で徳川家康によって外壕を埋められた後裸城にされ、そして焼失し、豊臣時代の大阪城のものはすべて埋め尽くされ、現代の徳川大阪城が誕生。
現在では豊臣時代のものは石垣を含め、地上に残っているものは全くないそうでして・・・。
あくまでも、この石碑も「推定地」という風に名付けられていますが、これ以外はなにもないということで・・・とりあえずは大阪城にいった時のチェックポイントとして観光してみてはいかがでしょうか。
・・・といいますか、この場所にこんな石碑があったなんて、最近しりました・・・。
ほんと目立たない場所に、ひっそりと石碑がたててられています。
大阪城公園は地元の人間はよく行きますが、歴史通が喜ぶようなポントがどこにあるのかわからない人が多いんですよね・・・。
大阪城公園内には他にもこういったひっそりポイントがひっそりとあったりしますので、チェックポントでめぐるのもいいかもしれませんね。