日頃よく使われている用語を疑問に思うことは大切ですよね。


ということで、今回は「機会の平等」という言葉を取り上げます。


ここ数年間「機会の平等」という言葉が何度も使われましたが、はたしてその「機会の平等」とは何なのでしょうか?


ふだんは「機会の平等=資本主義・自由社会」、それに対して「結果の平等=社会主義・統制社会」と一般に認識されているようです。


ですが、これは誤りです。


「結果の平等=社会主義・統制社会」であることは間違いないのですが、「機会の平等=資本主義・自由社会」ではありません。


具体的に言うと、経済的な理由で大学教育を受けることができない家庭があったとします。それは「機会の平等」に反しますので、政府は奨学金の補助などの政策を実施しなくてはなりません。税金がたくさんかかります。


大学の学費はナントカなったとしても、塾や予備校の学費はどうするのでしょうか?

現在のような塾や予備校中心の受験戦争のなかで、その学費を払える家庭と払えない家庭で「教育機会の格差」が生まれてはいないでしょうか。格差があるならば、税金で「格差是正」をしなければなりません。


たとえば、目の見えない人が大学に行くことになった。

「機会の平等」は言うまでもなく健常者のみに適用されるものではないので、目の見えない人のために大学の設備を整えなければなりません。もちろん、税金がかかります。


ようするに、「機会の平等=自由な社会=小さな政府」という構図はウソっぱちで、本気で「機会の平等」を実現しようとするならば、政府は自然と「大きな政府」になってしまいます。


ヨーロッパの国々をみてみるとそれは明らかですよね。フランスなんて大学は基本的に無料ですし、障害者が街でフツーに生活できるようになるためには膨大な税金がかかるのです。


「機会の平等」は響きのよい言葉であるだけに、使用するときに注意しなければなりません。