あーちゃんの成長日記

あーちゃんの成長日記

ブログを始めた頃から、妊娠した?って予感がしてました。
去年怪我をして、2度手術して以来、仕事は辞めて専業主婦に。
旦那とは、同棲2年後に結婚し、結婚2年目です。
今は幸せを感じながら、家で安静に楽しく過ごす為にブログでも書いて過ごしてます。

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父が前立腺癌の告知をされて3〜4年、ホルモン治療も直ぐに効かなくなり、抗ガン剤もこれが効かなかったら余命1年で諦めて欲しいと言われたみたい。


いつも、余命なんて…と励ましてはいたけど、確かに年のせいなのか疲れやすくなってきた父を見る度に心配だった。



もう、82歳だから…お医者さんにそう言われて、年だから死んでも仕方ないみたいな言い方されてるみたいで、それが悔しいみたいだった。


周りには90でも元気にしてる人だっていっぱいいるんだもんね。お医者さんは、若くして亡くなった人だっていっぱい知ってるから、80過ぎたら凄く長生きしてる方だし、高齢だから、治療とか薬の感受性が悪いとか、免疫力低いとか、知識があって、それを言いたいんだろうけど、父は見離されて、失望しかないと感じてる。いつも、調子がよくなると嬉しそうだったから。



父は足が限界というところまで仕事をして、9月19日に、入院するつもりで着替えなどの荷物を持って病院に行って、今日は検査だけと言われたけど、もう無理なんでお願いしますと言って入院したみたい。10月半ばには帰って、また仕事をするつもりで、受けていた仕事があった。



そんな中、娘が運動会の後、おたふく風邪だったりで父に1ヶ月ぶりに電話しようとしたら、母から電話で暫く入院してて、もう帰れないみたい。もう今月も危ないんだって言われたのよ…と聞かされた。


この夏休みも、父は杖をついて、坂道をのぼり、休みながら小学生になった孫娘をプールに連れてってくれたり、1時間以上掛かる遊園地まで車で連れてってくれて、休み休み、娘の写真を撮っては広い園内を一緒に回ってくれた。大分、歩くのがゆっくりで、立ってるのが大変らしく、直ぐに椅子が必要だったけど、ニコニコしていた。


帰り、広い駐車場に停めた車に娘が先に着く頃、前日にみんなで裏技のテレビ番組を見た中で、遠くに停めた車には、頭の上に両手をあげて、その両手を📡アンテナみたいに丸くして、前に車の鍵を持ちボタンを押すと、車からかなりの距離でもドアが開錠できるますという裏技を、ゆっくり歩いて遅れた父が、杖を足に挟んで両手をあげて、先に車に着いた私達に向かって、お茶目に笑いながらやってみせてくれた。

私の知っている、いつも忙しく仕事をしている父のイメージと違う、杖をついて弱々しい父が別人の様に見えたけれど、その笑顔はいつも通り優しく孫に向けられていて、車でじいじが見えてない娘に、ほら、昨日の裏技だよ!じいじがやったんだよ昨日の!…と、じいじがした事や、こんな人だったと何でも覚えていて欲しくて言いながら、とても不安になっていた。


疲れていても、孫娘が楽しそうにしているのが何よりで、次の休みに来た時は、○島に行ってみないとねと話していた。私も子供の頃によく父の夜釣りに、連れてってよ〜と一緒に行った島。

次に行けるだろうか、行けますように。


けれど、夏休みが終わって2ヶ月、

検査結果は、4ヶ月前の5月には大丈夫だったのに、リンパ節転移、骨、肝臓にも転移して肝臓は8割癌。お父さん、癌がもう転移してただろう夏休みに、疲れてただろうに色々有難う。


入院してからも、孫が来てるのに、どこにも連れてってあげれなくてごめんねと申し訳なさそうにしているので、旦那さんに明日でも娘を○島に連れてってもらうから大丈夫と言ったら、安心していた。


母から電話で話しを聞いた、10月半ばは、父が一旦退院の予定だったらしい。でも、尿閉塞になって、嘔吐して、落ち着いたら、腹水が溜まっていた。
1ヶ月近く入院している父に秋休みだからと、おたふくが治ったので娘を連れて帰った。父の足は私が出産前の時の様に物凄く浮腫んでいたが、父は余命2週間という感じではなく、トイレにもなんとか歩いて行っていたし、話しもできたし、
義母が数年前に同じ様に、腹水も酷くて亡くなった時の印象よりまだマシだった。

思ってたよりは、父も話せるし、少しは食べれて、ほっとしたけど、ただ怖かった。
死ぬって、どんな風に?苦しみながらだったらどうしよう、苦しくない訳もないし、父が本当に居なくなる事が受け入れられない。

父が、今まで入院した時は、食事が物足りないぐらいだったのに、今は、もう食べ切れない。。
ご飯も欲しくないから、素麺をちょっとぐらいね…と食べる。

父に最期が来てるとギリギリまで悟らせまい、父に少しでも恐怖や孤独や惨めさや痛みがありませんようにと、それを願う事しかできない。
私は、父が私が分からなくなっても、父が無反応になっても、側に居て最後の時間を私のこの先の一生分を一緒に過ごそうと思った。
こんなに意識だけハッキリしていて、父も病気の進行が分からずどうなるのか怖いと感じているのが伝わるのだけど、ただ無理やりでもなく、今生きて会える時間を大切にしたいと思ったら、明るく声もかけられた。

それから、毎日父に会いに病院に行っている。
まだ私が慌てて帰省し、病院に行った時には、歩行器につかまって、ゆっくりでも歩いてトイレに行っていた父。
まだ、自力で起き上がり、10月の仕事が気になっている父に携帯を貸すと、知り合いに電話して、頼まれてる仕事を代わりにやってくれと頼んで、それについて色々と教えて、テキパキと説明していた。本当にかっこよかった。
この人は、もう65年以上近く仕事をしてきたんだよね。父は長男だからと、兄弟や家族を背負ってきたんだなと改めて感じたし、責任感で、自分は親に頼られたから、自分の子には頼らず、ずっとみんなの為に仕事しかできないと頑張ってくれた人なんだ…父を一人の人として、尊敬し、今だから余計に父の人生を感じました。
父はだから、入院すると情け無い…とよく言っていた。
仕事出来なくて…私は、だから、父に寝たきりで生きる時間は殆ど無い、だから、父はギリギリまで仕事が出来て、情け無いと思う時間は少なくて良かった。全然、情けなくないんだけどね。

父が毎日病院に来る私に、大丈夫だよ、湿布も看護婦さんに言えば貼ってくれるから。。と困った様に言う。
私が居たら、逆に自分はもうダメなのかと思わせるよね…
お母さん(私)が居ないで大丈夫か?って、孫の事も気にしつつ、昨日、ベッドの下の奥にいったスリッパをトイレに行こうと、取ろうとしたら、床に座ってしまい、そのまま立てなくて…と、苦笑いの父。
いや、もうそれならドアのところまで転がって伸びてドアから手を出して、看護師さんか誰かに助けて〜って言ったら気付いてくれたよ〜と笑い合ったけど、つい数年前までの力強い父を思い出して、癌の怖さを知る。
翌日は夕食の後にベッドサイドに足を降ろして薬を飲もうと、腰掛けたまま、サイドテーブルの後ろの薬を取ろうとしたら、そのままベッドに横に倒れて、頭がベッドの反対側に落ちて反った体制のまま、1時間ぐらいそのままで死ぬかと思ったよ…と言うので、まさか…そんなに動けないの?!そんな目に合わせたくなかった…と、晩ご飯終わるまでは見て居ようと思ったり、急激に病気の進行を感じて、夜に病院から帰る時、月明かりだけの帰り道に父が居なくなるこの先がただ暗い夜道みたいに重なって感じて、助けてよ!と泣きながら月に叫んでいました。
病院で父のどんな姿も父が居るという安心感で涙が出ないのに、一歩外に出ると、もう直ぐ触れる事も出来なくなる。今はそれを考えずに、ただ母が心配しない様に心を落ち着けながら帰っていました。

それから、父は晩ご飯は殆ど食べれなくなり、
入院したら、いつもご飯は待ちきれなかったのになぁと寂しそうに不思議そうに言っていた。

私が帰ったばかりの時は、病状を聞いてない不安な父に何てごまかすか嘘もつけず、食べれなかったら危ないけど、食べてるなら大丈夫よって平然と言うと、豆腐の挽肉あんかけを口元に持っていって勧める私に、割といけると無理して食べた父に、ホッとしつつ、本当に奇跡がおこるんじゃないか?そう信じていたくなった。

相変わらず、夜は食べれない父が夜に少しは食べていた素麺も食べたくなくなり、口内炎が出来て…というので、マヌカハニーを持って行くと、不思議なぐらい治ると、帰り際にマヌカハニーだけスプーンで渡すと舐めて寝るので、私も見届けたら帰る日々。でも、血尿が出始め、時々それが治ったりを繰り返していた頃、このマヌカハニーで治ってる訳じゃないかな?と何でも信じたい気持ちになっていたけど、もう父もマヌカハニーは受け付けなくなった。
急に、にがい何かでも入れたかの様な表情で、もう無理強い出来ない…子供の頃は、私が食べれない分食べてって言うと、軽く食べきる父を思い出した。

なぜか、口に残るからとお茶や水より牛乳を好んだけど、お腹は空いても受け付けないから、なんか食べた気になる方が良かったのかもと思う。
口に残って満足できる物…明治のメイバランスのアイスを数口だけど、口元まで持って行くと、最後まで食べていた。

まだ、数時間目覚めていた頃は、病院から帰る頃、父にスマホを見せながら、娘とテレビ電話を毎日するようになった。
サーカスを観て、白いライオンのぬいぐるみを買ってもらっていた。
私も、昔、サーカスに連れてってもらったね。
丸い球体の中をバイクで走ってたよね。
あれは、どこだった?など、少し思い出話をしたり。

そして、父の動かせない腰になんとか湿布を貼って帰っていたけれど、湿布も要らなくなった。
暑がる父に、ベッドマットをエアマットに替えてくれた看護師さん、こんな腹水で80キロはありそうな父に色々として下さる、本当に凄く感謝。


父に、いつも帰りに、そろそろ帰るねと声をかけると、ありがとねと言ってた。
ある時、声をかけてもぼんやりで、イヤホンでテレビを観せたら、半分寝てる様だけど、麻薬でいつも寝てる事が増えた父に、また明日ね…と、そっと帰った翌日、私が帰る時間には、昨日は、言い忘れたとからとでも思ってた様に、父は言えるうちにと言っとかなきゃと言う感じで、ドアからまた明日、ゆっくり寝てね〜と言う私に、訴える様に、ありがとうと笑顔で手を振ってくれた。
殆ど喋れなくなっても、寝ない様に起きて見送ろうと手を振ってくれた父の人柄を感じていられた。この日のお父さんは、自分の最期を悟って、言える時に言おうと、私に感謝をみせてくれたんだと感じた。

10月が余命だった父と、まだ一緒に居られる。ただ、医療麻薬で寝てばかりになり、もう父らしさが殆どない。
でも、毎日、手を重ねて、お父さんと声をかけていたい。

何度も病院からの行きや帰りには、真っ暗な中、月に無性に叫びたくなった。涙が出ない日もない。でも、病室に着くと、今は会えるというのが嬉しい。病室で私は元気が出た。今日も会えたという安堵感。看護師さんの優しい笑顔。

でも、みんないつかは死ぬからと毎日繰り返して、自分に言いきかせる。私も死ぬ時が来るし、みんなそうなんだから。

病院に帰省して来た日に、父と母と病室で話して、こんなにいい親は居ない最高の親だよと私が言って、皆んなで笑ったけど、言える時に言えて良かった。

お父さんが覚悟出来ないと思ってたけど、私が覚悟する時間をくれてるの?お父さん、有難うと言ったら、お父さんが居なくなりそうで、言えないのよ。