第一章 バンコク病院
バンコク病院からの救急車は大幅に遅れて午後三時にやって来た。救急車での移動は結構きつかった。中は広々としているが、ストレッチャーに乗せられて体はバンドでキツく固定されている。全く会話の無い中、ツタンカーメンの様な姿勢で二時間耐えるのは苦痛だった。あとトイレも我慢しなければいけないので、途中で小便を耐えるのはツラかった。
バンコク病院は、航空会社であるバンコク・エアウェイズのグループ企業だ。歴とした営利企業で株式会社化されている。病院に投資とは、ちょっと理解に苦しむが、タイだとアリなんだろう。外務省のホームページにはバンコク病院は次のように紹介されていた。
タイで最も早く日本語診療を取り入れた総合病院で、日本人専用外来(Japanese Medical Service)では毎日、日本語を解する医師が診察を行っていて、救急患者のための年中無休24時間日本語電話サービスも有る。日系企業の定期健康診断も長年手がけている。高速道路の出口に近く、海外から受診する場合、空港からのアクセスが良好。
病院に到着後、まずエマージェンシールームに通された。土曜日の夕方ということもあるのか、パタヤメモリアルとは違い、だだっ広いブースの中に患者は私一人だ。
「カム、スペシャリスト」(専門家が来ます)
(スペシャリストねぇ・・・)
そう思い待っていると、レントゲンを手にしたメガネを掛けた古舘伊知郎似の奴が私に話しかけてきた。
「これはですね。開放骨折といいます。開放骨折で怖いのは、感染症と壊死ですね・・・」
私はひどく流暢に日本語が出来る通訳だなと思っていたら、それは整形外科医のP医師だった。
「それと、手のレントゲン見ました。これは・・・ワイヤーがちょっと長いですね」
ああ、なるほど。だからパタヤメモリアルは再手術させろとか言って来たんだなと思った。
「足の指、動きますか?うん、動くね。手の指、動きますか?うん、動くね。他に痛いところは無いですか?」
右足の痛みで他の痛みは感じないが、強いて言えば首筋が痛いのでレントゲンを撮って貰うことにした。ストレッチャーに乗せられてレントゲンを撮りに行ったのだが、バンコク病院の館内は広い広い。大人でも危うく迷子になりそうだ。そして個室に通されたのだが、個室がまた広い。リビングが一〇畳程で、シャワールームとトイレ付き。テレビは二五インチの液晶、冷蔵庫、電子レンジ、湯沸かしポット。下手をしたら高級ホテル並みだ。しかし、この設備は自分にとって全く無駄なものであったということは後で説明することにする。
ここで「ある事実」が判明した。私のことではなく、T社長のことだった。実は食中毒に感染していたのだ。タイに十年以上住んでいて、この様なことになるのも珍しいなと思う反面、その様な状況に有りながら、私のような者のために色々と駆けずり回って頂いた好意に涙の出る思いであった。私を助けたところでT社長は、行為は徳(タンブン)となるが、一円の得にも成らない。
紆余曲折あったものの今日も長い一日だったと、うつらうつらしている所にP医師がやって来た。
「首のレントゲンは異常なかったです。明日また詳しく見ましょう」
私は夢見心地で、眠りに着きたかったのだが病院はそうはさせてくれなかった。二時間おきに抗生物質を投与するために、看護婦が私のベッドの上にある照明を点灯させ、いちいち私を起こすのである。勘弁してほしかったが、寝たフリをしても私が完全に目を開けるまでは帰らない。検温と血圧測定もコマメに行われた。検温は耳の穴に突っ込むタイプの体温計であったが、消毒せずに誰彼構わず使うようなので、中耳炎にでもなったらどうするんだと思ったが、これもタイスタンダードなのであろう。
第九章 転院
その後、ガキの処分はどうなったか知る由も無いが、これが被害者ではなく加害者の立場だとゾッとする。速攻で逮捕拘束されて、裁判にかけられるわけだが、タイには日本で言う拘置所のような施設が無いらしい。要するに服役囚と未決囚がごっちゃに収監されるのだ。しかも、裁判にしても出頭した当日に検事が居なかったり、書類不備があったりとと、なかなか判決が出ない。検事に賄賂を渡して、審理スピードをあげてもらう容疑者もいるくらいだ。何故に判決を急ぐかというと、刑期が決定しない限りは国王恩赦の恩恵に与れないからである。日本と違い国王恩赦は四年ごとに何かと理由を付けて行われている。しかし、何でもかんでも恩赦になるわけではない。
パタヤで何かやらかすとチョンブリー刑務所に収監されるのだが、ここがまた劣悪な環境で、収容人員三五〇〇人の所五千人を無理矢理詰め込んでいるのは序の口である。特筆すべきことは、つい最近まで収監者は「足かせ」を装着していたことだ。足かせをはめた状態で、長いチェーンをズルズルと引きずりながらの生活を余儀なくされる。きれいな鎖は殺人犯で、それ以外の収監者は汚い鎖を装着するルールだ。この足かせを止めさせる運動の中心となった人物がよど号ハイジャック事件の田中義三というのは驚きだった。
しかしながら、刑務所に収監されるというのは最悪のケースであり、保釈金を用意すれば刑務所行きは免れる。金額は日本と違って高額では無く、交通事故程度なら十数万バーツといったところらしい。日本の任意保険では考えられないが、タイの自動車任意保険では保釈金の支給もオプションとなっている。
タクシン前首相が汚職の容疑で逮捕されたが、保釈金は八〇〇万バーツ(三千万円)と、田中角栄のロッキード事件での保釈金(三億円)と比べると著しく安い。因みに外国人だと相場の二倍増しらしい。何故なら、みんな保釈後に国外逃亡してしまうからだ。どうせ逃げられるなら保釈金を吹っかけて国庫に納入したほうがマシという考えなのだろうか・・・
国外退去や、ブラックリストという憂き目にあっても性懲りもなく再入国を敢行する猛者も少なくない。その代表的な人物と言えば、玉本敏雄氏をおいて他ならない。
時事速報2001年8月3日(金)第1便より抜粋
◎余生は静かにネパールで=十代女性との生活、反省の弁なく-玉本容疑者会見
[バンコク2日時事]タイ北部の古都チェンマイで1970年代前半、十代の現地妻11人と同居し、タイ政府から「公序良俗を害した」として永久国外追放処分を受けた和歌山県出身の玉本敏雄容疑者(67)は2日、出入国管理法違反容疑で収監中のバンコク市内の入国管理局収容センターで時事通信記者との単独会見に応じた。同容疑者は「かつて味わったマスコミの激しい取材は恨み骨髄。ほとぼりが冷めるまで帰国しない。」とした上で、「余生は、かつて旅行したネパールで静かに暮らしたい」などと心境を語った。
玉本容疑者は7月20日、氏名表記を変えた旅券でカンボジア側からタイに越境した際に出入国管理警察に逮捕された。同容疑者が日本のマスコミと会見したのはチェンマイ・ハーレム事件以来、約30年ぶり。
「タマモトさんですね」
との問い掛けに・銀縁眼鏡に白の下着姿の同容疑者は、
「ギョクモトです」
と自己紹介。足の踏み場もない多数の収容者の人いきれで蒸せ返る部屋の鉄格子越しに、これまでの経緯を笑顔を交えながら落ち着いた表情で説明した。
この中で同容疑者は、チェンマイ事件の際に所持していた旅券の氏名表記「タマモトトシオ」は旅行代理店のミスによるもので、本名は「ギョクモトハルオ」だと主張。日本外務省から88年9月にタイ政府の国外追放処分解除の通知を受け、その後何度も「タマモト」名義の旅券でタイに入国していたことを認めた。
同旅券の有効期限が切れたため、「ギョクモト」名義の旅券を新たに日本で取得し、90年代前半ごろからカンボジア北西部シェムレアプ近郊で十代の地元女性6人と半同せい生活。また、70年代後半から80年代後半にかけて、フィリピンでも10人以上の地元女性と共同生活していたことを明らかにした。この間、ほとんど帰国していないが、生活資金の出どころについては
「国税当局に知られるとまずいので話せない」
と説明を拒否した。
チェンマイで世話をした女性はわたしをポー(お父さん)と呼び、いずれも結婚して幸せな生活を送っている。カンボジアの女性らは今ごろ暮らしに困っているはず」。
玉本容疑者は終始悪びれたそぶりを見せなかったが、最後に
「しばらく日本に戻らない。マスコミの取材はまっぴら」
と語気を強めた。 (引用ここまで)
日本の常識からすると、とんだお笑いぐさであるが、読み方を変えれば全くの別人となれるようである。最近でも別人になりすました偽造パスポートでタイに入国し、パタヤで殺人事件を起こした奴もいるくらいだ。こういう所はタイならではのいい加減さが鼻につく。余談ではあるが、私は受験生時代、玉本さんの出身校である大阪経済大学からは不合格通知を頂いた。
「下の階には痛々しいファラン(白人)が大勢居ましたよ」
T社長は感慨深く言っていた。リタイアした白人には二種類居るらしく、金持ちの白人はプーケットやバリ島で余生を過ごすらしい。そして、金のない白人はパタヤの様な物価の安いところで、カツカツで日々を過ごすらしいのだ。私は今までは物価の安いパタヤを気に入っていたが、こういう交通事故の危険が多い所ならば、今一度考え直さなければと思った。今日まで事故に遭遇しなかった自分は運が良かっただけなのだ。
一刻も早くパタヤメモリアルを脱出したかったが、バンコク病院からの迎えの救急車からの連絡によると、渋滞で遅れるらしい。そんな最中、ヒマを持て余したT社長が
「写真、撮っておきましょうか・・・」
記念撮影も悪くないな。精神的には大分元気になっていたが、デジカメで写されて自分を見て唖然とした。顔面の左側はズル剥けになっていて、ミイラ男のようになっているのだ。
(生きてて、良かった)
自分としては意識があるし、骨が折れただけだという認識しか無かったので、大したこと無いと思っていたが、バラエティー番組のコントに出てくるような怪我人の様な様相だ。来る人が「ギョッ」とした顔になるわけだ。U姉さんも凄く哀れみを持った目で私を見るのか、その時理解した。T社長とお知り合いで本当に良かった。
「色々と、ありがとうございました」
私は再度、T社長にお礼の言葉を述べたが、意外に冷静な言葉が返ってきた。
「パタヤ編はここで終わりですな・・・」
そうだ。日本に帰国して完治させるまでは、この物語は終わらないのだ。でも、バンコクだと何とかなるだろうと楽観視していたが、それが甘い考えとなるのに気づくのは時間が掛からなかった。
第八章 加害者側の言い分
「いやあ、痛々しいですな」
待ちこがれたT社長が私の個室にやってきてくれたのは、事故から二日後の三月一五日の早朝だった。実はパタヤメモリアルは色々とキナ臭い所があるし、バンコクの方が良い治療が受けられるというT社長の提案があり、バンコクホスピタル(以下バンコク病院)に転院することになったのだ。
その提案を出すやいなや、パタヤメモリアルは傷口を再洗浄する必要があるので、もう一度再手術させろとか言ってきたらしく、私はパタヤメモリアルに更なる不信感を募らせた。通訳の居る都会の病院に転院することは私にとって断る理由は無く、願ったり適ったりだった。
という経緯があったので、無理矢理に再手術されまいかとT社長が来るまで結構不安だったのだ。再手術するにしても、タイの私立病院の中でもトップクラスに位置するバンコク病院の方がいいに決まっている。
しかし、また病院側と一悶着あった。病院の事務員がT社長にいきなり請求書を突きつけたのだ。金額は約九万バーツ(三〇万円)。保険適用の手続やってるのに、何で全然関係ないT社長がカネを請求されるんだと頭に来た。病院側は私の懐具合(現金八万バーツ、数枚のクレジットカード)を十分に認識しているのにフザけてるなと思った。ひょっとしたらT社長は外車に運転手付きで颯爽と病院に乗り込んできたので、あざとく見ていたのかも知れない。
T社長は請求を無論拒否。話によるとガキが乗っていた強制賠償保険の手続が面倒だから一気に現金で処理した方が楽だろうという内容だった。本当にタイらしいと苦笑せざるを得なかった。
「ま、病院としては手術してまず(売上として)一番オイシイところが食べれたので良かったんじゃ無いですか・・・それじゃあ警察に事故証明取りに行ってきますよ。」
ここからのT社長の行動が早かった。警察に行ってポリスレポートの取得と、ホテルに置いていた私の荷物の回収まで撤収作業を手早くしてくれたのであった。私のような人間にここまでして頂いて本当に言葉の尽くしようが無い。捨てる神有れば拾う神有りだが、この運を使ってどうやって事故を回避することが出来なかったのか、神は気まぐれだ。
一通りの事務手続を済ませてT社長と部屋で和んでいると、加害者一家がやって来た。本当に見るだけでもウザいし、何しに来たんやろうと憤懣やるせなく見ているとガキの母親が心配そうに
「サバイディーマイ?」(元気ですか?)
とか言ってきやがった。
(何が元気ですか?や、見たら判るやろ、何考えとんねん)
と思いながら、私は吐き捨てるように言ってやった
「マイ、サバーイ」(病気です)
ガキの母親は泣きそうな顔になっていたが、バイクに乗っていたガキ本人は未だにシブシブ病院に来たようなツラをしている。ガキにはガキの言い分があると思うのだが、無理な追い越しをしようとして、ノーブレーキで人間にぶつかったらアカンやろうと。反対車線に出て、人間じゃなく車だったらガキの方があの世行きなのである。オマエはバイクに二度と乗るなっちゅうに・・・
T社長が通訳してくれたが、ガキの母親の言い分はこうだ。
「強制賠償保険の範囲でしか賠償は出来ません」
こんなツマランこと言いにワザワザ来たのかと、血が煮えたぎる思いだが、当時の私はケガのことで相当ナーバスになっていたし、自分のクレジットカードの付帯保険で一応の治療費の問題はクリアーしていたので、どうでもエエワと思っていた。
(早よ帰れ、アホ)
そそくさと帰って行くのを見ながら毒づいていると、ガキの父親が私の個室の便所から出てきた。
(外の便所使えや、ボケ)
尿瓶でも投げつけてやろうと思ったが、タイだからということで怒りを収めた。
T社長の運転手は歴としたタイ人だが
「加害者のガキは日本人にぶつけてラッキーだったな」
ということらしい。貧乏なタイ人同士で事故になると、即休業補償や色々なことでかなりモメるらしい。こういった手合いは裁判所を利用することなく、警察官が仲裁に入るらしいのだが、それでも最終的には加害者側がカネを払わずにうやむやに終わるということが多い。こういった発展途上国での事故は「当てられ損」が当たり前だと思わなければいけない。後日、T社長宛にガキの母親から
「これから、パタヤ警察から電話が掛かってくると思うので、うちの息子を許すと言ってくれないか」
という内容の電話が掛かってきたらしい。T社長は
「とか何とか言ってきてますが、警察には何て言っときます?」
と、どうするか聞いてきた。私はこれを聞いて色々と考えた。ガキを警察に突き出しても私の怪我が治るわけではない。しかし、これをこのまま放置するとガキがまた同じ事をしでかす可能性が高い。ガキもよそ見していて落ち度がない訳じゃ無いが、ノーブレーキでで私の右足を粉々にしたのは「やり過ぎ」だと思った。放置しておくとガキ一家が
「日本人、訴えなかった、ラッキーラッキー」
とか廻りに吹聴しかねない。外国人相手だと、死なない程度の怪我なら「お咎め無し」だから安心だと、他の外国人にも累が及ぶ。事実、私が搬送されたパタヤメモリアルでは、救急部屋に担ぎ込まれていた奴は殆ど外国人だった。
私はT社長に
「タイの法律によって適正に処罰するように伝えてください」
そうパタヤ警察に伝えて頂いた。
