食器を洗っているときなんとなく考えたこと。自分はベクトルのようなものではないか、そう考えた。人は今ある地点にいる。人は何かをすることで(考えることで)他の地点へ移動する。その点と点の移動を繰り返すことが人が変容する様と同じに見えた。ある点目指して正しい移動を繰り返せば、目的の点に近づくことが出来る。しかし、どこを目指すかも明確にしなければ、今いる点から離れて成長することは難しい。なんとなくイメージは伝わっただろうか?ここまで人生がまるで点と点の移動を繰り替えすもののように話した。しかし、で、それがどうした?と思ってしまうものだ。僕はこの点と点の移動の話が限りなく人生に似ているように思い、逆に点と点の移動の話から生き方を学べないだろうかと思った。絵本で世界を百人が住む村と例えて実際にどれくらいの人が不憫な生活をしているかなどを分かりやすく説明しようとするものがあるようなのとと同じようにだ。点と点の移動は時として方向も違えば長さも違うものだ。ただ目的の点を目指してベクトルを向けようとしてもベクトルはなってほしい方向に向いてくれるものではないと思う。このことは自分が浪人時代心から感じた。一日出来る限り頑張ろうとしても思ったような成長を感じないまま終わっていった日がたくさんあった。そんな時大切なことは自分はどうしたらなってほしい方向の成長をするかを知ることだ。例えばカフェインを飲むのではなくしっかり寝ることが勉強の集中力を上げ、成果を出すことに役立つ、などだ。また少し目的とするものが変わるが、食器を洗わなければならない、しかしだるくてできないというとき、僕の場合風呂に入った後なぜか食器を洗うのを躊躇せずにできる。言わばこうしたらこういうなるということを知ることでベクトルを自分で操ることが出来るようになると思う。まあなんだかんだ書いたが、ベクトルという理論に囚われすぎてよくわからなくなってしまった。結局、色々考えてこれ新しい発見だなと思ったことは、自分がこうしたらこうなるということを知ることが大切じゃないかと思った。食器を洗うのは飯食った後だとめんどいけど風呂入った後だとなにも苦と感じることなく出来る。人生をベクトルに例えられる?そんな簡単な話あるかよ、例えたところでで強引な屁理屈だな、めんどくさい。