また悲しい事件が起きた。

 札幌で6/5に2才の女の子が衰弱死した。

 母親は21歳、交際相手の男は24歳だ。

 今年から二人は交際をはじめ、2月頃から夜中の0時~2時くらいまで女児の泣き叫ぶ声が聞こえたという。

 この事件では北海道警察と札幌市児童相談所の行き違いが取り沙汰されている。

 5月に道警は児相と連絡を取り、母子面談についての話し合いをしたが、児相としては『出席しない方がよい』と受け止め、道警としては『同伴を求めた』としている。

 食い違いの焦点は2つ。

 一つは、『母親が児相に不快感を示している』という情報を道警が示した事実に対して、児相側が『なら行かない方がよい』と解釈したこと。

 もう一つは『書面でのやり取りが無かった』ことである。

 これは日本語だから起きうる問題だとも言える。

 英語やビジネスの世界では文法上『結果から話始める』ことが求められる。しかし、日本語は文法上、『結果が最後になる』のだ。

 例を挙げると、
 英語では、
『私は子供が好きだ。(結果)なぜならば、子供は自由だからだ』となる。

 対して日本語では、
『私は子供が自由だと思う。だから、子供は好きだor嫌いだ』という理由が先で結果が後になる文法だ。

 そして、日本語の文化として『表現の曖昧さ』が挙げられる。

 例えば「結構です」は肯定にも否定にも使用できるという日本語独特の特異な表現の仕方だ。

 おそらく、道警としては最初に『母親は児相に不快感を示している』と話し、次に『その上で出席を検討してほしい』旨を伝えたのだと思う。

 そして、それを受け取った児相側は最初の事実と最後の曖昧な表現、また、多忙を極める担当者の思考の限界から、『児相は今回は欠席』に結び付いたのかも知れない。

 事実、児相は人手不足を以前から挙げているのと、それにより、通報から48時間以内の家庭訪問という2018年に政府から挙げられた対処に手が回っていない様子だ。

 ここに行政の不備が浮かび上がる。

 児相が悪い、道警が悪いの白黒思考ではなく、『子供の命を守る為には』という論点が必要であり、マスコミはこの論点を最初に挙げ、一貫したニュースを届けなければならない。

 ニュースには二種類ある。

 良いニュースと、そうでないニュースだ。

 良いニュースはなかなか続けて放送されない。例えば誰と誰が結婚したというニュースは一週間もトップニュースにはならない。しかし悪いニュースほど原因解明の為、新たな事実が現れる度にトップニュースに上がる。

 これは人間の本質によるものかも知れない。

 人間の本質の一角に『自己防衛反応』がある。

 これは自分にとって悪い出来事が起きた時に、副腎から抗ストレスホルモンのコルチゾールが分泌され、脳下垂体から『私の命を守りなさい』という指令が出る為だ。

 種の保存の法則から、子を守るという本能に反した行為に人は不快感の種を生じ、注意を向ける本質がある。

 特に日本は人口減が著しく、どの年代においても子供への認識が高い。

 しかし、虐待を行う人は、その時には子供よりも自らを守る傾向が高いように感じる。

 『子供が泣く→子供が心配』より、『子供が泣く→自分が不快』に重きをおいてしまう。そしてそれを『この子の為だ』と自分の正当性を置き換えて虐待に乗じる。

 次にそれが露呈した時、原因を他に転化する。『私は悪くない』と誰かを傷付けて自分を守ろうとする。

 そうやって負の連鎖は続く。

 この21歳の母親は不安定な印象を受ける。

 日本ではイジメを受けた子供に対するケアが盛んなのに対し、外国ではイジメをした側がカウンセリングを受けるという。

 イジメを受けた子供が、「あの子今不安定なようだから見てあげてね」という社会が形成されているという。

 悲しい事件が後を絶たない。

 虐待があってから対処するのでは遅い。

 虐待が起こらないような社会が望まれる。

 それには様々な課題が山積みであるが、まずは自分の思考の殻に閉じ籠るのではなく、どんな相手にも価値観を知り、認めて、繋がっていくことが大切なことなのではないかと思う。

 自分自身が、虐待を起こした母親を責める気持ちを一つ置いて、その母親の気持ちをまずは理解する。

 そして、敵対するのではなく、慈しみを持って接すれば、ほんの少しだけ、優しい世界が生まれるかも知れない。
 

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