去る1月、シリアでイスラム過激派組織ISISに拘束された湯川遥菜さんと後藤健二さんが同組織に殺害されました。実績あるジャーナリストとして知られていた後藤さんの拘束および殺害脅迫は国内のみならず海外の関係者にも衝撃を与え、「I AM KENJI」というメッセージをSNS上で拡散させる動きに加え、後藤さんがキリスト教徒だったこともあり、解放に向けた祈りの呼びかけもなされていましたが、ISISは同組織と対抗するアラブ諸国への支援を表明した日本政府を一方的に断罪し、無慈悲に両氏を殺害するに至りました。筆者としては、ISISの蛮行を非難するとともに、湯川さんのご家族に哀悼の意を表し、また後藤さんの魂が天国で安らぎ、ご遺族が守られるようにと祈ります。
 
さて、いまやISISに限らず多くのイスラム教過激派組織が乱立・活動しており、これらが国際ニュースを賑わせない日はないといっても過言ではなくなりました。同時に、東南アジア・中東地域の経済発展や日本企業との取引の進展に伴い、イスラム教・ムスリムとどう関与すればいいのかが、日本でも宗教者・ビジネス事業者の別を問わず関心事となりつつあります。
 
その反面、キリスト教徒がイスラム教徒とどのように向き合えばいいのかという議論については、国内では不十分の観が否めません。そこで自然とムスリム人口の伸長著しい欧米諸国に目を転じる必要が出てきますが、これらの国々でも警戒感を全面に押し出したムスリム排斥論と、「私たちは同じ神を信仰している」というような、教義をまるで無視した極端な融和論のいずれかに傾きがちで、両宗教の教典と史実を踏まえた冷静な議論はあまり見受けられないというのが筆者の感想です。さらには、国内のメディアや解説書では「イスラム教とユダヤ教、キリスト教はすべて同じ神を奉じている」といった、はなはだしい誤解と無知に基づいた見解も少なからず行き渡っています。
 
筆者は教職ではなく信仰歴10年余りの一信徒に過ぎませんが、これらを踏まえて、「キリスト教徒はイスラムとどう向き合うべきか」という思考の枠組みを組み立てていくのに有益と思われる背景情報を(相変わらず非常に遅々とした更新頻度となりますが)お分かちできればと思います。
 
キリスト教とイスラム教は同じ神を奉じているか
 
数年前になりますが、RickWarren師率いる米国のSaddleback Churchがイスラム教とキリスト教の神は同じと認めたと報じられましたが、Warren師自身は根拠のないこととしてすぐに否定しました。(ただし、ムスリムへの姿勢についてかなり不可解な言動を残していることは本ブログにて取り上げました。)また、オーストラリアのHillsong Church のリーダーBrian Houston師も同様に「私たちは同じ神に仕えている」と説教で発言し、その後「そのような(イスラムとキリスト教の神を同一視する)意図ではなかった」と釈明するに至っています。なお、米国のナショナル・カテドラルの司祭も、昨年11月に教会堂をイスラム礼拝のために提供した際に、イスラムとキリスト教の神は同じという趣旨の発言をし、こちらは取り消したという報道はなされていません。著名なキリスト教指導者だということが必ずしも聖書への忠実性を保証するものではないということはさておくとしても、このような「紛らわしい」発言の当否は聖書とコーランを精査することによって簡単に解決されるはずです。(穿った見方としては、政治的妥当性と表面上の融和のためにあえて白黒をつけずにいるとも考えられますが。)
 
そこで、両宗教が奉じる神格の違いについて検討してみます。
 
キリスト教
父なる神、子なる神であるイエスキリスト、聖霊(三位一体)を神格とします。聖書に直接「三位一体」という用語が登場するわけではありませんが、新約聖書の以下の記述から自然に導き出すことができます。
 
・イエス自身が自らを神の子と証言している(マタイ26:64・マルコ14:62・ルカ22:70
・イエスが、神を自らの「父」と呼んでいる(マタイ11:25-2626:3926:42、マルコ14:36、ルカ10:2122:4223:3423:46、ヨハネ11:4112:27-28および17章全体)
・イエスが天地創造の前から存在し、アブラハムやイザヤによっても知られていたとしてその神性を強調している(ヨハネ1:1-38:5812:41、コロサイ1:15-17
・聖霊は、処女マリアを身ごもらせ、また信者に啓示を与えたり信者を通して語ることができ(マタイ11:18-20、ルカ1:352:2612:12、マルコ13:11、ヨハネ14:26、使徒13:216:620:2321:11)、また悲しむことがあるなど人格的なものとされる(エペソ4:30)ほか、永遠の存在とされている(ヘブル9:14
 
さらに、旧約聖書にも、新約ほど明示的にではありませんが三位一体を暗喩するような記述があります。
・神を表す「エロヒム」は複数形である(創世記1:1
・「神の霊」が天地創造に際して登場する(創世記1:2
・悲しませることができるような人格的な「主の聖なる霊」が存在する(イザヤ63:10
・天地創造を行った神に「子」が存在することを示唆していること(箴言30:4
 
また、新約聖書の原語であるギリシア語にあたってみると興味深いことがわかります。出エジプト3:14で神は「私は『私はある』という者である」と名乗っていますが、これは旧約聖書のギリシャ語訳(70人訳)では「ego eimi」となります。この表現が、新約聖書でイエスが自らの存在を知らせるに際してそのまま使われているのです。(マタイ14:27ヨハネ6:20, 8:58,マルコ6:50
 
イスラム教
対してイスラム教では、「アッラー以外に神はいない」を主要な信仰告白(「シャハーダ」)のひとつとします。なお、コーランはイエスを預言者として認めるものの、イエスは神とは認められず、三位一体も否定されています。

・3:171「『三(位)』などと言ってはならない。」
・5:17「『アッラーはマリアム(マリヤ)の子メシアである。』と言う者は、不信仰な者である。」
・5:73「「アッラーは三(位)の一つである。」と言う者は、本当に不信心者である。唯―の神の外に神はないのである。」
・5:75「マルヤムの子マスィーフは、一人の使徒に過ぎない。」
・9:30「キリスト教徒はメシヤをアッラーの子であるという。・・・・昔の不信者の言葉を真似ているのだ。かれらにアッラーの呪いあれ。かれらはどれほど真理から迷い出たのだろう!」
・10:68-69「かれら(ユダヤ人、キリスト教徒、異教徒)は、『アッラーは一人の子(または、子ら)をもうけられた。』と言う。……『本当に、アッラーについて嘘を捏造する者は、決して成功しないであろう。』」
・17:111「アッラーに全ての誉れと感謝を。かれは子を持たない御方」
・19:88-89「キリスト教徒は『彼は子を設けられた。』と言った。…..確かにあなたがたは酷く邪悪なことを作りだした(言った)ものである。」
 
 以上から、コーランは明確にキリスト教が奉ずる神格を否定していることがわかります。もしキリスト教の神とイスラム教の神が同一と言うなら、神は二枚舌ということになります。そうでないなら、いずれかが偽りであるということになるのです。

今後、この点についてさらに詳しく考察していきたいと思います。