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中金堂 西の間 本尊西側に安置されていた八部衆像の内の四躰
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西金堂の本尊南側、一番後ろに安置されていた阿修羅像と迦楼羅像
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西金堂本尊北側、一番後ろに安置されていた八部衆の一躰と比定される像


 かなり長文になりましたが、森下和貴子氏による「興福寺曼荼羅図」研究史を紹介された論考の要旨を私なりにまとめさせてもらいました。 

 その中で最初に私がひっかかったのが毛利氏が、現存の十大弟子像、八部衆像と比較すると興福寺曼荼羅図は必ずしも正確に描写されているわけではないと指摘された事を紹介された件です。 

 それが厳密な写実でないところから生じた違いなのか治承の兵火以前の様子を表しているために生じた違いなのか判断がつきかねるのであると書かれていますが、この像については小林剛氏が発表された額安寺からの移入説が有ります。 
 当初、西金堂に安置されていたものが治承の兵火で焼失した後、額安寺の像が移入されたと考えた場合、この曼荼羅図が治承の兵火の前の状態を描写しているとすれば一致しなくて当たり前ではないかと思いました。

 現存の像と興福寺曼荼羅図に描かれたものを比較してみましたが、先に紹介した東金堂の文珠菩薩像のように似ているものはありませんでした。 

 また泉氏の説の紹介で鎌倉時代初期に人々の脳裏に刻みこまれていた兵火以前の景観を基本として復興後の景観も取り込みつつ制作されたという説も現存像を創建当初のものと考えると疑問です。
 もし現存像が治承の兵火で奇跡的に助かった当初からのものなら、鎌倉時代初期に、この曼荼羅図が描かれた時には興福寺に現存していたわけで、それと全くかけ離れた絵が描かれるはずはないと思えるからです。

 興福寺曼荼羅図に描かれた二組の八部衆像に注目すると、中金堂西の間の阿修羅像は三面四臂で左右の第一手は組んでいるように見え、その下の五部浄像が象頭人身で、五部浄像の横の迦楼羅像は鳥の冠を被っています。さらに、その下には頭光のある八部衆に比定される像が描かれています。

 一方、西金堂の阿修羅像は三面六臂で右第一手は胸の前に有りますが、左第一手は曲げて外に向けており、その横の迦楼羅像は鳥頭人身で両手を下に向けています。本尊の東側の八部衆の一躰と比定される像は現存像のどれにも該当しない容貌です。

 ごく一部の比較ですが興福寺曼荼羅図は、そこに描かれた二組の八部衆像をきっちり描き分けていて、かなり正確に特徴を捉えた描写だと思えます。 

 興福寺曼荼羅図は鎌倉時代初期に制作されたものかも知れませんが、その原本と言えるものは、それより早い時期に出来上がっていたと私は思っています。 

 興福寺の歴史を私なりに整理しながら、まずは興福寺曼荼羅図の原本が制作された背景を推理して行きたいと思います。