近畿大学教授、大脇潔氏の基調講演の後、奈良大学教授、東野治之氏による「文献史料から見た中宮寺」という基調講演が有りました。 

 東野氏の基調講演のために用意された資料は2ページで、最初のページは上段にテーマごとにまとめた要旨を載せられ、下段に、その根拠になる史料の原文を載せておられます。 

 その要旨の部分を僕なりに紹介させてもらいます。

 まず、中宮寺の創建に関する伝承として「法隆寺資財帳」にある、戊午年(推古六年、598年)以前に法華経・勝曼経を講じた賞として受けた水田の一部を寄進したという記事と、「聖徳太子伝暦」にある推古二十九年(621)12月以降に、太子の生母孔王部間人女王の死後、其の宮を寺としたという記事を紹介されています。 

 東野氏の後に基調講演をされた奈良大学名誉教授の水野正好氏は皇后の別称である中宮という言葉に注目され、それが寺名の由来ではないかと話されましたが、東野氏は、資料の中で推古朝に中宮=皇后の用語が存在したか疑問で、天武朝まで皇后は「大后」である。 
 「中宮」はナカミヤという意味で献納宝物の墨書銘には「中寺」という略称もあり、上宮(カミヤ)、葦垣宮、岡本宮、鵤宮の中にあるため「中宮寺」というと記された「聖徳太子伝私記」上巻裏書の説を紹介されています。

 次に太子建立寺院としての中宮寺というタイトルで各史料に載せられている聖徳太子建立寺院の明細を整理しておられます。 

「法王帝説」 
元興寺と四天王寺だけという説と、四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺、池後寺、葛木寺という説が載せられている。 

「法隆寺資財帳」 
四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺、池後寺、葛城寺 

「七代記」
四天王寺、法隆寺、法興寺、菩提寺、蜂岡寺、法起寺、妙安寺、定林寺 

「延暦僧録」
四天王寺、法隆寺、皇后寺、橘寺、妙安寺、大官寺、般若寺 

「補闕記」
元興寺、四天王寺、(法隆寺)、中宮寺、橘寺、蜂丘寺、池後寺、葛木寺 

「聖徳太子伝暦」
四天王寺、法隆寺、法興寺、法起寺、妙安寺、定林寺

 この中で、「七代記」(771年成立)は法興寺=鵤尼寺と注記しており、「伝暦」の法興寺も中宮寺を指すと考えられる。 

 法興寺(飛鳥寺)は平城遷都にともない「元興寺」と改称したという太田博太郎氏の説を紹介し、かわって中宮寺が法号として「法興寺」を使用したのではないかと考えておられます。

 また本来の法号は確認出来ずと書かれています。 

 次に創建の伽藍について四天王寺式配置である事を書かれ、法隆寺東院絵殿の聖徳太子絵伝(1069年、現在は献納宝物)に法興寺での無遮大会の情景を描いているが、本当は法興寺(飛鳥寺)の事なのに絵伝が書かれた頃には中宮寺が法興寺と呼ばれていたために誤って中宮寺の伽藍が描かれた事の指摘が有りました。