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西大寺の四王堂に安置されている四天王像は、天平神護元年(765)に鋳造されたと「西大寺資財流記帳」の縁起部分に書かれていますが、当初の四天王像は、今年5月に書かせてもらった「西大寺の平安時代初期の変遷」で推理した貞観二年(860)の大火災で罹災し、多聞天像は位置が幸いして火に焼かれながら原形を留め、他の三天の天部は溶解してしまったと考えています。
(現存する四体の邪鬼で、多聞天像の邪鬼が一番、損傷が少なく原形を留めている事が、それを証明してくれているように思います。)

多聞天像以外の三天の天部は、同じく5月に書かせてもらった「西大寺 増長天像について」で推論を述べさせてもらいましたが、元慶四年(880)頃に再鋳されたと考えています。
多聞天像は、焼損が少なく原形を留めていたので、そのままの姿で残されたと想像出来ます。 
(西大寺には、創建当初の多聞天像の天部のものと考えられる残片が伝えられています)

では、多聞天像の当初の天部が失われ、木造で補作されたのは、いつでしょうか? 

昭和8年に刊行された「西大寺大鏡」では、文亀二年(1502)の兵火で四王堂が焼失した時、多聞天像の天部が失われ、木造で補作されたと述べられています。 
この説は「奈良六大寺大観」の解説なども同様で定説化しているようで私も、そうだと信じていました。 

しかし、最近、もっと西大寺の事を調べようと思って読んだ江戸時代に書かれた林宗甫の「大和名所記」の中に、それを否定する記述を見つけました。 

四王堂(ここでは観音堂と呼ばれています)に関する記述で、本尊の丈六の観音立像と四天王について文亀年中の炎上で御堂は煙となったが、これらの尊像は焼けずに残ったと記されています。 

「大和名所記」は、延宝九年(1681)の刊行で、文亀二年からは180年ほど経っていますが、旧記に記載と明示されているので、根拠になる史料が有った可能性が高いと思います。 

多聞天像の天部が文亀二年の兵火で失われたという記録は無いようですから、「西大寺大鏡」以来、今日まで根拠の無い説が定説化してきた事になります。 

何故、そのようになったかを考えると、恐らく文亀二年の兵火で失われた事以外の理由が考えられなかったからだと思います。 

しかし、最近、地震の事を調べていると、奈良の寺院も、長い歴史の中で地震による被害を多々受けている事が分かります。 

多聞天像は、興正菩薩叡尊の存命中は、作り変えた記録が無いので、正応三年(1290)から文亀二年(1502)の有る時期に倒壊したと僕は考えています。 

他の三体の天部は、再鋳された後は火災に遭っていませんでしたが、多聞天像は貞観二年の火災で火を受けていた事も有り、脆くなっていたので地震の時に持ち堪えられなかったと想像しています。 

今、宇佐美龍夫氏の「新編 日本被害地震総覧」の紹介をさせてもらっていますが、その記載からは、1361年8月の地震か1494年の地震の可能性が高く、1494年の地震では西大寺が破損した記録も有るようなので、この時に倒壊し、文亀二年までには木造で補作されたと考えるのが一番自然かなと思っています。