少年期
終戦となり私の家族は東京に戻った。
東に荒川放水路(現在の荒川)が低い堤防の先に河川敷があり広く流れていた。江東区の東南の角で
南にも堤防がありその先は埋め立てが少しされ入り江のようになっていた。

家は都営住宅で北の道路から4軒長屋が3戸で南に5列に配置されていた。全部で60世帯であった。
各列の間には細い通路があり、戸と戸の間も通路がありその中心に共同水道があった。
我が家は東南の角で東に道路がありその先は畑や用水路があった。

私の上に2歳違いの兄と6歳違いの弟がいた。
2歳違いの兄にくっついてよく遊んだ。

つづく


序章

私は昭和16年12月18日(1941年)に東京都江東区砂町銀座の近くで生まれた。

正に太平洋洋戦争が始まり10日後であった。この時期に腹を大きくし出産をした母親の心中はどれほどのものであったろうか?母から聞いたこともない。


やがて戦火は激しくなり防空頭巾をかぶり防空壕に逃げ込んだ記憶がある。

そして疎開をする事になった。疎開先は母の実家のある(福島県相馬中村)から少し山間の廃屋に近い所であった。


ある時母親と町まで食料を買い出しに行った時右方向の空から左方向に真っ黒な戦闘機(B29)が編隊を組んで轟音と共に飛んで来た、母と私は傍の空堀に身を潜めた。


やがて終戦となり母の実家に居候することになって弟が生まれた。


地元の小学校に入る前に近くに住んでいた一つ上の女の子に性的関係を迫られ彼女の家でその行為をしていた。と言っても幼児のこと大人の性交とは全く違うもので局部をあてがう程度のものであったろう。

そんな事をしていた時にざわざわと玄関で子供たちの声がした、彼女の兄とその友達だった。私と彼女はお尻を出したまま押入れに逃げ込んだが時遅く見つかってしまった。その後皆に馬鹿にされ罵られて5歳児ながら「俺はもう駄目だと思った」


やがて地元の小学校に入学し1学期までいた。

担当は女性教師でヒステリックな記憶がある。


ある時腹の具合が悪くなかなか言い出せずギリギリのところでトイレに行くことを決意しそれを伝えトイレに向った。

だが時遅く廊下で漏らしてしまったそれも大便であるーーああ何たることかまたまた皆に馬鹿にされる殊になった。


そんなこんなで早くここから東京に逃げ帰りたっかった。

やっと東京に帰ることができホッとした。

この時私の潜在意識に深く逃避行動が刻み込まれた。


つづく


風邪が治り通常の生活に戻った。

病院のボランティア活動も再開した。

連休明けで外来には患者が一杯だ!


2週間前から始めた移動図書が僕の担当で病棟の談話

ロビーに書架を動かして入院患者さんに利用してもらうのであるが、さっぱり集まらない。

4階で3人、5,6階は利用者なし。


暇なので1階に下りて外来案内を手伝う。

外来案内は2月からやっているので手慣れたもので

患者さんのお世話をしたり会話をしたりで楽しい。


時々上階に様子を見に行く。ボランティアはエレベーターは利用できないので階段を使う、これがなかなかいい運動になる。


明日はテニススクールに行く日だ少しでもレベルアップして10月の大会に臨みたい。