フィクションの拘束力の強さ。 

 

東京・駿河台に、山の上ホテル、というホテルがある。クラッシックな建物と内装で、文化人になったような気分にさせてくれる。事実著名な作家も滞在したようで、「文化人のホテル」というあだ名もついていた。 

加納も憧れて一度泊まったことがある。 

 

ところが困ったことに、いつの頃か、ホテル自身が「文化人のホテル」と自称しはじめた。 

加納が泊まったときは、ホテル内のパンフや備え付けの鉛筆に「文化人のホテル」と刷り込んであった。 

これには大いに幻滅した。 

「自分で言わんといてえな。」と情けない気持ちになった。 

 

これは、ホテル自身が「文化人のホテル」というフィクションに拘束されたということだと、いま思う。 

 

中央線の高円寺は、住居として人気の高い街だが、その駅前商店街を舞台に、作家ねじめ正一が『高円寺純情商店街』という小説を書いて直木賞を受賞した。 

ところがこれも山の上ホテル同様、商店街自身が、アーケードの入り口に堂々と「高円寺純情商店街」と掲げたのには、驚いた。 

 

中央線から見える大きな文字は、フィクションの強さを感じさせた。 

 

昔、NHKで「シルクロード」というルポ・ドキュメントがあり、なかなかの人気番組だった。これまで多くの日本人が疎かった、シルクロードに関する知識を注入された人も多かったに違いない。 

人気の大きな要素は、喜太郎というシンセサイザー奏者の音楽だった。 

この音楽はとても耳に残る。 

初めて見るシルクロードの景色と喜太郎の音楽が、一体となって記憶している人も多い。 

 

だが情けない現象が生れた。 

番組に影響されて現地を旅した若者たちが、ヘッドフォンでこの音楽を聴きながら、旅していたというのだ。 

アホか、と思った。 

いくら一体となって記憶しているといっても、せっかく現地に着いて、その地の空気や、温度、匂い、風を感じているだろうに、日本の家のテレビの前で感じた感動をそのまま持ち込むなんて、本アホだと思った。 

 

本当のシルクロードを旅してもなお、フィクションの「シルクロード」の拘束力から逃げられないのだな、と思った。 

 

加納自身も、情けない経験をしている。 

 

一度だけロンドンにいったとき、 

むろんお上りさんの観光気分満載で歩き回るわけだが、 

そのときの最大テーマが、ビッグベン(時計台)の写真を撮ることだった。 

 

その理由は簡単で、小六の頃にだれかにもらったビッグベンのジグゾー・パズルで、何年も何年も繰り返し遊んでいた、というアホみたいな理由だった。 

歩きまわりながら、その時すでに、ああ情けない、情けない、と自覚していたのだから、始末に負えない。 

 

 

フィクションってのは、強力な影響力をもち、人を拘束するのだなと、いまつくづく思う。