再び、おいおい、研究倫理の専門家だと? | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

今朝、例の小保方さんいじめに関するテレビ放送を見ていたら、倫理とは何かを全く理解していないことを丸出しでインタビューに応じている東京大学特任教授の上昌弘と言う、自称研究倫理の専門家なる者が、とんでもないことを言っておりました。

この人、多分今まで研究など一度もやったことが無く、人の書いた論文や本を読むだけのお勉強をして来だけだと言うことが、研究生活をして来た者には見え見えのことを言っていたのです。

「科学の世界では、自分の出して来たデータに手を加えて自分の主張を如何に分り易く、また意味のあるものに見せることは、捏造とされる。データーには何の手も加えずそのまま見せなくてはならないことが、科学者の総意となっている。」

てなこと言っていました。この言葉は如何にも口当たりが良いのですが、事なかれ主義の最たるものです。

データーをただ並べられたって、だから何なのだと言うことは、経験を積んだ科学者でも解りません。そんなこと、
一度でも研究をしたことがある人なら余りにも当たり前なことなのです。研究発表や論文では、自分が言いたい主張が解るようにデーターの提示の仕方に様々な工夫をするのです。その工夫を怠ると、相手に理解してもらえないどころか、誤解すらされてしまうからです。この工夫の善し悪しで、論文や発表の質の善し悪しが決まってしまうと言っても過言ではありません。

多くの科学の偉大な成果は、実は今までそれを皆が見ていたのに誰も気が付かなかったようなところに物事の本質が隠れていたことを示すような仕事です。要するに、得られたデーターをただ単に羅列しただけでは皆が見逃してしまうから、今まで発見が出来なかったのです。そのデーターの中に潜んでいて皆が見逃していた物を、分り易く意味のあるように見せるようにデーターの提示を工夫する、それによって、皆もそんな見方があったのかと驚き、納得するのです。

例えば、観測で得られた生の数値を羅列しただけでは何のことだか判らないときに、その数値の対数を取った物に変える。所謂対数目盛りの提示、あるいは両対数目盛りによる提示なんて言う形でデーターに手を加えることは普通に行われています。

あるいは、色々の雑音が入っているデーター全体をそのまま見せたのでは本質が見えないときには、その中で重要だとその研究者には思われる特別な一部だけをこちらの意志で選び出し、他の部分は
本質的でない雑音であろうとして、そこが目立たないように工夫する。

あるいは、その研究者には本質的な部分と思えるのにデーターの中で余りに小さいピークなので見逃してしまいそうな部分を、人為的に拡大して針小棒大に提示して見せる。

もちろんそんなデーターの操作で、逆に本質的な部分が落されてしまうことだってあります。そんな場合、果たして本質が落されてしまったか、いや、その操作の結果本質が見えるようになって来たのか、そんなことが科学者の間で論争の対象になります。そのデーターの処理が好ましい物であることもあり、間違った結論に導くこともある。でも、間違っていたからと言って、それを咎める科学者はおりません。何故なら、そんな失敗を繰り返しながら科学は進歩して来たからです。また、その見方が間違っていたと言うことが明らかになったことは、科学の重要な進歩でもあるからです。

だから、このようにデーターの適切な処理を提案出来るかどうかは、研究活動の重要な部分です。そんなことを捏造と言い出したら、所謂「角を矯めて牛を殺す」ことになり、科学の進歩なぞ望めません。別の言い方をすれば、データーを何らかの基準にそって処理することが、科学論文や発表の本質であることを理解していない者がいたら、その人は、研究などしたことがないと白状していることと同じなのです。

こんな、研究の営みの基本が判っていない者が研究倫理の専門家だとは、開いた口が塞がりません。

科学者って大学受験で成功したかしないかで成れるものではないことを、この東大特任教授の上某とやらが見事に皆に教えてくれていますね。
大学受験で成功した者はお勉強に長けているので、他人が出した結果を理解することは人より早く要領が良いのですが、逆にお勉強で手に入れた知識に邪魔されて、どこにも書いていないようなことを自分で見付け出す能力に関しては、多分、一般の人たちより劣っているのではないかと言うのが、私が長年の研究生活で巡り会って来た所謂学者さんたちから得て来た印象です。東大出のノーベル賞受賞者が少ないのなんてのも、その現れの一つ何じゃないでしょうか。

数が少ないばかりではありません。例えば、長崎大学では下村修さんがノーベル化学賞を戴いておりますが、ノーベル受賞者の数を、その大学に今までに税金から注ぎ込まれたお金で割ったら、多分東大のその値は長崎大学のその値に比べて数千倍小さいのではないかしら。いや、一万倍違っても私は驚きません。別な言い方をすると、東京大学出身者の科学者は長崎大学出身者よりも数千倍劣っていると言うこともできます。

皆さん、何故東大に入りたがるのか。私の知り合いが、

「もちろん、うまい汁を吸いたいからでしょ。」

と言っておりました。その通り。東大出の御用学者たちは
、他の優れた研究者たちに比べて、余程うまい汁を吸っているんですね。