科学的後進性と技術的先進性、そして、小保方さんいじめ | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

今回の小保方さんいじめを見ていると、また福島原発大惨事のときのように、所謂専門家達の出鱈目さ、無能さ、そして、日本人の科学的後進性が白日の下に晒されております。

当たり前なことですが、科学の本質は形式がどうのこうのと言うのではなく、新たな事実を発見することと、出来ることならその事実を合理的に説明することです。なのに、

・マッチポンプと言う常套手段でスキャンダルを起こし、それで金儲けをしようと言うゴマのハエのマスコミ、

・論文に書かれている新事実よりも、博士論文や投稿論文の形式がどうの、写真の使い回しがこうのと言う所謂識者たち、

自分たちの保身が優先してマスコミに断固とした態度も取れず、結果的にマスコミのいじめに加担する理化学研究所や早稲田大学の幹部たち、

マスコミの倫理感覚欠如を糾弾できないにもかかわらず、研究倫理に関する専門家と呼ばれている東大の教授、

等々、どれもこれも、目も当てられないような出鱈目さです。

そんな出鱈目な科学的後進性のために一人のひとの人生が潰されて行くのを見ていると忍びないです。

自他共に認められている技術大国、技術先進国であるはずの日本なのに、この科学的後進性をどう理解したら良いのでしょうか。

前から気付いていたのですが、今回のいじめを見て改めて補強されたことがあります。この日本人の技術的先進性は所謂専門家と呼ばれるエリート達によって成し遂げられた訳ではなく、理屈よりも事実を大切にする一般庶民の日本独特な性癖の成せる賜物だと言うことです。

言い古されていることですが、物作りに強い日本の底力は日本の中小企業に支えられています。決して、官僚による国の指導でもなく、大学や公機関や大企業の研究所の研究成果でもありません。

日本が理屈や理念よりも技術を重んじる国になれた遠因を探るには、矢張り日本の歴史の特殊性が何処にあったのかを探る必要があると思います。

源平の台頭以降日本は約千年に渡って、御簾の中の貴族すなわち官僚によって支配されて来たのではなく、天幕すなわち幕府の中の武士による軍事政権によって支配されて来ました。
筆を持つ官僚は理屈を重んじます。しかし、武器を持つ軍人は技術を重んじる。この歴史的な重みが日本人の心の隅々までしみ込んでいる。理屈と技術の間の思い入れの違いは、千年以上に渡って官僚に支配されて来た中国や朝鮮と、軍人によって支配されて来た日本の違いを見れば一目瞭然でしょう。官僚組織は不平等を、そして幕府制と言う軍事組織は平等をもたらしました。

また、技術は失敗すると怪我人が出ます。ですから、技術を進歩させるためには緻密さや慎重さが要求され、出来るだけ失敗を避けようとする。それが日本人の性格を形作って来たようにも思えます。一方、新しい世界や理念を見付け出し、あるいは創出しようと言うのが科学ですから、科学では失敗を怖れずに新しいことを主張する勇気がいる。大袈裟に言うと、科学では積極的に失敗をすることで、希にある成功例としての新しい世界を見付け出して来た。科学にはそんな歴史が在ります。世界的に最も権威のあるネイチャー誌やサイエンス誌に投稿された論文のうち、半数近くが後にそれが誤りであったとの統計が出ているそうです。このように、失敗の中から科学的進歩が生まれて来ているのです。それにもかかわらず、技術大国日本では、失敗を怖れるあまり創造性の芽を摘んで来た歴史が在るようです。

ある意味、近年になって西洋から教わるまで、あるいは思い知らされるまで、日本人は理念に重きを置く科学的思考の重要性に気が付かなかった。だから技術的先進性があるにもかかわらず未だに科学的思考が未熟であり、そのことに関して西洋の後塵を拝しているのが現状のようです。

今度の小保方さんいじめ事件で、日本が日本たる所以は、エリートや所謂専門家達ではなく、地に這いつくばって生きている中小企業に代表される庶民に依っていることを改めて思い致しました。