立春(2月4日)が過ぎても暖かくならない。だから昔の暦はズレている、という説明を聞かされることがあります。立春が過ぎてからの寒さが実にキツイ。寄る年波の成果?!!!
体の中ではしかし、春の準備が始まっているのであって、始まりである立春と盛春とはズレているのが当たり前。冬の前半(小寒・大寒)に使い果たした前夏のエネルギーは立春の頃使い果たしているのではないでしょうか。そして新春を迎え立春以降、体は春の準備を始めている……。と考えると生活のパターンすら変更を迫られるように思います。
体力・免疫力が底をついていると覚悟をするべきです。無理は禁物です。坎に相当する季節は休むためにあるのだ、ぐらいに考えて丁度良いのではないでしょうか。
休むことは日々の活躍のための最低必要条件のはず。なのになおざりにされている理由はどこにあるのでしょう。体は強ばり、あちこちぎくしゃく。そのような状態でも、気づくこと無く走り続ける現代人の毎日、お疲れさまです。
太極拳は日々弛まない練功を求めます。だからこそ、無理をしないリラックスした状態を求めるのです。これから春を迎える準備としてまず、リラックスして体の声を聴く練習を心がけましょう。布団の中でイメージ練習。コタツの中で手の纏糸。お風呂に入って、呼吸法……。工夫次第で太極拳は体にどこまでも優しく練功できる余地があるに違いありません。
それぞれの生活パターンに応じて、た・ゆ・ま・ぬ、練功が健康維持の一助になると心得ましょう。
太極拳は武術です。
だから人格を問題にはしません。
僕が指導している教室では特に他の習い事と一緒にすることも問題にしてはいません。
合気道を習っていらっしゃる方もおいでになりますし、
他門の太極拳をやっていらっしゃる方もいます。

なによりも太極拳を学びたいと思って下さることが貴重だと考えるからです。
でも、時々勘違いされる方もおいでになるようで、
そのような人を見ると悲しいやら、情けないやらで心の落ち着きどころを見失いそうになります。

太極拳は焦って学んでもよい功を成すことは適いません。
なので、忙しければ強度を下げて練功を続けることを進めるようにしています。
時間がないという生徒さんには休息を優先するようにと指導してきました。
だからといって、空いた時間を使って別の習い事をしたいのだけど、
などと相談されてしまうと途方に暮れる他ありません。

僕のところの太極拳が不満であるならそれはそれで仕方がないことでしょう。
僕はいつも精一杯やっているのであって、だからこそ仕方がありません。
なお自分が至らないのですから。
でも他の習い事を僕が承認するとか、勧めるということとなると
話がまったく違うはずです。
太極拳よりも他の習い事が優れていると認めるのですから、
それを僕がしてしまうなら、僕は一体何物なのでしょうか?

合気道の方が優れていますよ、等と言いながら太極拳をやり続けるのですか?
それは一体どんなメンタリティでしょう?
様々な習い事に動機はそれぞれに違いありません。ですから、
その動機に僕はとやかく言いたくはないのです。
好きずきです。

でも僕に他の習い事を勧めさせるということが持つ意味を考えてみれば、
それがどれほど酷いことかわからないのでしょうか。
「もういい」で済ませることなのでしょうか?
知らずにそんな相談をしたのなら、
「話がややこしくなって疲れました」などと話を打ち切るようなことは
武術以前に人間として、
失礼なことではないのでしょうか。
少なくとも自分が蒔いた種なのですから、
問題をそのまま放置する姿勢はいかがなものだろうかと思わざるを得ません。

以前、某国から帰国された方に、
「こんな太極拳を習いたいのではないよ」等と絶叫された以上のショックを
受けました。
それを習いたいのであれば、
なぜ今太極拳を習っている必要がありますか?
人格を問わない太極拳であれ、しかし、
太極拳が無礼を許しているわけではないことを再確認することができたのは
良かったことです。

少なくとも、最初の相談があってから、忍耐を尽くして
言葉を柔らかにして来たにもかかわらず、
しつこく自分の動機を主張し続け、
自分の失礼さを省みない態度は生徒として相応しいものだとは思えません。
どうか願わくは他の先生に対して同じことをしていらっしゃらないことを祈るのみです。

あ~あ。本当に人間は恐い。
武術をやっていても未だ上手に失礼な人に応じることには困難を覚えます。
どうぞ、先生に対して他の何かを認めさせるような物言いをすることはありませんように。それは極めて失礼なことですから。

今更、という気もしますが、
東京大学にはなぜか太極拳のサークルがありませんでした。
とっても不思議な縁があって、(その話はまた別の機会に)
そして今年から2名の学生を得てサークル活動を開始することができました。
^^
まだ未公認の小サークルです。練習する場所も与えられていませんので、
キャンパス内の建物の陰で密やかに套路を踏んでいます。
(この所雨の日が多く、
屋根のあるアドミニストレータ棟が正門の右手にあって便利に使っています。)
7時から練習を始めます。
既に習得状況に差が出てきているので、
個人練習と全体套路とを組み合わせています。
サークルへの参加資格は特にありませんし、
サークル入会義務すらありません。
そんなことはサークルとして自治能力が出てきてから考えようと思っています。

さしあたっての目標はサークルのメンバー二人が套路を覚えることです。
でも、練功の為にはもっとメンバーが必要です。
そして秋の駒場祭にエントリーできたら嬉しいなと。
冬には合宿できたら嬉しいな。
来年の春には新勧できるといいな。
まぁ、ぼちぼちと……。
*** 記 ***
大体、毎週月曜日午後7時~駒場キャンパス内のどこかでやっています。
是非覗きにおいで下さい。

数年前から個人的に、周囲の厚意を受けつつ、
フィリピン(比国)に住む貧困家族を支援して参りました。

この度、支援の中心であった長女(ジリアン)と次女(カレン)が政府側から因縁をつけられて投獄され、(比国ではそのような理不尽が頻繁にあるとも聞きます。)
特に長女は就学・就労不適格の行政処分が降りたそうです。
もはや彼女にはまともに就職する道がないことを意味します。

さらに、数日前母親の意識が喪失して入院、そのまま帰らぬ人となったそうです。
母親の入院中、次男(ルエル)が家族を残して失踪。
今まで鬼畜を続けている元父親が子どもたちを引き取ることになったようです。
(この父親は10年以上前に、DVの末、別の女性と出ていき、家を捨てました。)
しかし、比国には離婚制度がありませんので、現在でも彼は父親としての
すべての法的権利を保有しています。

これで完全に崩壊です。
子どもたちは全員強制的に苦界に沈むことになるでしょう。
※ 苦界といってもそれは比国の日常に過ぎません。

金銭的支援も精神的支援も全く無力でした。
支援の為の知恵の言葉は、文化・社会のバイアスによって曲解されることになり、
機能不全を起こしました。

比国に於ける人間の尊厳は、消費能力にかかっているように思えます。
消費する能力がなければ、つまりは人間として扱われないことを意味します。
日本人の支援者を秘匿すれば、貧困者は存在理由を喪失します。
日本人の支援者を告知すれば、貧困者の価値は高まります。
そしてむしり取られるのです。
無料で得れたものは有料化し、支払い能力によって高額になっていきます。
病気になれば、医者にかかることが存在理由であり、
それができなければ、投獄などを含む社会的制裁を受けるそうです。

消費能力で人間の価値を決定するシステムはある意味、
収入の多寡で物事を判断する日本経済にも通じた価値観であるようにも思えます。
社会の要求によって自らの欲望を「必要」という言葉で表現するような文飾で
正当化するプロセスにも日本と比国では程度の差しか見えません。

自らの無力さと向き合いながら、
自分自身をなじりながら、
一人パソコンの前でパスタを食べました。
カレーで味を付けたはずでしたが、
それは苦いだけの味しかしませんでした。
比国の現在が日本の未来とならないことを祈りつつ。
昨夜19:00からは鷺宮で練習会がありました。
練習会では混元内功、24式套路そして推手を復習します。

推手を採用している太極拳教室は日本では余り見かけません。
そして絶えず想定しなければならない、生徒さんからの質問は
太極拳で一体どうやって戦うのですか?
ということでしょう。
この問いに真面目に答えるなら、
戦わずに逃げなさい」ということになります。
自分の方が有利であるという判断に十分な根拠を得る事はできないからです
どんな武術、格闘技に熟達していても、
相手の方が強いということを想定しないなら、
それはもはや実戦技術ではありません。
人間の力は相対的・微細なものなのです。

それでも「どのように対峙するのか」という問いは残ります。
これに答えるかどうかは老師の判断に任されるでしょう。
結果として日本では套路練習がメインになっています。

確かに結果的には、套路練習が一番効果があるという意見に同意します。
それでも、実戦のイメージには応える必要があるように思うのです。

そこで、ふぁんそん太極会では推手練習を採用しました。
技術にこだわらず、勝ち負けにこだわらず、
二人が対になって、推手というゲームをする。
これがとても実戦形式に近いものになっています。

* ルール
対戦相手と両腕を組み合わせます。
推したり引いたりして、相手を動かす事を目指します。
相手を一定距離動かせば勝ちです。
相撲と似たルールですね。
但し、打ち込みや関節技、投げ技は使いません。

内功が未熟だと力の強い人に勝つ事ができません
* 結局は功がある方が強いという伝統的な答えに行き着きます。
* でも、原理が異なることを見落としてはいけません。
* 太極拳の力の原理と、外家系統の力の原理は異なります。

でも力づくの人は内功がある人に勝つ事ができません
* 内功によって肉体的な格差を制御することができるように思います。

内功があっても、まったくの素人さんに勝つ事は難しいのです
* うっかりすると生徒さんを飛ばしてしまいます。それで怪我をされては困るのです。

同じような内功のレベルの人たち同士で練習すれば一番上達が早いでしょう。

昨夜の練習会では、
生徒さんたちは楽しそうにこのゲームをやっていました。
指導者としては、内功と技術を問われる修羅場になります。

このゲームのような推手を通じて、
少しでも太極拳の武術的意味を分かってもらえると
練功の励みになるでしょうし、結果として功を得るのではないでしょうか。
武術として練功するからこそ健康効果も高まるものだからです。

そしてこの試みは、僕にとっても大きな挑戦です。