今日のブログは前半です。


24歳の時、母はもうすぐ50歳になる

手前で亡くなった。

49歳だった。

母は股関節が悪かった。

自分が生まれる時に足を引っ張られて

股関節が外れた事がきっかけだった。

大人になってタイミングを見て

何度か手術をしていて

人工股関節がうまっていた。


私は3番目。末っ子。

予定外の子どもだった。

一姫二太郎の逆ではあったけど、

兄貴と姉貴の男と女を産んでいたから

もういいって思ってたけど、

父が3人欲しいとかなんとかで

私を宿った。

母は相当悩んだらしい。

私を産んだらもう歩けなくなるかもしれないと

医者から言われていたからだ。

考えて悩んで出した答えは

産む事だった。

私を産んで、なおかつその後手術も

すると決めた母だった。


1986/1

2600gで産まれた私。

3番目だから育児はいい意味で適当。

私の性格は、甘えん坊。上2人を見て育つ

。あまり親に怒られない。泣き虫。

自我強め。兄弟喧嘩弱い。兄貴姉貴が好き。


幼稚園の年少あたりに母は

股関節の手術をして

長い入院生活の時があった。

私と姉は保育園だったから

おばあちゃんち生活に。

おばあちゃんち生活のある日の夜

寂しくなって年長の姉と夜寝る前に

窓を開けて

おかーさーん!おかーさーん!!

さみしいよー!!

と叫んだ記憶があります。

それだけお母さんは私の大事な人。

母の弟(叔父)はそれを見て

母親には勝てないなと思ったそう。

↑この時は母親絶対!


競泳が得意だった。泳ぐのが好きだった。

誰よりも早かった。と思う。

頭悪い代わりに運動神経が良かった。

けど、ヨーイドンが嫌いだった私。

徒競走、リレーとか嫌いだった。

ひょんな事から

小学校3年生の時、飛び込みに出会った。

本格的に飛び込みに変えた。


母は可能な限り応援に来てくれた。

応援団長。

飛び込みは日本人口が少なくて

県でも同じ歳の子がいないから

男のコーチと2人で行く大会は心細かったから

来れる時は来てくれたんだと思う。

来れない時は本当に寂しかったな。

日本人工少ない分、いろんな県の大会に行った。

合宿にも行った。


いつからだったかな、、

だんだん母とすれ違うようになったのは。

私がやりたいと言ってから高校三年生までは

続けると約束して始めた飛び込み。

個人競技だから全て自己責任。

いい事も辛い事もそう全て。


小学校高学年に上がり、

思春期を迎えた私。

男のコーチが嫌すぎて何もない時は無言。

嫌々と思いながら続けていた飛び込み。

飛び込みの事、コーチの事

必死で母に相談するも、

結局は高3まで続ける約束したから

で突っぱねられた。

私にはそう感じた。

母はそうじゃなかったかもしれない。

私の気持ちなんてどうでもいいんだ。

母を遠く感じた瞬間だった。


そんな気持ちで飛び込み続けても

中途半端な成績ばかり。

シーズン終われば超嬉しくて

練習をサボったり、仮病使って

いかない事も増えた。

高校は一応飛び込み推薦でコーチのいる

千葉の高校を受けた。

コーチは高校の体育教師をやっていた。

一応受かった。

ラッキー。私頭が相当悪かったから。

ずるいでしょ?笑

飛び込みはやりたくないのに

高校は一般でうけるのも

面倒臭いから推薦でいくってゆー。

ずるいやつ。


前半完。


マッチはうまい‼️特に缶‼️