降参峰☆ | げむおた街道をゆく

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永禄9年(1566年)8月24日、

佐竹義重は、大関高増の持ちかけた、義重の弟・義尚が那須家の家督を継ぐという策に乗り、
重臣佐竹義堅(東義堅)を大将として、那須家討伐の兵を下野に派遣した。

 

佐竹軍は佐竹義堅の軍勢2000に加えて宇都宮家からの援兵1000、

更に大関ら上那須衆300の総勢3300に対して、
大関の引き抜き工作などで伊王野・蘆野など有力な国衆にも離反された那須家は、

総動員を掛けても兵が集まらない。

佐竹勢は茂木城、千本城を順調に落とし、那須家の本拠である烏山城に迫る。
上那須衆も烏山城の事はよく知っているので彼らの情報で、

佐竹軍は的確に防御に穴のある烏山城の西側に布陣した。

一方で、那須家はなんとか集めた兵で反撃の機会を伺っていた。

もう烏山の目前まで兵が迫っている事もあり背水の陣である。

 

烏山のすぐ西の治武内山へと向かって南から佐竹勢、西から宇都宮勢、

北から上那須衆が三隊に分かれて進軍していたが、
那須勢はまず兵数の少ない上那須衆に標的を定め出馬した。

 

動きを察知された上那須衆は佐竹・宇都宮と急ぎ合流しようと南下し、

那須軍出馬の報告を受けた佐竹義堅も宇都宮勢に上那須衆との合流を急がせたが、
那須の動きは速く、上那須衆は合流前に高瀬の地で那須軍に捕捉されてしまう。

追いつかれてはやむなしと上那須衆も応戦したが、

4倍の敵相手に何の策もなく勝つのは無理であった。

 

しばらくすると宇都宮勢もようやく追いついたが既に上那須勢は崩れており少々遅かった。

今度は那須の軍勢が宇都宮勢に襲いかかる。
宇都宮勢ももちろん反撃しようとしたが、敗走してくる上那須の兵などが逃げこむと、

どうにも士気が上がらない上にむしろ混乱が生じた。

 

結果として決死の那須の兵の攻撃を支えきれずついには宇都宮勢も敗走した。

場面は変わって治武内山を制圧した佐竹義堅は、

そこで高瀬の戦いで上那須衆・宇都宮が敗走した報告を受けるが、
それがまた混乱を呼んだ。
なんと、

「大関の家紋の軍勢が那須側に寝返って敗走する宇都宮を追撃し、

今度はこちらに向かってきている。」
というのである。

 

この報告、実は大関家が一枚岩では無く大関家を乗っ取った高増をよく思わない、

本来の大関の一門が那須軍に参加していただけだったのであるが、

これがまた佐竹軍の戦意を萎えさせた。

義堅も備えを固めて那須の軍勢を迎え撃ったが、

ここを抜かれればもう後がない那須軍は反撃されても突撃を繰り返した。

 

だんだんと日が落ちて暗くなるにつれて、

元々士気の高くなかった佐竹軍も那須軍の度重なる突撃に不安に駆られ始める。

 

「敵の数は我が方の倍らしい。」

「宇都宮は既に敗れて撫で斬りにされた。」

など根も葉もない噂が飛び交い出すと、いよいよ統率がままならなくなってきた。

勝手に戦線を離脱する者なども出始める始末で、これでは戦にならない。

 

義堅は家臣の大窪秀光の、

「ここは一度退いて再起を図るべし。」

との進言を受け入れて、

撤退を始めた。・・・が、判断が遅かったらしい。
この頃には義堅も周りには馬廻や旗本など数百程度しか付いておらず、

これを見た那須家臣千本資俊の執拗な追撃を食らった。

そしてついに義堅は烏山城の南の千束台という場所で、

千本資俊に完全に包囲されてしまう。

もう護衛は20人程度しか居なかった。

 

資俊は和議を持ちかけ、

「ここで降服して軍をまとめて常陸に帰って頂けるなら命は取らない。」

と義堅に宣言する。

 

もう戦っても勝ち目は無い上に、総大将が討たれた佐竹軍が追撃を喰らえば、

被害はより深刻なものとなる事は明らかなので、

義堅も提案を受け入れて降伏する他はなかった。

以後、この地は『降参峰』という佐竹軍にとって不名誉な名で、

地元民に呼ばれるようになった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ でれすけ・佐竹義重、目次

 
 

 

 

 

 

 

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