岩瀬 忠震(いわせ ただなり)は、江戸時代後期の幕臣、外交官である。列強との折衝に尽力し、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された[1]。維新後に正五位を贈られた。島崎藤村の「夜明け前」にも登場する。
ー 生涯 -
旗本・設楽貞丈の三男で、麻田藩主青木一貫の曾孫、宇和島藩主伊達村年の玄孫であり、男系で伊達政宗の子孫にあたる。母は林述斎(林家の大学頭)の娘で、おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいる。岩瀬忠正の養子となり、岩瀬家の家督を継いだ。
嘉永7年(1854年)、老中首座・阿部正弘にその才能を見出されて目付に任じられ、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。その後も外国奉行にまで出世し、安政2年(1855年)に来航したロシアのプチャーチンと全権として交渉し日露和親条約締結に臨んだ。
安政5年(1858年)にはアメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、日米修好通商条約に井上清直と共に署名するなど、開国に積極的な外交官であった。ハリスは、「井上、岩瀬の諸全権は綿密に逐条の是非を論究して余を閉口せしめることありき。…懸かる全権を得たりしは日本の幸福なりき。彼の全権等は日本の為に偉功ある人々なりき」と、後に当時の交渉のことを書き残している。
幕府は条約で決められた神奈川に代わり、対岸の横浜村[2]に開港場を設けることとしたが、忠震は条約の文言を重視して神奈川開港を主張した[3]。
同年、13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で徳川慶喜(一橋徳川家当主)を支持する一橋派に属し、大老となった井伊直弼が反対派や一橋派の排斥を行う安政の大獄で作事奉行に左遷された。安政6年(1859年)には蟄居を命じられ、江戸向島の岐雲園で書画の生活に専念した。文久元年(1861年)、44歳で失意のうちに病死した。
墓所は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園。横浜市と新城市に顕彰碑がある。
後年[いつ?]、イギリス側で日英修好通商条約の交渉に当たった際の忠震の写真が発見された。この写真は、平成20年(2008年)に横浜開港資料館が借り受け、条約の資料とともに公開された[4]。
以上、Wikiより。