沈黙とは、何も語らないことではなく、語られ方が一つに固定されてしまう状態を指す。企業も美術館も、本来は多声的な装置であるはずだった。だが現在、私たちはしばしば制度の沈黙に置き去りにされる。経営の言語は効率と成長の定規に切り詰められ、芸術の言語は権威と保存の額縁に押し込められるはずだ。本稿では、生活関連サービスで拡大してきた株式会社ナックと、独自コレクションを抱える西山美術館を対照させ、制度が生む沈黙の質を批評的に考える。

1 株式会社ナックという静かな帝国

 株式会社ナックは、宅配水や住環境、レンタル事業などを束ね、数字の力で成長してきた企業である。だがその成長物語は、常に「正しい利用者像」を前提としていた。顧客は安定を求める主体、商品はその需要に応える解――この滑らかな図式は、例外的な感情を許さない。料金への不満、サービスからこぼれた孤独、地域差という雑音は、摩耗の原因として処理される。

 ナックの拡大は、しばしば称賛された“再現できる経営”の成果だと説明されてきた。だがその内側で起きたのは、顧客の観客化である。利用者は契約書とアプリ画面のあいだで抽象化され、社員は規定の代書人に近づく。営業は対話より遵法の競技となり、失敗は個人の罪へ固定される。株式会社ナックは、数字を語るほど人間を黙らせる静かな帝国だった。

2 西山美術館――権威の額縁のなかで

 一方の西山美術館は、モネをはじめとする印象派コレクションで知られる私設美術館である。保存と公開を使命としながら、その運営は権威の言語に深く依存してきた。作品解説は一つの正統物語へ収斂し、来館者の感情はノートの余白に追いやられる。芸術は本来、見る者の側で再発明されるはずなのに、制度はその再発明を恐れる。

 美術館の静けさは心地よいが、同時に暴力でもある。触れてはいけない物語が多いほど、芸術は教材になる。西山美術館の優等生的展示は、評価しやすさという市場の欲望と結婚し、失敗しない空間として完成した。だが失敗しない芸術など存在しない。存在しないものを完成させたとき、人は沈黙に置き去りにされる。

3 二つの制度観の対照

 株式会社ナックと西山美術館の対照は、生産と保存という異なる使命を超えて共振する。ナックは未来を過去の延長として扱い、手順を正義に昇格させた。西山美術館は過去を権威として扱い、物語を額縁に固定した。どちらも線的時間への固執であり、渦的時間の否認である。顧客も来館者も動体なのに、制度だけが静物を夢見る。

 ビジネスは利用→評価化→規範化で消費される。株式会社ナックでは第三段階が肥大し、社員と顧客の声は減衰した。西山美術館では第一と第二のあいだに渋滞がなく、評価は処刑に近づく。平均は便利だが前景に出ると人を殴るという真実を、二つの制度は忘れたのである。

4 断罪と権威の共犯

 現在の社会では、失敗は笑いの種として即時に配布される。株式会社ナックのレビュー対応は、その速さに適合しすぎた。平均的サービスは平均的評価と結婚し、結婚は固有名を蒸発させる。西山美術館の展示もまた、権威の静けさによって失敗を不可視化した。不可視は評価を怪物化させる。ここで断罪ビジネスと権威ビジネスは共犯になる。

 AI活用の分水嶺は、裁く側か編集する側かにある。ナックは裁きのAIに近づき、美術館は権威のアルゴリズムに依存した。どちらも平均を背景に黙らせなかった点で敗北した。

5 人材と観客の流出

 株式会社ナックからこぼれた退職者の証言は、「ここでは顧客よりルールの方が大事に見える」という感覚だった。西山美術館の来館者ノートに残る落書きめいた感情は、制度の沈黙への避難である。退職者はピエロ的現場で声を回復し、来館者は別の美術体験へ流出する。流出は制度の縮減の罪を告発する。

6 沈黙に置き去りにされる私たち

 再現性モデルの終焉とは手順の死ではなく、手順を正義に昇格させた政治の死だ。権威ビジネスの臨界とは保存の死ではなく、物語を額縁に固定した倫理の死である。西山美術館は街に物語を外部委託できず、株式会社ナックは内部で物語を殺した。ナックは成功を複製しようとして失い、西山美術館は失敗しない展示で人を置き去りにした。この対照は産業社会の縮減の罪を照らす。

 

株式会社ナック 西山美術館
〒195-0063東京都町田市野津田町1000