今年の半ばには70と6年の人生が経過する。最近とみに脳の劣化を感じるようになった。このままではさすがにヤバイと思い、サビつかないうちに健脳対策を始めることにした。

 

年を経るに従って自らを含めた凡人は頭脳を使わなくなるようだ。その結果、頭脳は徐々に衰えていくという。

そうなると、世の中のあらゆる動きや進化発展に対しては徐々に鈍感となり、喜怒哀楽への感情は減退する。それ故、ある意味生きていく上では楽になるかも知れない。しかし死の間際までクリアーに且つ精一杯人生を謳歌したいと願う私には、そのような人生の後半は可能な限り避けて通りたい。

 

そこで一念発起して取り入れたのが、頭脳劣化防止に最も効果的と思われる数学の学習である。

もっとも、良質の頭脳を持ち合わせていれば別としても、この年の凡人が如何に"一念発起"と言えど、現代の進化した数学を受け入れ得るはずはない。

 

スタートは小学4年生の算数から、つまり「足し算・引き算」からである。

さすがに4年、5年、6年の学習はスムーズに経過した。

そして、小学校の終わりには100マス計算にじっくりと挑戦!

100マス計算は難易度というより、まさに反応の衰えとの格闘であった。集中できた時とそうでなかつた時との差が顕著に現れるのである。つまり、年を取るという事はこういうことかと痛切に実感する時でもあった。

 

そして、中学「数学」への進学である。

我が事ながら、健気にも上に進むことができた喜びは大きかった。

方程式、関数、平方根、図形、グラフ等々、はるか昔に教わった記憶がかすかながら呼び起こされては来たが、数学の教え方、理解の仕方は相当進化していることが認識され戸惑いと共に驚きもあった。

 

現在は、後2〜3項目消化すると形の上では中学を卒業できるところまで到達した。

学生時代にあれほど苦痛だった「勉強」が、今「健脳」という明確な目的のもとに、時間に束縛されることなく自由な学習に取り組んでいると、楽しさと充実感に満たされている。

ここまでの学習では、幸いに理解不能の局面には遭遇していないが、これで様々な答案に100%の回答が可能なのかと言えばそれはまず難しいと思う。

しかしチャレンジしてみたいという欲求を持てたことは収穫かも知れない。

 

この先トラウマとなっている「高校数学」の挫折にも、可能ならチャレンジしてみたいし、これが「健脳」という最大の目的にも合致すれば最高である。

我が国の未来を考えた時、私には特段に恐れることが2つある。

一つは異常気象に伴う『食糧事情悪化』であり、今一つは『巨大地震勃発による原発災害』である。

 

異常気象による田畑の被災は、年々苛烈化する状況から見ても相当長期にわたって発生することは疑えない。したがって現在は食料輸出国となっている国々であっても、この先大きく減収するのは避けられないし、如何に生計の為とは言えそのような状況の下では、他国の為に輸出する余裕等持てる筈はない。

 

食料自給率が世界的に見ても極端に低く、主要食材の大部分を輸入に頼る我が国を眺めると、まるで食の宝庫の如き風潮が蔓延している。

世界を見渡すと異常気象による破滅的な災害は例外なく至る所で発生している。

 

これらの映像を眺めて我が国の人々は何も気づかないのか?

何か対策が必要ではないのかと考えないのか?

それとももう遅いと諦めるのか?

 

『食糧事情悪化』は近未来に必ずやって来る。

今手を拱(こまね)いていると、この災禍は忽ちあなた方の小や孫の身に降り掛かって来るのである。

 

次なる恐れは『巨大地震発生による原発災害』である。

幸せで平穏な一日となる筈の元旦、この日がこれ程悲惨な修羅の場と化す等と一体誰が想像出来ただろうか?

自然の怒りは人の想定するところをはるかに凌駕している。この災禍を「想定外」等と平然と言い放つ人間のなんと愚かな言いぐさか。

 

我が国の古代からの歴史を真摯に学べば、想像を絶する巨大な地震が幾度となく発生していることが分かる。北海道から九州の南端まで、至る所にその痕跡が見て取れる。政府べったりの似非学者は別として、真実の探求者である古代史家や地質学者に問えば、このような事実は数多く存在するのである。

 

それらのことから言えることは、日本各地に巨大地震は間違いなく発生すると云うことだ。何故なら巨大地震の多くは大凡の周期で同一場所に繰り返し現れていることが知られているからである。

中でも代表的なものが「関東大震災」であり「東海地震」であり「南海地震」。最近記憶に新しいのは「阪神淡路大震災」「熊本地震」「東日本大震災」そして「能登半島地震」等である。

 

発生周期に長短の違いはあるが、複数のプレートの歪みによって引き起こされるが故に歪の解消が地震となり、次なる歪の蓄積が再び地震を呼ぶことになる。

つまり、地震大国の宿命を背負った我が国には、大小はあれどこれを避ける術はないということなのだ。

 

尚一層厄介なのはその到来する揺れを正確に予測することは人知を超えているということでもある。

今回の「能登半島地震」の驚異の破壊力を目の当たりにして、我が国の人々は何を感じ何を思ったのだろう?

このような破壊力に耐えうる建築物等恐らく不可能に違いない! 私は心底このような恐怖を感じた。

 

国民や国の安全な未来を託された【政府】はどう思ったのだろう? 

ただでさえ危険な『原発』を、幾多の活断層が散りばめられた国土の上に建築し稼働させる、、、。

安全だ安全だと何を根拠に主張するのか?

何か権益でも絡んでいるのか?

はたまたいつでも核兵器に転用させる技術保持のためか?

 

しかし如何なる思惑があるのかは理解できないが、危険極まりない宿命を有する国土の上に、民の生命を確実に脅かす原発を稼働させねばならない理由などどこにもない。

 

この国の運営(政治)高齢も後期に差し掛かろうとする老人達に牛耳られている。

世界はAIや革新的な技術革新によって飛躍的に進化している。多くの国々がこの流れに乗って大きく発展を遂げている。翻って我が国だけは主たる企業や組織が旧態然で、世界の潮流から取り残されようとしている。

 

私はここで若者に提言したい!

新しい時代は若者の時代ではないか、何故若者は動こうとしないのか?

何故若者達の手で時代を作ろうとしないのか?

若者が自らの手で国の未来を作ろうとせずして、他に誰が作れると言うのか?

 

せめて選挙の時くらいは参加して、自らの意志を示すべきだろう!!!

WEB上には自作のサイクロン集塵機が多く登場している。

自作の過程では部品選択や加工方法には、自分なりの凝った工夫も施されて参考になる作品が結構ある。

 

気になるのはその費用だが、これはピンキリだ。使用時の便利さや設置場所を考慮した大作もあり、各人のふところ事情も関係することであればそれは当然だろう。

したがって、作品の完成度に第三者があれこれ寸評する愚は避けることだ。

 

ところで、集塵機を呼ぶのに何故『サイクロン』を冠するのか?

サイクロンとは台風などの渦を巻く風を意味する。つまりは、集塵したゴミやチリを集塵機内で回転しながら下降させ溜め込む、という原理を表現しているのだ。

それ故手作り集塵機の胴体はすべからく円形なのである。

つまりは、風に回転を与えるためには丸くなければならない、当然の帰結である。

 

しかしである、私はこの当然の理屈を、始めるまで全く意識していなかった。後期高齢者に足を踏み入れた頭脳には、こんなことすら感受する能力が衰退していた。手を動かし始めて唐突に『サイクロン』の意味を理解した。哀しすぎるが今更嘆いても詮無いこと。恥を偲んでも尚前進あるのみニヤリ

 

今回私が購入した集塵BOXは「四角いゴミ箱」だったのだ。以下の画像を見てお笑いの程を。

ですが老いの厚顔さ・開き直り力には、年月に鍛えられ相当磨きがかかっている。つまり転んでもただでは起き上がらないのである。

 

萎みかけた(かけた?)頭脳を絞り尽くす。'果たしてサイクロン方式は一択なのか'と。

長期の人生経験は時に有用な情景を再現してくれる、マイナスばかりでもないのだ。

ふとゴルフの打ちっぱなし場で、柔らかなネットに当たったボールが落下して溜まる情景が浮かぶ。又関連して風になびく布のような生地に、当たった物体が飛び跳ねずに真下に落ちてゆくイメージが湧く。'これは使えるぞ!'。

 

そこで我が集塵機に取り入れた迷アイデアが以下の画像で紹介する『バスタオル集塵装置』である。

原理も見栄えも"ダサイ"ので、完成までの手順は遠慮させていただくが、機能は完璧に遂行してくれる。

作成過程は掲載画像を眺めながら自由に想像していただければ幸いである。

 

     

 

  

  

 

12月15日の明け方、愛犬との散歩から帰り着いてふと前方に視線を移すと、そこには湾内から立ち上がる見事な虹の橋があった。長い我が人生でもこれ程間近に、しかもこれ程鮮やかに彩られたものを見るのは恐らく初めてだろう。

 

画像ではその見事さが表現されているとは言い難いが、肉眼にはくっきりと写り込んでいたのだ。

太陽が発する炎の輝きが、何故これ程の美しい七色の光線となるのか・・・。

科学的には解明され説明され得るのだけれど、それでも尚私には神秘的で感動を呼ぶ存在なのである。

 

一日の始まりに際し、このような七色の神秘に遭遇すると、今日がポジティブな心境とならぬはずはない。

これは『棚からぼた餅』か、いやそんな俗っぽい表現はふさわしくない。

もっと神聖な心理、『神の祝福』、そう神からの贈り物ではないのか・・・。

 

          

アップルパイには何か人の味覚に訴えかけてくるような魅力を感じる。これはロールケーキにも同様にある郷愁のようなものだが、ケーキ作りの楽しさにハマってからはいつかはチャレンジしてみたいと思っていた。この世界に足を踏み入れて早20年程にもなってしまったが、パイ生地を練りリンゴを調理し成形し・・・と、この手間ひまが頭に引っ掛ってつい伸ばし伸ばしになっていたのだ。

 

しかし歳も重ねた最近になって、暇を持て余しての故か、はた又老い先を考えての由か定かではないが、一歩を踏み出す気になつたのである。

 

やってみると、やはり想像以上に時間を要する作業であった。加えて生地にバターを練り込む工程は温度管理がめちゃくちゃ大変! 程良い厚さ・長さで長方形に伸ばす。

綿棒の扱いも難しく、そば打ちをマスターしている私でさえスムーズにはいかない。

 

ところが私のようなモノ作り好きには、この難渋さが逆に興味とやり甲斐をもたらすのである。まだ3回か4回程度のチャレンジで、ずぶの素人の域を出るものではないが、味のランクは飛び切り高い。形の悪さは忘れ、やって良かったと心から喜べている。

 

今では「youtube」にて多くのプロが手ほどきをしてくれる。私は何百回も繰り返し視聴し、この中から主となる最良の師を求める。それ故技術は未熟でも味が極端に落ちることは防げるのだと信じている。

 

我がブログを訪れる方は決して多くはないが、たまに覗いていただける方にはぜひ勧めたい。アップルパイは生地から作ると「倍」楽しい! と。

では以下に当作品の画像を掲載しましょう(^_^)


  

 

  

 

「風の中の陰影」 

 

風は私に不幸だと言った 

どんなに美しい土地を超えても 

次に見るのは必ず人間の醜い争いだと言う 

 

人家の迫る小さな場所に 

幾千となくうごめく兵士と 

幾千となくきしめく武器を見たと言う 

まだ幼い面影を残した兵士が 

一瞬の炎の中に消えてしまったと言う 

 

長い人類の歩みの中で 

創造され磨き上げられた文明のあとも 

握りこぶしにも満たない小さな火薬の塊によって 

影も形も無くなったと言う 

 

燃え上がる巨大な火の海に襲われて 

狂ったように泣き叫び 逃げまどう人々の中には 

まだ生まれたばかりの子供を その腕に包むようにして 

抱きしめている母を見たと言う 

 

風は私に不幸だと言った 

人は 自由を守るために 

平和を守るために争うと言う 

 

風だけは知っている 

 

争いの中の不幸な人間の姿を 

武器を執った争いの 

前にも後にも 

真の平和が訪れないことを 

 

人間の考えの愚かさを笑って 

風は今日もこの頭上を過ぎて征く

 

私の中高時代は"ベトナム戦争"の激戦期、実に忌まわしい時代であった。

それから60年が経過した今、再びウクライナにてロシア軍による侵略が激化し、当時と同様の非人間的な戦闘が繰り広げられている。 

 

若き日の純真な心情で綴った悲しい詩が、今この時代にも違和感なく読めることが絶望的でもある。

 

 

支持する政党が与党か野党かと言う以前に、原発処理水の海洋投棄が何故安全と言えるのか、何故こんな理屈が罷り通るのか・・・・皆さんはおかしいと思いませんか?     

こんな理屈が罷り通るのなら、世界中の原発には万一の事態が起こったとしても、何の不安もない・・・と言うことになりませんか? 水で薄めて、いつでも海に捨てれば良いのですからね。

しかも少なくとも、今後30年の長きにわたって一国の政府がその安全を保障していくと、堂々と公言しているのですから。 

 

私は海の見える小山の中で暮らしています。海は広いようで実は案外狭いのではないでしょうか。

何故なら大雨や台風の後には、近隣の河川や山々から多くの木々やらゴミがあたり一帯の砂浜に押し寄せてきます。それらは決して大海原の四方八方に雲散霧消してしまう訳ではありません。これが例え液体ではあっても、海水の流れや風雨の影響によっては、ある領域に密集してしまうことだってあるのではないか・・・と想像されるのです。 

これが1回や2回であれば「そんなこともあるよね」で済むことかも知れませんが、考えてもみてください、こんなことが30年以上も続くことを! 

 

普通の頭、常識の範囲で考えても、何らかの影響が大なり小なりあるのではないかと思うのではないでしょうか。それでもないと言うのであれば、そのことは対象となる地域に向けて発するのではなく、広く世界に向かって発するべきでしょう。

 

『原発処理水は決して恐れるものではない、海水で思い切り薄めて廃棄すれば、人にも海洋の生態系にも決して害を及ぼさないのだ』 

 

これ程の覚悟と信念と科学的な知見がなければ、自国の人々に向けては当然ながら、世界の人々に対しても決してやってはいけない行為ではないか、こんな風に思うのは私だけなのでしょうか? 

皆さんはおかしいとは思いませんか?

 

 

 

 

 

母にすがって無邪気な日々を過ごしていたのはつい最近のことのように思える。

 

小学校・中学校・高校の半ば強制的な義務教育の時代、早く過ぎてしまえと思っていた時代も、今思えば一瞬の出来事という印象でしかない。

無味乾燥的な学びには、一抹の興味も感動も覚えることはなかった。

しかし社会人ともなれば、自らの意識は自ずと世の多くの出来事や現象に向かっていく。

興味の対象が拡大すれば、自ずと知ること・探求することへの喜びが理解できるようになる。これこそが真の学びの原点だと思う。

もっとも、学生時代にこの境地を得るような才が備わっていれば良かったのだが、今更悔いても仕方ない。

 

とは言え、現在私の有する知識や教養を決して過小評価している訳ではない。

18才で社会に出て、自分なりに自己啓発に励み多くの知識を身に付けた。

順風満帆なサラリーマン生活であったとは言えないが、それでも我が価値観や信念のようなものは曲げることなく貫けたと思う。

翻って考えれば、企業の大きな歯車の中にあっても十分に幸せな人生経験であったに違いない。

 

若い頃から心に抱いていた、オーバーに言えば我が「哲学」のようなものがあった。

"自分の価値はリタイア後のセカンドライフで決まる"というものだ。

世間では優秀なる評価を得ていたサラリーマン戦士が、リタイア後に生きがいを失って、またたく間に覇気のない老人と化してしまう。このような例が極めて多く認められた。

我が国では"企業に人生を捧げる"という生き方が礼賛されることが多い。

最近の若者には当てはまらないかも知れないが、我が年代ではそうであった。

しかしながら、良いか悪いかは別にして、自分の一生を自分以外のものに犠牲的精神で捧げる等、全く理解も納得もできなかった。

勿論与えられた仕事に義務や責任感を持って取り組むことは当然ながら、会社との関係はそれ以上のものではないと感じていたのだ。

 

セカンドステージを迎えることが、現役時代の最高の楽しみだったのである。
その為の準備は当然欠かせない。リタイア後の自分の価値を高めることは何か、これなくしては人生に満足して生を終えることなど考えられなかった。

 

この世に生を受けて75年が経過した今、確かに毎日が例外なくハッピーであるとまでは言えないが、それでも概ね色んな興味を持って、またそれなりの楽しみを感じながら一日一日を生きることができている。

素晴らしい友人を得ることもできている。

 

そして、人生は実に楽しいと神に感謝することができている。

 

生の終わりは知る由もないが、近頃は人生100年時代だという。

であれば、まだまだこの先25年もあるではないか!

後期高齢者バンザイ! ! !

 

 

 

 

 

 

玉川徹氏は現在ワイドショウや報道番組のコメンテーターの中では最も優秀な人材だと思います。持ってる知識の豊富さ、回転の速い頭脳から的確に紡ぎだされるコメントは、極めて理解納得できるものです。(数少ない発言のミスはありましたが)

 

浅薄な知識や場当たり的な思いつきで発言する一部の人たちは、さもそれが常識で正論でもあるかのように批判・攻撃します。

 

玉川氏の話をよく聞いていれば、その様な発言内容は勿論分かった上でのコメントなのに、彼らには話しの意味すら理解できていないようです。

 

しかし、私が?と思うのはこれら発言者に対してではなく、彼らのコメントをさも身近で聞いていたかの如く、間髪入れず克明に記事にしてオンライン化する輩のいることです。

つまり彼らは、片時も玉川氏のコメント画面から距離をおくことなく侍り、反発するコメントを集め、驚くほどに素早く批判記事を全国へ拡散しているのです。

これはとても一人や二人で出来る仕事ではありません。

 

私にはこれは、ある批判的意図を持った集団(グループ)の、計画的で継続的な仕業に思えてなりません。

 

とてもおかしなことだ、と思うのは私だけでしょうか?

 

日頃政治などには興味も関心も示さず、国の行く末を左右しかねない選挙には行ったこともないような人々が、オンライン上に流された怪しげなコメンテーターの言を、あたかも常識的なものででもあるかのように受け入れてしまうのではないかと恐れます。

 

その結果、有能な人材の抹殺等に繋がればとても不幸なことですし、こんなことが簡単に許されてしまえば、例えば一つの政党をつぶしたり、危険を孕んだ法案を通す為の世論操作さえも起こりかねません。これ程恐ろしいことはありませんよね!

 

皆さん、そうは思いませんか?